追跡
階段を上がり、銀行のフロアへ戻ると、そこには重苦しい空気が沈殿していた。
捜査一課長・稲取による厳しい事情聴取を受けている支店長代理。
そしてその片隅には、白布をかけられた最初の犠牲者が横たわり、二人の鑑識が淡々と証拠を採取している。
「遺体の検分なら、鑑識の正式な報告を待てばいいのでは……?」
怪訝そうに首をかしげる桜川雪に、北条は足を止めることなく、凍てつくような声で答えた。
「うん……待てば間違いのない結果は得られるだろうね。でも、僕が今求めているのは正確さじゃない。『速さ』なんだ。……雪ちゃん、頼むよ。僕が知りたいのはただ一つ。あのご遺体と、大金庫前の彼。――『どちらが先に死んだのか』。それだけだ」
「……はぁ、分かったっス。北条さんがそこまで言うなら」
雪は北条の意図を測りかねながらも、その瞳に宿る異様なまでの切迫感を感じ取り、遺体へと歩み寄った。
「いつもお疲れさんっス。ちょっとだけご遺体、確認させてもらっても良いっスか?」
「あ、桜川先生! お疲れ様です! ……どうぞ、ですが、状態保持のため接触は最小限で……」
現場の鑑識たちも、雪の卓越した腕を知っている。彼らは敬意を込めて、速やかに道を開けた。
「ん~~~~~~……」
雪は遺体の頭の先から爪先まで、舐めるように視線を走らせる。
「年齢は五十代半ば。致命傷はショットガンによる射殺っスね。そこそこの距離から胸部を狙って放たれてる。散弾がそれぞれ銃創を作り、心肺を破壊しているっス……」
淡々と状況を口にする雪。
北条はそれを、祈るような、あるいは呪うような眼差しで見守っていた。
「で、問題の死亡推定時刻は……?」
「はい。詳細な解剖前なので断定はできないっスけど。死後硬直の進み具合、死斑の沈着位置……これらを総合すると、大金庫前の遺体よりも『明らかに前に殺害された』とみて間違いなかろーかと」
「やっぱりね……」
北条は小さく舌打ちを漏らした。
それは怒りというより、最悪のパズルが噛み合ってしまったことへの忌々しさだった。
彼はそのまま、隣で通信機を握りしめていた稲取の元へ歩み寄る。
「稲取くん、どうだった?」
「……北条さん。一人だけ、提示された住所と電話番号に該当しない人物が浮上しました。今、表記の住所に刑事を急行させ、実態を確認させています」
「さすがだ。理解が早くて助かるよ」
「……しかし、まさか。人質の中に紛れ込んでいたというのですか。私たちの目の前を、堂々と……」
稲取は苦虫を噛み潰したような顔で、自身の失態を呪うように拳を握りしめた。
北条と稲取。
かつて捜査一課の双璧と呼ばれた二人が、同じ絶望を共有し、沈黙する。
その異様な光景を背後で見ていた虎太郎は、背筋に冷たいものが走るのを感じていた。
事件は終わったのではない。
本物の『F』という怪物は、警察が守った二十人の中に混じり、悠々と包囲網を抜けていったのだ。
北条と稲取、二人の名刑事が抱いた最悪の予感は、一人の男の証言によって「確信」へと変わった。
「この人ではありません……。犯人はもっと、落ち着いた雰囲気の男性でした。……そう、『紳士』という言葉がぴったりの」
震える声で証言したのは、解放されたばかりの支店長代理だった。
北条は、白い布をかけられた最初の犠牲者の遺体を見つめる。
「この方は、最初に殺された人質です。回収されたスマホとは別に携帯を隠し持っていて……。それに気づいた若い方の犯人に、撃たれたんです」
「ふぅん……。じゃあ、もしかしてその『若い方の犯人』って、彼かい?」
北条が大金庫前で撮影された遺体の写真を提示する。
「そ、そうです! 彼が銀行で人質を……!」
真っ青な顔で激しく頷く支店長代理。
その様子に、北条は彼の言葉に嘘がないことを悟った。
と同時に、自身の内側から突き上げるような敗北感に唇を噛む。
「自分の推理の甘さに腹が立ってくるよ……。こういう事態も、想定できたはずなのに」
「どういうことだ、北条さん? 結局、この死んでる若者が犯人で決まりなんだろ?」
納得のいかない虎太郎の問いに、北条は氷のように冷たい声で答えた。
「いや……本当はこの銀行内に、犯人は『もう一人』いたんだ。人質を殺したのは、確かにこの若い犯人(D)だろう。だが、そうなるように仕向け、最後にこの若者を口封じのために殺したのは……『F』。僕が先刻まで交渉していた、あの男だよ」
その場にいた全員の血の気が引くのが分かった。
「じゃ、じゃあ……その『F』ってのは、どこへ行っちまったんだよ!?」
「もしかして、まだこの銀行のどこかに潜伏しているんじゃ……」
「……いいえ、それはないわ」
あさみがきっぱりと否定した。
「私は最上階から侵入して全フロアを抜けてきたけど、人の気配はなかった。このビルは銀行以外にテナントは入っていないし、空きフロアのブレーカーは落とされていた。潜伏できる場所なんてないわ」
虎太郎、雪、そしてあさみが困惑の渦に呑み込まれる中、北条は天を仰いだ。
「人質の身元を、その場ですべて完璧に照合しなかったのは大失敗だった。氏名と連絡先だけなら、いくらでも偽造できるからね……。犯人Fは、最初から殺害した人質と入れ替わっていたんだ。そして、解放された人質の群れに紛れて堂々と正面玄関から脱出し、しれっと嘘の個人情報を残して雑踏へ消えた。……完敗だよ」
「まさか! 警察の目を盗んでそんなことが……!」
「……ああ。『そんなこと、できるはずがない』という僕らの固定観念を、奴は逆手に取ったんだ。悔しいねぇ……。稲取くん、鑑識の似顔絵師を呼んでくれ。支店長代理の記憶を頼りに、Fの顔を復元する。全国に緊急手配、特に空港と港湾は最優先だ!」
最悪のシナリオの続きを阻止するため、北条が鋭い指示を飛ばす。
特務課の面々も、その衝撃的な手口に戦慄しながらも、逃走した「紳士」の影を追うべく、再び闘志を燃やし始めた。




