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SEVEN~警視庁特務課~  作者: 桂木 京
第6話:人間の可能性

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奈美との記憶

それから約二時間。

死者の沈黙に支配されていた虎太郎の部屋には、数日ぶりに人の声が響き、眩しいほどの光が満ちていた。


「司令、料理うまーい!!」


「当然よ。何年独身やってると……まあいいわ、食べなさい」


司が冷蔵庫にある乏しい食材を魔法のように使い、見事な一皿を作り上げていた。


「買ってきたぞー! 面倒くせぇからケースごとだ。割り勘だからな、残すなよ?」


「ついでにジュースも補充しておいたよー!」


辰川と悠真は、両手に抱えきれないほどの飲み物を運び込み、空の冷蔵庫を埋めていく。


「明日は燃えるゴミの日……ですよね? 帰りにまとめて捨てていくので、ゴミ袋、ここに置かせてくださいね。あと、洗濯物は干せる分だけ洗っておきましたから」


志乃は荒れ放題だったリビングを整え、放置されていた衣類を次々と洗濯機にかけていた。


「みんな、こんな夜中にそこまで……」


あまりに手際の良い、迷いのない「特務課」のチームワークに、虎太郎は呆然と立ち尽くす。

自分の部屋なのだから、少しは動かなければと腰を上げた虎太郎だったが。


「今さら立ち上がったって、もうやることないわよ。テレビ見ましょ!」


あさみがその肩を強引に押し戻し、ソファへ座らせた。

北条は、冷蔵庫の奥に眠っていた缶ビールを手に取ると、


「グラス、借りるよ」


と食器棚から三つのグラスを取り出し、テーブルの上へ等間隔に並べた。

そして、琥珀色の液体を丁寧に注いでいく。


「なんで……三つなんだ?」


「一つは僕の分。一つは虎の分。そして、もう一つは……」


メンバーたちが、それぞれ飲み物の入ったグラスを手に取り、静かに虎太郎を囲む。


「……奈美ちゃんの分だよ。まだ、僕にとって事件は終わっていないんだ。遺族へ報告し、被害者へ犯人逮捕を伝える。……『仇は取ったよ』と報告して初めて、僕の捜査は完了するのさ。今回は、みんなにも付き合ってもらおうと思ってね」


「北条さん……」


「あ、いけない。間違えた。奈美ちゃん、ビールは苦手だったよね。辰さん、頼んでおいたワインは?」


「あるぜ。取っておきのやつだ! ……しっかり割り勘だぞ」


辰川が差し出したお洒落なハーフボトルの赤ワイン。

それを受け取った北条は、志乃が用意したワイングラスへ、ルビー色の液体を静かに注ぎ込んだ。


「……これでよし。結局、奈美ちゃんとはビール、飲めなかったなぁ……」


いつか三人でビアガーデンに行こう。

あの時交わした約束の温度を、北条は今も手のひらに覚えている。


「奈美ちゃんとの約束は果たせなかったけれど……ビアガーデンがオープンしたら、代わりに虎を連れて行くよ。それでいいよね、奈美ちゃん?」


北条は、誰もいない空間に向けて、愛しげな、けれどどこか寂しげな眼差しを向けた。

そして、カチンと小さな音を立てて、自分のグラスを彼女のワイングラスへと重ね合わせた。


それが、止まっていた虎太郎の時間を、再び動かすための儀式であった。



賑やかな喧騒が部屋の奥から漏れ聞こえてくる。

しかし、虎太郎はその輪の中に一歩を踏み出すことができずにいた。


婚約者を亡くし、その身を焼くような喪失感の中にいる自分が、笑い声の響く場所に身を置くことなど許されない。

そんな強固な拒絶が、彼の心を縛り付けていた。

特務課の面々も、そのことは痛いほどに解っている。

彼が抱える悲しみの深さを察しているからこそ、誰も無理に彼を輪へ引き戻そうとはしなかった。


「……じゃあ、なんで僕たちはここに来たんだろうね。彼らも、そして僕も」


独りベランダで夜風に当たり、グラスを煽る虎太郎の隣。

いつの間にか北条が音もなく並んでいた。


「ちょっとだけ、邪魔をさせてもらうよ」


虎太郎は応えない。

それでも北条は構う様子もなく、手元にある新しい缶ビールの栓を、静かな夜に響かせる。


「きっと、こう思っているだろう? まだ気持ちの整理なんてつくはずがない。頼むから放っておいてくれ……とね」


「……」


やはり、虎太郎は沈黙を貫いた。

もし「そうだ」と肯定してしまえば、自分を繋ぎ止めている最期の糸が切れて、何か大切なものを永遠に失ってしまうような、そんな予感があった。


「まあ……僕だってそう思うよ。奈美ちゃんは本当に良い子だった。彼女が命を奪われたことには、僕だって腸が煮えくり返るほど腹を立てている。犯人をこの手で殴ってやりたいと、何度思ったことか……」


そんなに腕っぷしは強くないんだけどね、と北条は両手をひらひらさせて自嘲気味に笑った。


「でもね……最初に言った通り、事件はまだ解決していない。奈美ちゃんの他にも、二人の遺族がいる。彼らにも犯人逮捕を報告し、その悲しみに寄り添わなければならないんだ。たとえ犯人が捕まったとしても、殺人事件の遺族の心の傷は、完全には塞がらない。昨日まで隣で笑っていたはずの、血を分けた家族を失うんだからね」


深夜の凍てつく風が、肌に鋭く突き刺さる。

それでも、二人は温かな部屋の中へ戻ろうとはしなかった。


「俺……もう刑事は続けられねぇ」


「そっか……。うん、まあ、それも一つの選択肢だ。君が本当に刑事を辞めたいと願うなら、僕は新しい門出を全力で応援するよ。たまには僕の飲みに付き合ってほしいけどね」


虎太郎が絞り出すように放った言葉を、北条は一切否定しなかった。


「……復帰しろと、説得しに来たんじゃないのか?」


「え? 僕、そんなこと言ったかな」


「いや……言ってないけどさ……」


てっきり、特務課の連中は自分を戦線に戻すために現れたのだと虎太郎は思っていた。

奈美の事件以来、捜査に貢献するどころか、職務すら放棄していた自分を叱咤しに来たのだと。


「半端な気持ちで現場に戻れば、いつか君は命を落とすことになる。それは僕たちの本意じゃないんだ。中途半端に迷うくらいなら、スパッと辞めて警察とは無縁の仕事に就けばいい。君はまだ若い。転職先なんて山ほどあるさ」


北条は冬の夜空を見上げながら、さらりと言ってのけた。

その言葉の奥にある「覚悟」を虎太郎に委ねるように。


「じゃあ、何しに来たんだよ、本当に……」


拍子抜けしたような、呆れたような虎太郎の呟きに、北条は楽しそうに目を細めた。


「僕はね、昔話をしに来たんだ。……まあ、そんなに昔の話でもないんだけどね」


北条は視線を夜の街に戻し、穏やかな口調で続ける。


「虎と奈美ちゃんの出会いって、派出所勤務時代だったんだって?」


「……ああ」


虎太郎の脳裏に、かつての騒がしくも平穏だった日々の記憶がかすかに蘇る。


「大した事件なんて起きない、あっても本庁の刑事に手柄を横取りされるだけ。そんな退屈な派出所勤務の君に、奈美ちゃんは惚れたそうだよ。それで、勇気を振り絞って話しかけたんだって」


「あいつ、そんな話……いつ北条さんに?」


「君が酔っ払って、僕より先に寝てしまった夜だよ」


「う……」


初めて北条をこの部屋に招いた夜。

奈美は嫌な顔一つせず二人を迎え入れ、心を込めた料理を振る舞った。

虎太郎が先に潰れた後、北条は奈美と二人、静かにグラスを傾けながら彼女の想いを聞いていたのだ。


「普段は素行の悪い気だるそうな男。口も悪いし乱暴そうだし、この人は本当に警察官なんだろうか……最初、彼女はそう思っていたらしいよ。でもね」


その話をしていた時の奈美の慈しむような微笑みが、北条の脳裏を過る。


「ある日、小さな子供が五十円玉を届けに派出所に来ただろう? その時の君を見て、奈美ちゃんは恋に落ちたんだって」


「……あぁ、あの時の……」


後にも先にも、そんな小さな硬貨の遺失物届けを受けたのは一度きりだった。


「『小さなこと、些細なこと、自分に都合の悪いことは、大人はすぐに目を逸らしてなかったことにする。でもお前は、この五十円をちゃんと届けに来た。小さな正義を見逃さなかったお前、すげぇぞ』……そう言って子供の頭を撫でた君の笑顔を見て、彼女は思ったそうだ。ああ、この人は本当に、正義のために働いているんだな、ってね」


北条が懐かしむように語る言葉は、そのまま虎太郎自身の記憶を鮮明に彩っていく。


「そうか……それで、あいつ……」


その日の夕方、奈美は伏し目がちに派出所のドアを叩いたのだ。


『お巡りさん……眼鏡、この辺で失くしちゃったんですけど……』


「……覚えてるかい?」


「ああ。忘れもしねぇよ。非番の間際だったのに、派出所の周りを二時間も探し回った。結局、見つからなかったけどな」


出会った日の苦い記憶。

だが、北条は悪戯っぽく笑って告げた。


「……最初からなかったんだって、眼鏡なんて」


「え……?」


「彼女、眼鏡なんて一本も持ってなかったそうだよ。あれは、自分の連絡先を知ってもらい、君の名前を知るための、彼女なりの精一杯の口実だったらしい」


「マジかよ……」


虎太郎は絶句した。

二時間、泥だらけになって地面を這いずり回ったあの時間は、何だったのか。 だが、その滑稽な思い出の裏側に隠されていた、彼女のひたむきな恋心を知った瞬間、虎太郎の胸の奥で、止まっていた何かが温かく、そして激しく突き動かされた。



「……ってか、そんな話までしたのかよ……」


「これからバディになるんだって言ったら、君のこと、自分たちのことをたくさん知ってほしいってね。まあ、僕が何を確認したかったかと言うと……」


北条は、残りのビールを一気に喉へ流し込んだ。


「奈美ちゃんがあの時、君の中に見た『正義』って、一体何だったんだろうね。それは、奈美ちゃん個人を守るためのものじゃなく、もっと純粋な、彼女が惹かれた君の『正義』そのものだ。僕もそれが見たくてさ。少し、話してみたくなっちゃったんだ」


虎太郎とバディを組んでから、それほどの歳月は流れていない。

しかし北条は、虎太郎の根底にある正義感に強く惹かれていた。

他の刑事とは一線を画す、圧倒的なまでの熱量。


「虎、奈美ちゃんは今回のことで君が刑事を辞めること、本当に望んでいるかな?」


「奈美が……?」


「もし、君がバッジを捨てると知ったら、彼女はなんて言うだろうね」


その問いに、虎太郎の脳裏に生前の奈美とのやり取りが鮮明に浮かび上がった。

彼女が命を奪われる直前、まさにその話を、二人はしていたのだ。


「あの時……」


虎太郎がその記憶を言葉にしようと口を開きかけた、その時だった。


「さあて、みんな! そろそろ帰るよ。明日も僕たちは仕事なんだからさ」


北条はその言葉を遮るように虎太郎へ背を向け、賑やかな部屋の面々へ声をかけた。


「お、おい……」


北条の合図を待っていたかのように、メンバーたちが手際よく帰り支度を始める。


「なあ、まだ話は……」


「いいんだよ。聞かない」


拍子抜けする虎太郎に対し、北条は柔らかな笑みを浮かべたまま言い切った。


「その答えは、君の刑事としての答えそのものだ。君の心の中にだけ仕舞っておくべきものだよ。それを聞き出すのは野暮ってもんさ。奈美ちゃんとの大切な思い出を、全部僕が分かち合うわけにはいかない。バディとはいえ、君のすべてを知るつもりはないよ、僕はね」


司、辰川、悠真、あさみ、志乃。

メンバーたちが次々と荷物を手に玄関へと向かっていく。


「結局、何をしに来たのか……。簡単なことさ。僕たちはね……」


最後に残った北条も靴を履き、ドアノブに手をかけた。


「……ただ、君が心配で、会いに来た。それだけだよ」


静かな余韻を残して、北条はゆっくりとドアを閉めた。


虎太郎は、一人、部屋に残された。

つい数分前まで溢れていた喧騒が、嘘のように消え去った玄関をぼんやりと見つめる。


「なんだよ、それ……」


独りごちた声が、誰もいない室内に空虚に響く。

だが、戻ってきた静寂は、数日前までの「死の沈黙」とはどこか違っていた。志乃が整え、司が料理の匂いを残し、仲間たちが笑い飛ばしていった、温かな気配の残る静寂。


部屋の中央、綺麗に片付けられた空間に立ち尽くしたまま、虎太郎はそっと瞳を閉じた。


「奈美……俺は、どうしたらいい……?」


心の中の彼女に問いかける。

彼女が愛し、信じてくれたの自分は、今、どこにいるのか。

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