目覚めと代償のギプス、そして絶対者の影
「……っ、つぅ……」
目を覚ますと、真っ白な天井が視界に広がった。
鼻を突く消毒液の匂いと、規則正しい心電図の電子音。どうやらここは、三途の川のほとりではなく、現世の病室らしい。
体を起こそうとして、右腕に鉛のような重さを感じた。
視線を落とすと、俺の右肩から指先にかけて、呪符がびっしりと書かれた仰々しいギプスで完全に固定されている。動かそうとするだけで、骨の髄をバーナーで炙られるような激痛が走り、俺は思わずうめき声を漏らした。
「……気づいたか、バカヤロウ」
掠れた声がして横を向くと、ベッドの脇でパイプ椅子に座ったまま、真っ赤な髪の少女——紅刃が俺を睨んでいた。
いつもは凶暴な獣のように尖っている彼女の瞳が、今は赤く腫れ上がっている。徹夜で看病していたのか、目の下にはくっきりとしたクマがあった。
「ここは……」
「【魔術協会】が管轄してる、西東京市内の裏病院だ。オマエがぶっ倒れてから、丸三日も寝込んでたんだぞ」
俺の右腕を見る紅刃の顔が、ふいに歪む。
「アタシなんかのために、原初神相手にイカサマなんかするからだ……。オマエの右腕の神経と魔術回路、ズタズタに引き裂かれて、危うく壊死するところだったんだぞ。なんで……」
彼女がポロポロと涙をこぼしそうになった、その時。
「——統が目覚めましたか!!」
病室のドアがバンッ!と勢いよく開き、両手に山盛りのリンゴを抱えたセリアが駆け込んできた。
「統! ご無事で何よりです! この三日間、あなたの魂が冥界に引きずり込まれないよう、私が寝ずの番で祈祷を……」
「嘘つけエリート気取り! オマエさっきまでベッドの下で爆睡してただろうが!」
「なっ、私は瞑想による魔力回復を……!」
いつものようにギャーギャーと喧嘩を始める二人。
俺は痛む頭を押さえながら、ふと、口角が緩んでしまうのを止められなかった。
俺の愛する、騒がしくてちぐはぐな日常。右腕一本と引き換えにしたが、どうやら無事に守り抜くことができたらしい。
「お静かに。ここは病院ですよ、騒がしいお姫様たち」
コツン、とヒールの音を響かせて病室に入ってきたのは、白衣の上に黒いローブを羽織った魔女、イヴだった。
「お目覚めのようですね、新たなる王。いや……原初神の腕を吹き飛ばした、『狂気のパラドックス』と呼ぶべきですか」
イヴは眼鏡を押し上げ、カルテを見ながら淡々と告げた。
「結論から言います。あなたの右腕の【6】の権能は、最低でも『1ヶ月』は使用不可能です。軍神の矛盾を強引に引き起こした代償……神の刻印そのものがオーバーヒートを起こしています。次に無理に起動させれば、今度こそ右腕が塵となって消滅しますよ」
1ヶ月のクールタイム。それが、俺が最強の力と引き換えに背負ったリアルな代償だった。手札の最強カードが、しばらくの間完全に封じられたのだ。
「構わねえよ。当分、神様とケンカする予定はない」
俺がため息をつくと、紅刃がスッと立ち上がり、俺のベッドの前に片膝をついた。
「アタシは、『オウル』を抜けた」
紅刃が、真っ直ぐに俺の目を見る。
「組織を裏切った以上、アタシも世界中の簒奪者から追われる身だ。……だが、オマエが右腕を治すまでの間、アタシがオマエの右腕(矛)になってやる。命に代えてもな」
それは、凶悪な狂戦士からの、不器用すぎる絶対の忠誠の誓いだった。
「……言っとくが、ウチの食費はタダじゃないぞ。スーパーの特売日には荷物持ちしてもらうからな」
俺が皮肉交じりに笑うと、紅刃は少しだけ顔を赤らめて「……上等だ」とそっぽを向いた。
これで、一件落着。退院したら、また普通の(少しだけ異常な)高校生活に戻れる。
そう思っていた俺に、イヴが冷や水を浴びせるように口を開いた。
「素晴らしい覚悟ですが……残念ながら、平和な休日は今日までです。原初神に傷を負わせた新参の【6】のニュースは、瞬く間に裏社会を駆け巡り、世界のパワーバランスを崩壊させました」
イヴが指を鳴らすと、病室の空中に一枚のホログラム写真が投影された。
それは、日本のどこかの『空港』を上空から映した衛星写真。だが、滑走路は無残にすり鉢状に陥没し、周囲の旅客機がまるで紙くずのように吹き飛ばされている。
「統くん。【六王】という玉座において、絶対的な強さの指標が何か分かりますか?」
「強さの指標……手札の多さか?」
「ええ。ですが、それを決定づけるのは『時間』です。六王になると老化が止まり、寿命の概念から外れる。つまり、最高位の権能を引き当ててから『長く生きている』王ほど、より多くの神殺しを経験し、無数の手札をストックしているバケモノなのです」
イヴはホログラム写真の一部を拡大した。
陥没した滑走路の中心。そこに立っていたのは、白のスーツを着こなした、金髪の男だった。
写真越しでさえ伝わってくる、アレスとは違うベクトルの、背筋が凍るような圧倒的な『神威』。その男の周囲だけ、空間がぐにゃりと歪んでいる。
「【六王】の古参。王となってから『150年』を生き抜いている、重力と空間支配のバケモノ」
イヴの声が、静かに、そして残酷に病室に響いた。
「そして、紅刃。彼こそが、あなたを使い捨ての駒として扱ってきた過激派組織『オウル』の絶対的トップ——アルテアです」
「——っ!!」
その名を聞いた瞬間、俺の隣にいた紅刃が弾かれたように息を呑んだ。
彼女の顔からスッと血の気が引き、獣のように鋭かった瞳孔が、極限の『恐怖』に見開かれる。
「原初神を取り逃がしたオウルの失態の尻拭い、そして造反した裏切り者の処刑。……彼は昨日、自らの手で直接始末をつけるために日本へ上陸しました」
イヴの言葉が終わるか終わらないかのうちに。
俺たちのいる病室の空気が、唐突に「何十倍」にも重くなったような錯覚に陥った。
いや、錯覚ではない。コップの水が斜めに傾き、窓ガラスがミシミシと不気味な音を立てて軋み始めている。
「まさか……もう、ここまで……?」
紅刃がガタガタと震える手で自身の腕を抱きしめた。
右腕の使えない最弱の王様の前に、歴150年という絶対的な経験値と暴力を持つ『重力の王』が、息をつく暇もなく迫ろうとしていた。




