残された恋人
「うっ、うぅ……。綾、どうして……。誰が、誰がこんなことを!」
一時間後。
緊急の呼び出しを受けて署に駆け込んできたのは、被害者の同居人、本宮和也だった。
「河川敷で発見された時には、既に……。ご遺体は、長島綾さんで間違いありませんね?」
「……はい……」
本宮は、糸の切れた人形のように項垂れ、力なく北条の問いに頷いた。
「綾さんが帰宅しないことを不審に思い、捜索願を出されたそうですが……。二十三歳の自立した女性が、一、二日家を空ける。それはさほど、不自然なことではないのでは?」
疑うのが、刑事の性分だ。
北条の言葉は穏やかだが、その眼光は本宮の発言に生じる僅かな「綻び」を逃さじと研ぎ澄まされている。
「これを……見てください」
本宮は震える手で、自身のスマホを北条に差し出した。
「綾は……仕事が少し遅れるだけでも、必ず連絡をくれたんです。途中で買い物に寄る時だって、ほら……」
画面に映し出されたのは、執拗なまでのやり取りの記録だった。
休憩時間の始まり、業務終了、駅への到着。
まるで互いの位置を常に同期し合っているかのような、過密な定期報告。
「うっわ……。互いに束縛し合ってたって感じか?」
背後から画面を覗き込んだ虎太郎が、思わず眉をひそめて呟く。
「いいえ。どちらが決めたルールでもありません。付き合い始めた時から、どちらともなく始まったんです。それが、僕たちの当たり前でした」
「うんうん……。それだけ、仲が良かったんだねぇ」
「ですが……」
本宮は、さらに画面を下にスクロールさせた。
「この日から、僕のメッセージに既読すらつかなくなって……。いつも仕事が終わる十八時から二時間待っても、どこに寄るという連絡さえ来なかった。会社の友人に聞いても、誰も知らないって……」
「うん。それで心配になって、届けを出したんだね……」
「はい。恋人の僕が言うのもなんですが、綾は本当に綺麗な子で……。自慢の、長くて綺麗な黒い髪。整った顔立ち。社内でも人気があったんです。だから、もしかしたら……変な奴に声をかけられて、連れ去られたんじゃないかって……」
嗚咽を漏らしながら語る本宮。
「結果……、最悪の形でその予感が当たっちまったってことか」
虎太郎が、奥歯を噛み締めて悔しそうに吐き捨てた。
「もっと早く見つかっていれば、助けられたかもしれない……」
北条もまた、ベテランゆえの悔しさと、遺族への申し訳なさが入り混じった複雑な表情を本宮へ向けた。
「……写真、あるかな?」
北条は、彼女の生前の姿を確認するために本宮に尋ねる。
「ええ。綾の写真は……もう、データがいっぱいになるほど撮り溜めていましたから……」
差し出されたスマホの画面。
そこには、陽光を反射して艶やかに流れる、漆黒の長い髪を蓄えた美女が映っていた。
その「髪」が今、一本残らず奪われている事実を、北条はまだ、目の前の恋人に告げられずにいた。
「これは……。モデルさんかと思うような、綺麗な人だったんだねぇ」
北条が、綾の生前の写真を見つめ、静かに感嘆の溜息を吐いた。
「はい……。僕には出来すぎた彼女でした。特に髪のことは自慢で……。CMにも使われたことがあるから、また声をかけてもらえるようにお手入れは欠かさないんだって、いつも楽しそうに……」
その長く艶やかな黒髪が、今は一本も残っていない。
犯人の手によって、まるで儀式のように剃り落とされてしまったのだ。
「そっかぁ……。ちゃんと、返してあげたいねぇ。ホトケさんにさ……」
北条の言葉は、遺体への深い憐憫に満ちていた。
「お願いします刑事さん! 必ず、犯人を捕まえてください! 僕にできることなら何でもします、協力は惜しみませんから……!」
北条に縋りつくように声を荒らげる本宮。
その肩を、北条は優しく、しかし確かな力強さで叩いた。
「それは心強いね。……その時が来たら、頼りにさせてもらうよ」
その穏やかな声は、遺族の心に灯る小さな救いのようだった。
「……なんか、辛いな。俺にも婚約者がいるけど……、もし突然あんな姿で対面することになったら、あんなふうに気丈に話せるかどうか、自信ねぇわ」
本宮を署の入り口まで見送り、指令室への渡り廊下で虎太郎がぽつりと呟いた。
「あぁ……。元気かい、彼女さん。君のことを、いつも陰で支えてくれているんだろう?」
「まぁ……。おかげさんで」
虎太郎には、同い年の婚約者がいる。
交番勤務時代に出会った、警察官という過酷な職務を誰よりも理解し、支えてくれる心優しい保育士だ。
先月、ようやく決意してプロポーズしたばかり。
幸せの絶頂にいるはずの彼にとって、今回の事件は他人事とは思えなかった。
「大丈夫さ。虎なら守れるよ、彼女さんのこと」
「……ああ。必ず守る」
愛する者が、あんな無残な姿で発見されることだけは、絶対に。
虎太郎は拳を握りしめ、犯人逮捕への執念を燃やした。
その時、北条のポケットでスマホが激しく震えた。
「お? 司ちゃんからだ」
北条が画面を確認し、通話ボタンを押す。
「はいはい、今すぐ近くにいるよ?」
『北条さん、虎太郎も一緒? すぐに戻ってこられる?』
受話器越しに漏れ聞こえる司の声。
その異様な緊迫感に、北条の眉が跳ね上がった。
「どうしたんだい、そんな声を出して」
『河川敷で、新たに二人の遺体が見つかったわ。どちらも女性。長島綾の発見現場から、それぞれ――“ピッタリ二キロ”離れた場所で』
「……そりゃ、穏やかじゃない話だねぇ」
北条の表情から余裕が消え、険しい「刑事の顔」が戻る。
「おい、北条さん。何の話だよ……」
「虎、すぐに司令室に戻るぞ。また遺体が上がった。同一犯かどうかはまだ分からないが……。司ちゃんの声からして、ただの偶然じゃなさそうだ」




