虎太郎
そして、虎太郎は。
「………奈美……」
死を受け入れたはずの心は、未だ底の見えない沼を彷徨っていた。
立ち直るどころか、一歩を踏み出すことさえできない。
深夜の静寂の中、テーブルには数日前に口をつけたきりの昼食が、惨めな残骸のように放置されていた。
テレビは何日間も、同じチャンネルの映像を垂れ流し続けている。
昼夜の感覚を失わせるように点け放たれた照明。
奈美が最後の日、丁寧に整えたであろうベッドは、あの日から一度も乱されることなくそこにある。
変わり果てた彼女と対面したあの日以来、虎太郎はそこへ身体を横たえることができずにいた。
そんな墓場のような沈黙を、無機質な電話のベルが切り裂く。
「……ちっ」
いい加減にしてくれ。
そんな呪詛のような舌打ちと共に、虎太郎は鳴り続ける音を無視した。
やがて電子音が響き、留守番電話の録音が室内へと流れ出す。
『虎太郎くん?……私、志乃です。連続殺人事件の犯人は、無事、逮捕されました。北条さんが必死に尻尾を掴んでくれて……。今、自ら取り調べをしています』
志乃の震える声に、虎太郎は弾かれたように立ち上がった。
「そうか……捕まったのか、犯人が……」
張り詰めていた何かが僅かに緩み、安堵している自分に気づく。
だが、その直後、自嘲的な笑いが込み上げてきた。
「なーに安心してんだか。別に、これから先、同じような被害者が出なくなる。……ただ、それだけのことじゃねぇか」
刑事として、新たな犠牲を防げたことは賞賛すべき結果だ。
しかし、今の虎太郎にとって、その報せは凍りついた心を溶かす温もりにはなり得なかった。
「犯人が逮捕されたところで、奈美が生き返るわけじゃねぇ……」
彼女の遺骨はすでに、両親の手によって故郷へと連れ帰られた。
この部屋に残っているのは、二人で並んで笑う、色褪せた写真だけ。
奈美はもう、二度とこのドアを開けて帰ってはこない。
言いようのない虚無感が、冷たい霧のように全身を包み込む。
それを振り払うかのように、虎太郎は五本目のウイスキーのボトルを力任せに開けた。
「もう……刑事なんて……」
『危ない時は、必ず俺が助けに行く』
そう約束したのに。助けに行く暇さえ与えられず、彼女は奪われた。
大切な人一人守れなかった男が、一体誰を、何を救うというのか。
刑事として生きる意味を完全に見失った今、彼の瞳からは光が消え失せていた。
「落ち着いたら……退職届を出しに行こう」
それが、己に課すべき最後の「断罪」だと確信していた。
夜はさらに深く、重く沈んでいく。
アルコールが脳を麻痺させ、ようやく訪れた睡魔に身を任せるように、虎太郎は近くのソファへ倒れ込み、重い瞼を閉じた。
その時だった。
不意に、部屋全体に響き渡るようなインターホンの音が鳴り響いた。
意識の混濁の中で無視しようと努めるが、音は執拗に、何度も、何度も繰り返される。
「……何だってんだよ、こんな夜中に……っ」
せめて、この耳障りな音を止めたい。
虎太郎は重い身体を引きずるようにして立ち上がると、鍵を回し、勢いよく玄関のドアを開け放った。
「うるせぇな……いま何時だと思って……」
気だるげにドアを開けた虎太郎の言葉は、訪問者の姿を見た瞬間、喉の奥で凍りついた。
「ごめんごめん。どうしても、できるだけ早く君に会いたくなってね。そう思っていたら、夜更けということも構わず来てしまったよ」
「え……?」
街灯の下、穏やかな笑みを浮かべて立っていたのは、北条だった。
そして――。
「おぅおぅ、ここが虎の城か。いいところに住んでるじゃねぇか」
「お邪魔します……こんな時間に、ごめんなさい」
「へー、さすがにいいマンション。趣味いいじゃん」
「お腹すいたー! なんか作ってよ、虎ぁ!」
「まったく……深夜なんですから。近所迷惑にならないようにしてくださいよ、皆さん……」
北条の背後には、特務課のメンバー全員が顔を揃えていた。
「みんな……」
「僕はね、夜も遅いし虎太郎くんも静かにしていたいだろうから、一人でいいって言ったんだけどさ」
北条が困ったように、けれどどこか嬉しそうに頭を掻く。
「……俺、ずっと休んでたし。犯人逮捕の力にもなれなかった。なのに……」
突然の「日常」の襲来に、虎太郎はただ狼狽えるしかなかった。
「……きっと、だからこそ皆、ここに来たかったんだと思うよ」
北条は虎太郎の瞳を真っ直ぐに見つめ、優しく、けれど力強く語りかけた。
「僕たちにとって、この事件はまだ解決していないんだ。ちゃんと終わらせるまで、僕たち特務課は手を抜かない。僕らはあらゆる難件を解決に導くエキスパート、だろう?」
「……言ってる意味が、わかんねぇよ……」
整理のつかない感情のまま、立ち尽くす虎太郎。
「グズグズグズグズ……うっさいわね! 私は今、猛烈にお腹が空いているの! 食べ物を欲しているのよ、わかる? ここで私を追い返したら、あんたはただの甲斐性なしよ!」
思考の迷宮に沈もうとする虎太郎の胸ぐらを、あさみが強引に掴み上げた。
「……うるせぇな。わかったよ、散らかってるけどそれでもよければ入れよ。ここで大騒ぎされる方が近所迷惑だ」
メンバーたちの無茶苦茶な勢いに圧され、虎太郎はついに白旗を揚げて皆を招き入れた。
「お邪魔しまーす! ……って、うわぁ汚ぁ……」
一番乗りで飛び込んだあさみが、遠慮のない声を上げる。
「まあ、仕方ないわよ。虎太郎くんだって……って、やっぱり汚すぎよね、この部屋」
司が苦笑混じりに続き、
「はっはっは! 男の独り暮らしなんて、こんなもんだろ!」
「えー、僕の部屋はもっと綺麗だよ。家具、何もないけど」
辰川と悠真が、まるで自分の家のようにズカズカと上がり込む。
「もう、みんな……ごめんね、虎太郎くん。すぐに帰るように言うから。……ちょっと皆さん! 勝手に人の家を荒らさないでください!」
志乃が申し訳なさそうに、けれど慌ただしく後を追った。
瞬く間に、死の淵のように静まり返っていた部屋が、騒がしい「特務課の日常」に塗り替えられていく。
「面白いよね、特務課。みんながみんな、本当に面白い」
「……もう、好きにしてくれ……」
呆れ果てた顔で吐き捨てる虎太郎に、北条は柔らかな光を湛えた瞳で頷いた。
「うん。少しの間だけ、僕たちの好きにさせてもらうよ」
それは、独りで闇に沈もうとしていた相棒を、光の中へ力ずくで引き戻すための、北条なりの優しい宣戦布告だった。




