法医
台東区で起きた凄惨な集団自殺事件から、二週間が経過した。
『神の国』はあの日を境に、まるで霧の中に溶け込むように目立った動きを止めていた。
警察上層部は連日のように、通り魔事件と集団自死の関連性、そしてその背景についての報告書作成に追われ、ようやく現場にも一時の平穏が戻りつつあった。
「結局、自殺したご遺体のすべて、身体的にも精神的にも全く問題はなかったっス。持病もないし、死に直結するような持病も、生活習慣の乱れもない。つまり、家庭環境が正常なら、死を選ぶ理由なんて一つもない健康体だったってことっス」
特務課の司令室。 その中央にいたのは、法医の桜川 雪だった。
犠牲者全員の検死を終えた彼女は、資料をデスクに放り、感嘆と戦慄が混ざったような溜息を吐く。
「五体満足な人間を、言葉一つで死へと導く『神の国』……興味深いっスね。人間の精神の防壁を、生物としての限界を容易く踏み越えてくる……。私にはまだ手の届かない領域の力っス……!」
雪は、自他共に認める「遺体マニア」である。
数多の検死を経て、その致命傷、死に至るプロセスを鑑識よりも素早く、かつ精緻に割り出す天才的な腕を持っている。
若くしてその技術を極めた彼女の現在の研究テーマは「人体の限界」。
それゆえに、今回の不可解な「死」の連鎖に、法医としての好奇心を強く刺激されていた。
二十八歳。
独身。
本来、その顔立ちは整えれば誰もが振り返るほどの美女なのだが、残念ながら彼女の辞書に「おしゃれ」という言葉はない。
髪は寝癖のままボサボサ、くたびれた上着にジーパン。
その上から、まるで皮膚の一部のように白衣を羽織っている。
最後に化粧をしたのは成人式の写真撮影だったという、筋金入りの無頓着さで今日も司令室に現れた。
そんな雪だが、特務課の面々には、かつてない親愛の情を抱いている。
「いつも済まないねぇ、雪ちゃん。君の的確な検視には、いつも助けられているよ」
「いやいや、私なんかでお役に立てるなら光栄っス。私、特務課の皆さんの大ファンですから」
北条の労いに、雪は相好を崩した。
個々の卓越した能力が化学反応を起こし、一つの「事件」を鮮やかに解体していく特務課の姿。
雪にとってそれは、最高に美しく、洗練された「芸術」のように見えていた。
「警察の一組織にファンがいても何のメリットもないよ。雪ちゃんくらいの女の子なら、もっとテレビの中の俳優さんや、キラキラしたアイドルに夢中にならなきゃ……」
北条が苦笑しながら諭すが、雪は鼻息荒く身を乗り出した。
「そこいらの優男たちよりも、命懸けで日本の平和を守る皆さんの方が、数万倍カッコいいっス!!」
司令室に雪の熱い咆哮が響く。
彼女の純粋すぎる敬意に、司は微かな苦笑を漏らし、虎太郎は気恥ずかしそうに視線を逸らした。
だが、その和やかな空気の底には、雪の検死結果が突きつけた「健康な人間が、いとも容易く死を命じられる」という、底知れぬ恐怖が澱のように溜まっていた。
「通り魔事件の犯人たちのカウンセリングも、薬物等の成分検査も徹底的にやったっスけど……結果はシロ。全くの異常なしだったっス。おまけに、犯行当時の記憶だけがすっぽりと抜け落ちているみたいで……本当に不思議っス」
桜川雪がボサボサの頭をかきむしる。
医学の徒として、これほど不可解なことはない。
肉体も、精神も、検査数値の上では『健康そのもの』。
それなのに彼らは狂気に走り、あるいは自ら命を投げ出した。
雪に下せる診断は、皮肉にも「異常なし」という言葉しかなかった。
「なんか、悔しいっスね……。医学で解明できないことが、現実にこれだけの悲劇を起こしているなんて。薬も手術も必要ない健全な人たちが、一瞬で凶悪犯として扱われる……。そんな不条理、あっていいはずがないっス……」
雪の大きな瞳が、怒りと無力感で曇る。
北条はそっと彼女の肩に手を置いた。
「そうだね。けれど、今の日本の法制度では『起きてしまった事実』が全てなんだ。たとえ記憶がなくても、操られていたとしても、凶行の痕跡が指紋やDNAとして残れば、容疑者として逮捕せざるを得ない。……法を守る側としても、胸が痛むところだよ」
「ああ……。だが、そうしなきゃ被害者遺族の行き場のない怒りは収まらねぇ。傷つけられた事実は消えねぇからな。……それだけに、俺は許せねぇ。自分は安全な場所に隠れて、他人の人生を駒のように使い潰す『神の国』がな……!」
虎太郎が拳を机に叩きつけ、鼻息を荒くする。
「そうだね。とにかく、『神の国』の目的、そして構成員と黒幕の居場所を一日も早く突き止めなければ、この連鎖は止まらない」
司令室に、ひりつくような緊張が走る。
三人の会話を静かに聞いていた新堂司が、決然と顔を上げた。
「我々のすべき方針は決まったわね。各課からの応援要請に対応しつつ、私たちは特務課独自のルートで『神の国』を追い詰める。……相当に厳しい、孤独な戦いになりそうね」
「各員、それぞれができる最大限の努力を。以上よ」
「了解!」
「はいよ」
「おうよ!」
司の凛とした号令に、メンバーが力強く応じる。
しかし、その直後だった。
「それにしてもよ……」
虎太郎が、ふと抱いた違和感を口にした。
「なんであいつら、あんなに俺たちの裏をかいてくるんだろうな? 捜査を切り上げた直後の夜中に事件が起きたり、俺たちが現着する寸前のタイミングで引き金を引きやがったり……。まるで、こっちの手の内を覗き見てるみたいじゃねぇか」
虎太郎の、あまりに素朴で純粋な疑問。
だが、その言葉を聞いた瞬間、北条の柔和な表情が、まるで時間が止まったかのように凍りついた。
「……まさか」
「あ? どうしたんだよ北条さん、怖い顔して」
北条は顎に手を当て、深い思考の海に沈むような素振りを見せた。
数秒後、いつもの苦笑いを浮かべて顔を上げたが、その瞳の奥には氷のような冷徹な警戒心が宿っている。
「……念のため、だけど。今後『神の国』に関する特務課の捜査情報は、他部署には一切漏らさないようにしよう。……たとえ、それが身内であってもね」
静かに、重く、北条はそう告げた。
その言葉の意味を理解した司令室に、これまでとは質の違う、冷たく鋭い沈黙が広がった。




