作戦
「さて、では我々の要求を発表するとしよう」
大型ビジョンに映る蠍の紋章が、あざ笑うかのように明滅する。
都内の警察署、そして警視庁本部の至る所で、全警察官の視線がその映像に釘付けになっていた。
「くそ……完全に足下を見やがって……!」
稲取が拳を血が滲むほど握りしめ、怒りに震える。
「落ち着いて、稲取さん。相手は一方的な映像配信よ。今ここで私たちが興奮しても、火に油を注ぐだけだわ」
司が冷徹なまでに冷静な声で稲取を制しながら、モニターの隅々まで分析の目を光らせる。
『我々『神の国』は、本宮和也と、桜川雪の釈放を要求する』
「……え?」
「まさか……あの二人だけ、だと?」
志乃と悠真が顔を見合わせる。
以前の銀行立てこもり事件では、組織関係者の大規模な釈放を求めてきた『神の国』が、今回は名指しで、たった二人の身柄を要求してきたのだ。
「……僕は一度、司令室に帰るよ。どうも雲行きが、予感以上に怪しくなってきた」
浅草の雑踏でスマホを握りしめていた北条が、翻るコートを抑えながら駆け出した。
タクシーに飛び乗り、司令室へと急ぐ。
(本宮と雪ちゃん……。無差別に仲間を助けるのではなく、あえてあの『特級の凶悪犯』二人に絞ってきたか。これは単なる人質交換じゃない……)
北条の胸を、言いようのない嫌な予感が支配していた。
「ふざけるな! あんな凶悪犯を二人も野に放てだと? そんな要求、呑めるわけが……」
「……検討いたします」
稲取の怒号を遮り、司が通信マイクに向かって、淀みのない声で答えた。
「おい新堂! お前、気が狂ったか!」
詰め寄る稲取。
だが司は表情一つ変えず、彼の手元に一枚のメモを滑らせた。
『即答は得策ではありません。安易な拒絶は人質の命を縮めます。今は検討を装い、時間を極限まで引き延ばしましょう。』
「……っ」
稲取は吐き出すような溜息をつき、渋々と頷いた。
『特務課の司令官殿は優秀だ。申し出を断ればどうなるか、よく理解しておいでだ』
バス車内のスピーカーから、香川の不敵な嘲笑が漏れる。
「……それで、私はどう動けばいいの?」
司は、先ほど北条が無線で放った言葉の真意を、今この瞬間に理解した。
(私が交渉するのは、警察の上層部……。つまり、現場の反対を押し切ってでも『二人の釈放』を形式上進めるための、内部交渉をしろということなのね……)
だが、司の心にはまだ迷いがあった。
(それでも……北条さんが本当に、あの二人の釈放を許すなんて、あり得るかしら……)
誰よりも冷徹に、そして誰よりも熱く事件を追ってきた北条。
彼が、多くの血を流して捕らえた犯人を簡単に手放すはずがない。
司は一つ、深く息を吐き、自分に言い聞かせた。
「北条さんを信じるしかないわね」
「……『上階』に行ってきます。稲取さん、取り乱さずにこの場を維持してください。もうすぐ北条さんがここへ戻りますから……」
司は一瞥をモニターに投げると、警視庁の権力者たちが集まる会議室へと向かうべく、司令室を後にした。
『――期日は特に設けない。設けないが……現状を考えれば、自ずと答えは出るだろう。バスはあとどのくらい走れるのか? 負傷者がいる場合、あと何日持つのか。優秀な諸君なら容易な計算のはずだ。つまり……それが期限だ。さぁ、賢明な判断と迅速な行動を期待するよ……』
不気味な声が消えると同時に、都内の大型ビジョンは一斉に砂嵐へと変わった。
「畜生……っ! どこまで舐め腐りやがって!!」
稲取が力任せにデスクを叩き、通信機が跳ねる。
「一課長、落ち着いてください。……ここは、あなたにかかっています」
激昂する稲取の隣で、志乃がその眼差しを真っ直ぐに向け、静かに、だが峻烈に告げた。
「香川さんと対話し、彼を現世に繋ぎ止められるのは、長年共に歩んできた一課長、あなただけなんです。彼が完全に血迷う前に、言葉を届けてください」
「……そんなこと、分かってる。分かってんだよ!」
稲取は振り絞るように答え、肩を震わせた。
「それなら、いいです。……現在、バスは首都高を避け、国道を低速で走り続けています。同じ経路を周回しているところを見ると、現時点で明確な目的地はありません。おそらく、バスは止まりません。燃料が尽きるか、要求が通るか。そのどちらかまで」
志乃の指先がキーボードを叩き、モニターにはバスの予想航続距離と、負傷者の容態悪化曲線をシミュレートしたグラフが非情なまでに赤く表示される。
「一課長。あなたの言葉一つ一つに、人質の命、そして私たちの仲間である虎太郎くんの命がかかっているんです」
「……っ」
稲取は息を呑み、言葉を失った。
司令官としての重圧が、物理的な重さとなってその背中にのしかかる。
「大丈夫です。私たちが全力でサポートします」
志乃の声に呼応するように、悠真が複数のウィンドウを次々と立ち上げる。
「バスの予測経路、周辺の遮蔽物、さらにはSNSでの世論の過熱度……すべてリアルタイムで更新していきます。一課長、あなたはこの情報の海を見据え、現場の指揮を執ってください」
「おい、ちょっと待て……。俺がやるのか?」
「そうです。稲取一課長。あなたには『特務課司令官代理』として、この事件の指揮を執っていただきます」
志乃の揺るぎない言葉に、稲取は狼狽した。
「北条さんが戻ってくるんだろう!? 彼が戻れば……」
「北条さんは戻ってきます。ですが、彼はあなたに留守を任せた。それは現場の全権をあなたに託したということです。北条さんには、彼にしかできない別の『役割』があるはずですから」
稲取は、改めて司令室を見渡した。
目まぐるしく流れる膨大なデータ。
飛び交う無線の怒号。
(こいつら……これほどまでの情報密度の中で、常に正解を選び続けてきたのか……)
特務課という集団の、狂気とも言える高い能力と、
それを統率してきた北条と新堂の凄みを、稲取は今さらながら肌で感じていた。
「……ふん。やってやろうじゃねぇか。あいつらに『捜査一課長』の意地を見せてやる」
稲取が、ゆっくりと、だが力強く司令官の椅子に腰を下ろした。
その頃、警視庁の正面玄関に、一台のタクシーが急ブレーキを鳴らして止まった。
後部座席から飛び出してきた北条は、ネクタイを緩め、大型ビジョンが消えた後の夜空を一瞥する。
「……待ってろよ、香川くん。君の『真の目的』、僕が暴いてあげるからね」
北条の瞳には、すでにバス車内を透視するかのような鋭い光が宿っていた。




