神の国
「そろそろだな……」
香川が手元の時計を睨む。
浅草への到着予定時刻は19:00。
予定を大幅に過ぎ、針は20:00を回ろうとしていた。
香川はおもむろにイヤホンマイクを装着し、どこかへ電話を発信する。
「……入電です!」
司令室のモニターに、緊急入電を知らせる赤いシグナルが点滅した。
「音声、回して!」
司の鋭い指示で、志乃が即座に通信指令室と回線を直結させる。
『――現在、浅草周辺を走行中の観光バスをジャックした』
スピーカーから流れてきたのは、紛れもなく香川の声だった。
「香川刑事本人からの入電です!」
志乃が報告するが、無線で傍受していた北条は、暗闇の中で眉をひそめた。
(わざわざ警視庁に通報……? 香川くん、何を考えているんだ)
単独の逃走や暗殺が目的ならば、沈黙を守り、機を見て目的を遂行すればいい。
虎太郎の自由を奪い、都議会議員や大企業の社長といった、警察が最も手出ししにくい「盾」をこれ以上ないほど手中に収めているのだから。
「そうか……それが狙いか」
北条の表情が、一気に険しくなる。
「俺だ、稲取だ! 電話を特務課に回せ! 香川と直接話がしたい!」
稲取が通信指令室へ内線を叩き込み、荒々しい声を上げた。
部下の凶行を、自分の手で食い止めたい。その一心だった。
「稲取さん、気持ちはわかりますが、あなたが話しても逆効果になる可能性が……」
「いいや、その作戦でいこう。稲取くん、できるだけ落ち着いて彼と話をしてくれ。その間に僕たち特務課で状況を打開する策を練るから」
制止しようとした司を、北条の声が遮った。
「でも、北条さん……!」
司の懸念はもっともだった。
バスジャック犯の逃走率は極めて低い。
追い詰められた人間は、いつ爆発して最悪の結末を選ぶかわからない。
「……ここは、彼の犯罪の背景をもう少し深く探るべきだ。相手が稲取くんなら、香川くんもつい口を滑らせるはずだよ。彼は稲取くんを尊敬しつつも、心のどこかで『いつか超えるべき壁』だと思っているからね。対等、あるいはそれ以上の立場で言葉を返してくるはずだ」
「それが、どういうことに……?」
「それに、彼は単独犯じゃない。組織の一員として動いている。事件を起こすのにこれほど時間を気にしているのは、警察への要求を突きつけるタイミングを計っているか、あるいは何かの『時間稼ぎ』だ」
北条はドローンの映像越しに、香川のわずかな視線の動きを見逃さなかった。
(また『神の国』の差し金か……? それとも……)
特務課の司令室に、最悪の心理戦の火蓋が切って落とされた。
「香川、何が目的なんだ!一課の刑事がバスジャックなんて、そんな意味のない真似はやめろ!」
稲取の悲痛な叫びがスピーカーを震わせる。
「意味、ですか? ふふ……稲取さん、貴方はいつも面白いことを言う」
香川が鼻で笑う。
その声には、かつての敬意の欠片も残っていない。
「そろそろ時間ですね。東京中の大型ビジョンを見守っていてください。僕がこのバスを奪った『真の意味』が、嫌でも理解できるはずです。一秒も見逃さないように……」
(大型ビジョンだと……!?)
虎太郎の無線越しに香川の言葉を拾っていた北条は、即座にスマホを取り出した。
「この近くの大型ビジョン……駅ビルか!」
浅草駅周辺、走れば数分。
北条は息を切らしながら雑踏を駆け抜けた。
「あさみ、辰さんはそのままバスの追跡を続行! 悠真くん、都内の大型ビジョンのシステムに潜り込んで、映像を司令室に共有してくれ。全課に回すんだ!」
『了解!』
『はいよ!』
『オッケー、一番抜きやすいのは渋谷のスクランブル交差点かな。今すぐスタンバイするよ!』
メンバーたちの返信が重なる。
北条の予測が事態の核心を突き始めていることを、全員が本能で察していた。
「司ちゃん、これは僕の予測だけど……警察、いや国家に対して無理難題が突きつけられるはずだ。上層部がパニックになる前に、上手く立ち回って時間を稼いでほしい。警視庁の中で、あの狸たちを御せるのは君しかいない!」
「……どこまでできるか分からないけれど、了解よ」
司は、かつて交渉人として数々の修羅場を潜り抜けてきた。その経験に、北条は特務課の運命を預けたのだ。
「私が、香川と交渉を……?」
「いいや、君が交渉するのは『警視庁のお偉いさんたち』だ」
「……え?」
困惑する司を置き去りにするように、都内の夜景が変貌した。
華やかな企業の広告、賑やかなアイドルのMV――それらが一瞬でノイズに消え、東京中の巨大スクリーンが、同時に「同じ映像」を映し出す。
漆黒の背景に浮かび上がる、鈍色に光る蠍の紋章。
「……やっぱり、『神の国』か……」
北条は、駅ビルの前で足を止め、その巨大な悪意を見上げた。
『――愚鈍なる日本国民諸君、ごきげんよう。我々は『神の国』。この腐敗した日本を救い、新しき神の世を拓くための、至高なる導き手である』
その朗々とした、どこか芝居がかった独特の節回し。
北条の脳裏に、あの日の血の匂いが蘇る。
(この話し方、あの集団自殺事件の……!)
多くの命が目の前で散った、あの忌まわしい事件。
その引き金を引いた扇動者と、喋りの癖が酷似している。
『現在、都内を一台のバスが走行している。乗客は、都議会議員、大企業の取締役……いわゆるVIPばかりだ。今回は彼ら全員の命を、交渉のテーブルに並べさせてもらおう』
大型ビジョンに映る蠍の影が、夜の東京を嘲笑うかのように不気味に蠢いていた。




