告白
司が戻ってきたことを確認すると、北条の表情がわずかに曇った。
「あぁ……おかえり、司ちゃん。どうだった?」
「えぇ。高橋警視監、お力になってくれるそうです」
「それは良かった。さすがは司ちゃんだね……」
「それで……こちらは?」
「うん……」
北条は言葉を濁した。
出来れば司には、この『8年前の事件』の話題は聞かせたくなかった。
司もまた、あの忌まわしい事件で、かけがえのない大切な人を失っているのだから。
しかし、スピーカーから流れる悲痛な叫びを止めることはできなかった。
「警察は、事件を解決させるために、現場の近くにいた母を見殺しにしたんだ! 助けられる時間はあったはずだ! 爆発した直後だって、すぐに救助に行けたはずなのに……それを!」
香川の慟哭に近い訴えを聞き、司の瞳が大きく揺れた。
「それって……8年前の事件のこと……?」
「……うん」
「もしかして彼も、あの事件の関係者なの……?」
「あぁ。お母さんを亡くしたらしいんだ」
「そう……ですか」
司はそれ以上言葉を続けられず、静かに俯いた。
志乃と悠真が困惑したように顔を見合わせる。
「ねぇ、志乃さんは知ってるの?」
「事件はニュースで見たけれど、詳細までは……」
当時、志乃や悠真、そして虎太郎はまだ警察官でさえなかった。
それでも、東京中を震撼させた大事件として、大雑把な概要くらいは記憶に残っている。
「確か……巨大密輸組織の検挙のために突入した海沿いのビルが大爆発の末に倒壊して、多数の死傷者を出したっていうニュースだったはず……」
志乃が端末を叩き、当時のアーカイブを検索する。
「……これ、ですね」
志乃が一つの記事をメインモニターに映し出した。
『東京湾岸ビル、警官突入後に大爆発。民間人5人死傷、刑事1名行方不明』
モニターの文字を見つめながら、北条が拳をきつく握りしめる。
「……僕も稲取くんも、そして司ちゃんも、この事件の捜査チームにいたんだ」
それは、北条がまだ捜査一課で、若き天才として最前線を走っていた頃の凄惨な記憶。
「稲取さん、どうして今まで黙っていたんですか?」
香川が、静かに、だが鋭い刃のような声で稲取に問う。
「……あの事件は、警察官の、刑事が抱える『無力さ』を浮き彫りにした事件だった。若手に武勇伝のように語り継ぐようなもんじゃねぇよ、あれは……」
稲取の表情には、深い後悔と苦悶が滲んでいた。
「そうですか……。まさか、あなたまで母を見殺しにした刑事の一人だったなんて。幻滅ですよ」
「なっ……! 俺は見殺しになんてしてねぇ……!」
「うるさい! 結果、母は帰ってこなかった! 現場に刑事がいて、命を救えなかった。……それは見殺しにしたのと同じことだ!」
稲取の言葉をかき消すように、香川の叫びが司令室に響き渡る。
「本当なんだよ、香川くん。あの時、稲取くんは本当に最後まで……っ」
北条がたまらず割って入ろうとするが、それを稲取の手が制した。
「……いいんだ、北条さん。あいつの言う通りだ。結果として、俺は彼のお袋さんを救えなかった。それがすべてだよ」
稲取の低い、絞り出すような声が司令室に沈む。
バスの車内では、香川が肩で息をしながら起爆装置を握りしめている。
一方、最後尾でそのやり取りをすべて聞いていた虎太郎は、拘束された腕に力を込めた。
(……そういうことかよ。香川、お前の『復讐』の正体は……)
点と線が繋がっていく。 8年前の爆発事件。行方不明になった一人の刑事。
そして、警察への憎悪。
すべての「過去」が、今、走るバスという密室の中で一つに収束しようとしていた。
北条が静かに立ち上がる。
「……司ちゃん。高橋のオッサンに伝えて。――準備を急ごう。これ以上、香川くんに『絶望』を重ねさせるわけにはいかない」
「それで犯罪組織に手を貸したってわけか……下らねぇな」
無線から流れる北条たちの対話と、目の前で毒を吐く男の言葉。
そのすべてを繋ぎ合わせた虎太郎が、床に転がったまま吐き捨てるように呟いた。
「……なんだと?」
その一言が、香川の逆鱗に触れた。
彼は獲物を狙う獣のような足取りで、ゆっくりと後部座席へ迫る。
「ひ、ひぃっ……!」
「く、来るな! 撃たないでくれ!」
限界まで追い詰められた乗客たちが、悲鳴を上げながら一箇所に固まる。
銃と爆弾を身に纏った「死神」の接近。
無理もない恐怖だった。
だが、虎太郎だけは、額から血を流しながらも香川を真っ直ぐに射貫いた。
「聞こえなかったか? ならもう一度言ってやる。お前の復讐ごっこは『下らねぇ』って言ったんだよ!」
「この……ッ!」
香川が逆上し、拳銃の銃身で虎太郎の頭を殴りつけた。
鈍い音と共に、虎太郎の額から鮮血が吹き出す。
「口を慎め。お前の命も、ここにいる全員の命も、僕が握っているんだ!」
「あぁ、そうだな。事実だ。……それがどうした? 命を握ってりゃ偉いのか?」
「……ッ!」
逆なでされるたびに、香川は虎太郎の腹を、背を、容赦なく蹴りつける。
鈍い衝撃音が車内に響くが、虎太郎は呻き声ひとつ上げず、ただ不敵に笑って見せた。
「やめてくれ! 死んでしまう!」
「彼はもう抵抗できないんだ、お願いだ!」
乗客たちが泣きながら香川をなだめ、虎太郎を庇おうとする。
肩で激しく息をしながら、香川は憎悪に満ちた目で虎太郎を見下ろした。
「……警察が親御さんを助けてくれなかった。だから復讐だ? お前、自分が今何をやってるか分かってんのか。警察官が民間人を殺して、何が正義だ」
「僕は……『組織』のスパイとして、大儀のために……」
「大儀だぁ? 笑わせんじゃねぇ。お前、刑事として今まで困ってる人を助けてきたんじゃねえのかよ! 目の前の人を守るために、泥にまみれて走ってきた日々まで全部偽物だったって言うのか!」
虎太郎の怒号が、バスの窓を震わせる。
「ここにいる乗客たちにだって家族がいる。万が一お前がこいつらの命を奪ってみろ。お前みたいな『復讐の怪物』が、また新しく生まれるだけだろうが! そんな連鎖も分からねぇのかよ!」
香川の動きが、凍りついたように止まった。
「大切な人を亡くした。それは辛いだろうよ。同情もする。だがな、お前が他人の大切な人を奪っていい理由になんて、万に一つもなりゃしねぇんだよ!」
『そうだぞ香川! お前はまだ誰も殺していない。まだ引き返せる場所に立っているんだぞ!』
無線の向こうから、稲取の声が重なる。
枯れ果てそうな声を振り絞り、かつての愛弟子へ魂の叫びをぶつける。
「引き返す……だと……?」
『あぁ! スパイとして情報を漏らした罪は重い。だが、直接手を下していないのなら、まだ償う道はある! お前の恨みは俺が全部受け止めてやる。だから……バスを止めろ、香川ぁ!!』
その時、虎太郎の背後で、縛られていた手首の縄が「ぷつん」と音を立てて緩んだ。
議員が指を血に染めながら、必死に解き続けてくれた成果だった。
(……ようやく来たぜ。北条さん、合図をくれ。この迷い子を、ぶん殴ってでも連れ戻してやる)
バスは、不気味なほど静まり返った湾岸の直線道路へと滑り込んでいく。
「稲取さん……貴方に僕の絶望の、何が分かると言うんですか……」
香川の声から、先ほどまでの鋭利な殺気が消え、湿り気を帯びた迷いが漏れ出した。
「分からねぇよ!!」
受話器が壊れんばかりの声で、稲取が怒鳴り返す。
「……っ!」
「分からねぇから言ってんだ! 事情を全て知って同情しちまったら、俺は情に流されてお前を止められなくなる。だからあえて言わせてもらう。事情なんて知るか! 今のお前はただの迷い子だ!」
「何を、勝手なことを……」
「勝手で結構だ! お前を真っ当な道に引きずり戻して、それからたっぷりお前の話を聞いてやるって言ってんだよ! 刑事としてはもう付き合えねぇが、ひとりのうるさい親父として、死ぬまでお前と向き合ってやる。……だから、戻ってこい、香川!!」
司令室に沈黙が走る。
その直後、志乃が目元を拭い、悠真が鼻をすすった。
「稲取さん……」
「一課長、めちゃくちゃカッコいいじゃん……」
北条はモニターを見つめたまま、小さく口角を上げた。
「交渉術としては零点だ。感情に任せて犯人を怒鳴りつけるなんて、人質の命を危険にさらす自殺行為だよ。でも……」
北条は、愛弟子の変貌に心を痛める稲取の背中を見つめる。
「普通のバスジャック犯ならね。香川くんにとって、稲取くん以上の適任はいない。理屈じゃないんだ、彼は自分の存在を『一人の人間』として見てくれる誰かを、ずっと探していたんだから」
『でも……もう、遅いんです。僕はもう『神の国』の人間だ。一度足を踏み入れた以上、もう戻る場所なんて……』
(おいおい、スゲーな稲取のジジイ。あの香川をここまで揺さぶるとはよ……)
バスの最後尾。香川の背中がわずかに震えるのを見逃さず、虎太郎は勝機を確信した。
「なぁ……そこにあるソムリエナイフ、取ってくれねぇか。アイツに見つからないうちに……」
虎太郎は、固まって怯える乗客たちに低く、鋭く囁いた。ここが転機だ。
「わ、分かった……」
「私が壁になろう。刑事さん、頼むぞ……」
右手を撃たれたあの会社社長が、痛みに耐えながら虎太郎の前に座り込み、巨体で香川の死角を作る。
その影に隠れて、一人の女性客が震える手で虎太郎の背後にソムリエナイフを差し入れた。
「何なら、私が縄を切ろうか?」
「いや、いい。バレた瞬間にあんたたちが撃たれる。ナイフだけ渡してくれれば、あとは俺がじっくり切って、縛られたままのフリをしておく。……いざとなったら俺が飛び出す。だから皆、上手くしらばっくれていてくれ」
掌に冷たい金属の感触。
虎太郎はナイフを握り込み、指先の感覚だけでロープの繊維を断ち切り始めた。
拳銃、そして衝撃感知式の爆弾。
ハードルは依然として高い。
だが、虎太郎の瞳には「必ず仕留める」という野生の光が宿っていた。




