消えた存在
「監察医の桜川先生ですね。すでに手配済みです。間もなく現場へ到着するかと」
志乃の声が無線に響く。
死者が出たという情報を掴んだ瞬間、彼女はすでに北条の思考の先を読み、最善の布石を打っていた。
「さすが志乃ちゃんだ。これで安心して捜査ができるよ。さて、人質は全員退避できたみたいだね。僕もそろそろ、お邪魔しようかな」
ようやく静寂を取り戻した銀行へ、北条はゆっくりと足を踏み入れた。
「北条さん! 俺も行くぜ!」
背後から声をかけたのは、ラッキーマートから駆けつけた虎太郎だ。
「オッケー。じゃあ、行こうか」
二人がフロアへ入ると、そこには装備を整え直したあさみが立っていた。
「やぁ、あさみちゃん。大活躍だったじゃないの」
「別に、普通よ。格闘も銃撃戦もなかったんだから。人質の全員退避なんて、義務みたいなものでしょ」
称賛に少しだけ頬を染めながらも、あさみにとっては当然の完遂だったと言わんばかりの態度。
しかし、北条はその言葉に含まれた「ある事実」に眉をひそめた。
「格闘も、銃撃戦もなかった……? ねえ、犯人と直接は会わなかったのかい?」
「うん……会ってない。煙幕も閃光弾も、結局は無駄遣いになっちゃった」
北条の胸中に、得体の知れない不安がじわりと広がっていく。
「犯人を、探しに行こうか」
「……え? 銀行の外へ?」
「いや、まずは中だ。どこかに潜んでいるかもしれない」
長年の経験が培った刑事の勘が、何かが「足りない」と警鐘を鳴らし続けていた。そんな時だ。
「北条さん!!」
先に突入していたSITの古橋が、険しい表情で駆け寄ってきた。
「どうしたんだい、そんな顔をして」
「地下一階の大金庫に……」
古橋はそこで言葉を切り、わずかに視線を落とした。
その沈痛な反応だけで、北条は最悪の事態――あるいは「予定外の幕引き」を悟った。
「……行こうか。大金庫へ」
北条、虎太郎、古橋が地下への階段を急ぐ。
「犯人が……自殺、だと?」
「ええ。大金庫前で遺体が発見されました。胸部をショットガンで撃ち抜いたようです。傍らには、犯人が残したものと思われる遺書が……。現場保存のため手は触れていませんが、隊員の報告に間違いはないかと」
古橋の報告を聴きながら、北条の疑問は膨れ上がる一方だった。
あまりにも、不自然だ。
(身代金も要求せず、完璧なシナリオで立てこもった犯人が……なぜ大金庫の前で、自ら命を絶つ必要がある?)
それは、勝利の凱歌をあげるべき瞬間に投げ込まれた、泥のような不透明な結末。
「……急ごうか。現場を見ないことには、何も始まらない」
北条は鋭い眼光を地下の暗がりへと向けた。
そこには、黒幕が用意した、最後の「毒」が待ち受けている。
大金庫。そこは、冷たい静寂と鉄の匂いが支配する地下の墓標のようだった。 北条、虎太郎、古橋が辿り着くと、そこには一足先に着いていたあさみが、忌々しげに床を見つめていた。
「私が見つけたときには、もうこうなってた。死因はこれね」
あさみが指差した先には、一人の男が横たわっていた。
その右手には、まだ硝煙の匂いを微かに残すショットガンが握られ、傍らには殴り書きの遺書が落ちている。
北条が手袋を嵌めた指で、そっとその紙を拾い上げ、文面をなぞった。
『計画は失敗だ。逃げ道はない。一人で画策したのが間違いだった。共犯者も殺してしまった。死ぬしかない。皆、ごめんなさい……』
「随分と投げやりな最期だな。……こんな酷い筆跡じゃ、年齢も人となりも分かりゃしない」
虎太郎が顔を顰めて呟く。
だが、北条と古橋の目は、遺書の言葉よりもその「傷口」に釘付けになっていた。
(おかしい……。胸部を狙ったにしては、あまりに急所から逸れている)
(ショットガンによる至近距離の射撃なら、もっと広範囲に破壊されるはずだが……)
二人のプロが抱いた違和感。
それを解き明かす「鍵」は、まだ司令室にいた。
「ねぇ志乃ちゃん。雪ちゃんはまだかな?」
『着いたっスよ~……』
緊迫した空気を一瞬で弛緩させるような、気の抜けた声が地下室に響いた。 重い足取りで階段を下りてきたのは、くたくたの白衣を羽織った監察医・桜川 雪だった。
「おー、雪ちゃん。悪いね、夜分に呼び出して。ちょっと気になることがあってさ」
「構わないっス。私が力になれることがあれば、幸いっスよ~」
雪は、乱れた黒髪を無造作に一つに結び直し、北条にふわりと微笑んだ。
(この人、黙ってればとんでもない美人なのになぁ……)
虎太郎は苦笑する。
整った顔立ちに均整の取れたプロポーション。
だが彼女は、恋や美容よりも「遺体との対話」に全てを捧げている変人でもあった。
「早速、診ても良いっスか?」
「ああ、頼むよ」
雪は遺体の傍らに膝をつくと、まずは静かに両手を合わせ、目を閉じた。
その真摯な姿に、北条たちも倣うように沈黙を守る。
「ちょっとだけ失礼するっスよ……。痛かったでしょうねぇ。すぐに終わらせて、家族のところに帰りましょうね~……」
死者に語りかけるように、雪の指先が遺体の傷口を、細部まで丁寧に辿っていく。
その瞳は、先ほどまでの眠たげなものとは一変し、真実を見透かす鋭い光を宿していた。
「……北条さんの見解は?」
雪の問いに、北条は迷いなく、そして確信を持って答えた。
「表向きの状況は、大金庫前での自殺。ショットガンで胸を撃ち抜いての即死……といったところかな。でも、僕は違うと思っている。――これは、『自殺』なんて綺麗なものじゃない」
特務課の「眼」が、犯人Fが仕掛けた最後の欺瞞を暴こうとしていた。
「……当たりっスね」
北条の見解を聞いた桜川雪は、遺体の傷痕を凝視しながら、低く呟いた。
「これ、自殺に見せかけた『他殺』っス」
「……やっぱりね」
雪の見立てに、北条の表情には苦渋の色が混じる。
勝利の確信は、今や巨大な疑惑へと塗り替えられていた。
「このショットガン、鑑識に回せば確定っスけど、おそらくこの遺体の持ち物で間違いないっス。ほら、ここを見てほしいっス……」
雪が、ショットガンの柄の部分を細い指先で示した。
そこには、激しい摩擦によって生じたであろう擦過傷と、僅かな血痕が付着している。
「この遺体の主は、生前に少なくとも一度はこの銃を撃ってるっス。ショットガンの中には発射時の反動が凄まじいものもある。素手で扱えば、反動で皮膚が裂けることもあるっスよ」
「じゃあ……その傷は、最後に自分を撃った時にできたもんじゃねぇのか?」
虎太郎の素朴な疑問に、雪は静かに首を振った。
「普通ならそう考えるっスね。でも、それは違う。理由は、この胸の『致命傷』にあるっス」
雪は、警備デスクに置かれていた備え付けのカレンダーを手に取ると、手際よく細長く丸めて虎太郎に突き出した。
「虎太郎さん。もし自分が、一思いにこの世を去ろうと思ったら……。さぁ、どんなふうに銃を向けます?」
「え? こうか……それとも、こうか?」
手渡された紙の筒を銃に見立て、虎太郎は自分のこめかみ、そして心臓のあたりに押し当てた。
「そう、それっス」
雪は小さく頷き、再び遺体の傷口へ視線を戻す。
「この人、自ら命を絶つにしては、銃口を向ける位置が甘すぎるっス。ここ、確かに胸部ではあるけれど……」
「あ……」
「うん。……『急所』じゃないね」
北条が雪の言葉を継いだ。
銃創があったのは、胸骨と鳩尾の中間点。
拳銃であれば、一命を取り留める可能性すら残る、即死を望む人間が選ぶにはあまりに不自然な場所だった。
「自殺を望むなら、できるだけ苦しまずに逝きたい……即死を願うのが人間心理っス。でも、ここじゃあ『即死』にはならない。それに、ショットガンという銃は、無数の散弾を一度に放つもの。当然、銃創はこうなるっス」
雪が遺体の胸部を指し示す。
そこには、無数の小さな穴が不気味な模様を描いていた。
「お、おぉ……。小さな傷痕が、たくさん散らばってるな……」
「それが『答え』っスよ。至近距離で自分を撃つなら、銃口を体に押し当てる。弾丸が拡散する暇もなく着弾するから、銃創は巨大な穴が一つだけ。これがショットガン自殺の『公式』っス」
雪の瞳が、暗い大金庫室の中で一際鋭く光った。
「でも、この遺体の傷は散らばっている。つまりこの弾丸は――『遺体から離れた距離で放たれ、拡散し始めた瞬間に着弾した』ということっス。つまり……」
「犯人は別にいて、一定の距離から彼を射殺した。……他殺、ということだね」
北条の言葉が、冷たい地下室に重く沈み込んだ。
倒れている男は、Fではない。 ならば、あの冷徹な声の主、本物の『F』は今、どこに――?
「で、でもよ……。他殺だったとして、誰が殺したんだよ? 犯人が仲違いでもしたのか?」
目の前の遺体を見下ろし、虎太郎が困惑した声を上げる。
「犯人は、おそらく彼の他にもう一人いた。そして――」
北条は手袋を嵌めた指先で、床に落ちていた遺書を拾い上げた。
「『共犯者も殺してしまった』……か」
その一文をなぞる北条の目は、獲物を捉えた鷹のように鋭い。
(いつ、どこで殺したんだろうねぇ……。そんなタイミング、あったかい?)
「……北条さん?」
沈黙を続ける北条を不安に思ったのか、虎太郎が声をかける。
北条は答えず、スーツの内ポケットからスマートフォンを取り出した。
「もしもし、稲取くん? ……人質は全員保護できたかい? ……うん、住所と電話番号の照合は? 完璧だね。じゃあさ、『最初に犯人と直接接触した人物』は誰かな」
電話の向こうで慌ただしく報告する稲取に対し、北条は次々と矢継ぎ早に問いをぶつける。
「それから、最初に射殺されたホトケさんの身元と顔写真も。至急、画像で送ってくれ。……それと」
北条の表情が、一気に険しさを増した。
「身分証の照会は済んだね? ……なら、今すぐ解放された人質の『全員』に、もう一度電話をかけてみてくれ。……理由? 必要だからだよ。これは警察の威信に関わる大仕事だ。いいから、すぐに!」
一方的に通話を切ると、今度は特務課の無線を叩く。
「志乃ちゃん、悠真くん。銀行から出てきた人の中で、刑事の保護をかいくぐって消えた者がいないか、解析を急いでくれ。それから防犯カメラのログを使って、人質全員の顔データを照合。不一致がないか洗練してほしい」
『え? ……了解しました。すぐやります』
『……僕も防犯カメラを見てたけど、一課が漏らさず保護してたはずだよ? ま、いいや。りょーかい』
突然の不穏な指示に志乃と悠真も戸惑いを見せるが、北条の「声」に含まれた重圧を感じ取り、即座に作業へと没頭する。
「北条さん、どうしたんだよ。様子が変だぜ?」
「ダメだねぇ。歳を取ると、いろいろと心配事が増えていけない。そして、残念なことにその心配事っていうのは……」
(――得てして、的中するものなんだ)
「……なーんでもない。さぁ、犯人と最初に接触した人の話を聞きに行こう。オジサンの心配が杞憂に終われば、それに越したことはないからね。雪ちゃん、君も同席してもらえるかな?」
北条は、いつもの飄々とした仮面を被り直し、笑みを浮かべた。
「わ、私もっスか? 構いませんけど……検死じゃなくて、聞き込みっスか?」
「うん。診断してほしい『遺体』が、もう一つあってね。さぁ、一度銀行へ戻ろうか」
北条の言葉は、まるで闇の中から一筋の糸を手繰り寄せるような、確信に満ちたものだった。




