交渉
再びバスの車内。
「要求を呑んでいただかなければ、ここにいる方々が多かれ少なかれ死ぬことになる。それは僕の気持ちが変わろうと、変わらないこと。そう……『あの方』が決めたのだから……」
香川の声には、どこか投げやりな、それでいて逃れられない呪縛に囚われたような響きがあった。
もう、自分ひとりの意思ではこの歯車を止められない。
香川はそう、稲取に告げる。
「その『あの方』っていうのがお前たちのリーダーなんだな? 名前は……誰だ?」
少しでも情報を引き出そうと、稲取が躍起になって問う。
しかし、返ってきたのは空虚な響きを持つ答えだった。
「ジョーカー。……僕たちは、そう呼んでいます」
「……本名さえ知らないのか」
稲取が苦々しく頭を抱える。
巨大な組織において、末端が幹部の素性を知らないことは珍しくない。
しかし、幹部である香川ですら実名も顔も知らないとなれば、それは徹底した秘匿化がなされている証拠だ。
(かなり頭の良い人間がトップに立っているみたいだね……)
北条は冷静に分析しながら、稲取の手元に一枚のメモを置いた。
そこには『コードネームを引き出せ』と簡潔に書かれている。
稲取はそれを見、再び受話器を握り直した。
「じゃあ、お前は何と呼ばれていた? 幹部同士、互いをどう認識していたんだ」
「僕は……『シャドウ(影)』。文字通り、影に潜んで警察の情報を引き出すのが役目だ」
「じゃあ……桜川は?」
「彼女は『ドクター(医師)』。そのままだな。……バスは間もなく都庁に向かう」
バスは次々と警察の封鎖を擦り抜け、新宿のビル群を目指す。
「あと、幹部は何人いるんだ?」
「それは……分からない。他に僕が知っているのはひとり。『スナイパー(狙撃手)』がいるらしい、としか……」
「いる『らしい』、か……」
北条は稲取のメモに、『OK。これ以上は無理に聞き出さなくていい』と殴り書いた。
深追いは警戒を招く。稲取も小さく頷き、話の矛先を変えた。
「香川。犯人の引き渡し場所が決定した。東京都庁だ」
「……え?」
その瞬間、香川の声に明らかな動揺が走った。
「確かなんだな?」
「あぁ。お上の判断だ。今、北条が犯人たちを乗せた車に同乗して、都庁に向かっている。犯人と引き換えに、必ず人質を全員解放してもらう。それが条件だ。いいな?」
「あ、あぁ……。ええ、そうするように言われている」
香川の返答には、戸惑いが隠せていなかった。
(……なるほどな。コイツ、作戦が「失敗」した時の行動しか指示されてねぇんだ。だから「予定外の成功」に脳が追いついてねぇ……)
最後尾の座席で、虎太郎は香川の僅かな狼狽を敏感に感じ取っていた。
刑事として優秀だった香川にとって、警察がこれほど容易く屈するという「異常事態」は、計算の外だったのだ。
(少しずつ、噛み合わせが狂ってきてるぜ。だが、まだだ。俺は「その時」まで死んだふりをしてやるよ……)
自由になった両手を隠し、虎太郎は獲物を待つ獣のように目を細めた。




