作戦開始
「そろそろ、かな……」
銀行の外、警察車両内。
北条はFからの入電を待ちながら、自らの分析を深めていた。
(きっと、余裕のない状況なのはあちらさんも一緒。このまま籠城を続けたところで、彼らにメリットは一切ない。となれば……そろそろ何らかの動きを見せるはずだ。長期戦は、お互いにもろ刃の剣。しかも、あちらさんの方が、圧倒的に分が悪い)
Fたち銀行立て籠もり犯の計画は、おそらく『速攻勝負』。
その事実に、北条は最初から気づいていた。
だからこそ、北条はあえて結論を急がず、のらりくらりとかわし、相手の焦燥を煽っていたのだ。
(気づいていたよ。君たちの要求が『過去の犯人の釈放』だと告げられた、あの時点でね。金銭が目的なら、そのまま持ち逃げすればいい。それをしなかったのは、確固たる「大義」があるからだ。そして、ここまで頭の良い犯人なら、日本の警察が犯人釈放などに応じるはずがないことにも気づいていたはず。だからこそ、人質の命を盾にした。……だが、それも長くは持たない)
その頃ちょうど、車内の電話がけたたましい音を立てて鳴り響いた。
「入電!!」
「北条さん!!」
稲取と秋吉が、鬼気迫る表情で北条に迫る。
北条はしかし、焦ることなく、むしろ少しだけ焦らすように受話器を取るのを待った。
「うん……苛立ってるね。電話を切らないよ」
この「焦らし」も、北条にとっては計算ずくの賭けだった。
落ち着いた、この先の作戦を有する犯人であれば、三コールもすれば電話を切り、強硬手段に出るはず。
それをせず、北条が出るのを待つということは、この通話が勝負所というわけだ。
「終わりにしようか」
北条はニヤリと笑い、そのまま受話器を取った。
「もしもし?」
『……すぐに出なさい。人質がどうなっても良いのですか?』
Fの第一声。
その苛立ち混じりの言葉に、北条は不敵に笑みを浮かべた。
この瞬間、彼は確信した。――勝利を。
「ごめんごめん、こっちも相当切羽詰まっているものでね。上層部にいろいろ相談していたよ。『早く事件を解決したいです』ってね」
『なるほど。それは良い心がけです。釈放の準備は、順調ですか?』
Fは完全に自身が優位に立っていると錯覚している。
これもまた、北条の話術の賜物だった。
警察側が切羽詰まって、犯人釈放の許可を求めている。
Fには、そう聞こえたのだ。
「……それで、釈放は何時頃になりそうですか?」
「うーーん、それなんだけどさぁ……」
北条は、受話器から僅かに口を離し、特務課の無線のマイクを「トントン」と二回叩いた。
この音を聞き、特務課メンバーの全員が、北条の無線に注意して耳を傾けた。 この合図は、事前打ち合わせにはない。
しかし、メンバーたちは分かっていた。
北条は決して『無駄なことをしない』ということを。
「まだ話は進まないのですか? あなたはかなり切れ者だと思っていたのですが……見込み違いのようですね」
Fが、心底失望したような溜め息を吐き出す。
「そんなにキツいこと言わないでよぉ。僕だって、胃に穴が開く思いで頑張ってるんだからさ……」
受話器越しにFの焦燥を肌で感じ取りながら、北条はなおも、のらりくらりと言葉の網を広げていく。
「ホント……こういうやり取りだけは、天下一品だな、あのおっさんは」
無線から流れる対話を聴きながら、ラッキーマートの店内で虎太郎が不敵に笑う。
「たぶん、そろそろだぜ。突入の準備をしよう」
「なんで、そんなことが分かるのよ?」
あさみの問いに、虎太郎は手に馴染んだ「カーテンの綱」を強く握り直した。
「なんでも何も、北条さんと俺は腐れ縁のバディなんだ。何となくでも分かるさ。……来るぜ。おっさんが仕掛ける、最高に嫌味な一撃が」
虎太郎には見えていた。
指揮車の中で、冷徹な猟犬の瞳をして、しかし口角だけを愉快そうに吊り上げている北条の横顔が。
『あなたの頑張りなど、正直どうでも良いことです。無理を通してでも我々の要求を呑んでいただかないと――新たな死者が出ることになりますよ』
Fの言葉に、隠しきれない苛立ちと「暴力」の気配が混じる。
その瞬間を、北条は逃さなかった。
「でもさぁ……。残念だけど、それは無理だよ。僕には、そんな権限なんてないもん」
(来た!)
(合図だ!)
『特務課、作戦開始!!』
司の凛烈な声が無線を駆け抜けた。
「りょーかい! まずは銀行内の全シャッターを強制開放。その直後にブレーカーを落としてやる。……暗闇の中で退路を失う恐怖、じっくり味わってよ!」
悠真の指先がキーボードを叩く。
次の瞬間、街に重厚な機械音が鳴り響き、銀行を閉ざしていた鉄のカーテンが次々と跳ね上がった。
「各部署への応援要請、完了。逃走経路はすべて封鎖しました。銀行周囲、路地裏の一角に至るまで警察官を配置。ネズミ一匹、通しません」
志乃が完璧な包囲網を完成させる。
『捜査一課は人質の退避誘導を! 北条さん、古橋隊長に正面玄関の開放を依頼して!』
「了解! ……だってさ、古橋くん」
『了解した。……SIT、正面玄関前に展開。死角を確保しつつ、突入ポジションへ!』
古橋の号令一下、重装備のSIT隊員たちが、黒い影となって正面玄関へと雪崩れ込む。
「ひゅー、さすがSIT。頼もしいったらありゃしない」
その洗練された機動力に、北条が低く口笛を吹く。
「――じゃあ今度は、我が特務課の『非常識』をお目にかけようか。……虎、あさみちゃん。出番だよ」
北条の言葉を背に、ラッキーマートの窓から二つの影が夜風へと躍り出た。
「貴様……どういうつもりだ!」
まだ切れていない通話。
スピーカーから漏れるFの声は、もはや知的な余裕など微塵もなく、剥き出しの殺意に染まっていた。
「君さぁ……。誰に唆されたのかは知らないけど、やりすぎだよ。警察はそんな陳腐な脅しには屈しないし、何より……」
北条は、鋭い眼光を銀行の正面玄関へと据えた。
その瞳には、いつもの温和な影など一片も残っていない。
「僕は……こういう手合いには『慣れてる』んだよ。さぁ、袋の鼠だ。これから僕の仲間たちが君を捕まえに行く。――君の書いた稚拙なシナリオは、今この瞬間、完結だ」
その声は、深淵から響くような凄絶な迫力に満ちていた。
無線を通じてそれを聞いた虎太郎は、全身に走る鳥肌を禁じ得なかった。
(おいおい……普段よりずっと『刑事』じゃねぇか。あのおっさん、こんな顔も持ってたのかよ……)
余裕を捨て、本性を剥き出しにした北条の実力を、虎太郎はまだ知らない。 だが、その一変した気配だけで、この事件が北条という男の「逆鱗」に触れたのだと確信し、言いようもない高揚感が胸を突き上げた。
「ほら、私たちも始めるわよ! あのオジサンの期待に応えるんでしょ!?」
呆然と立ち尽くしていた虎太郎を、あさみの叱咤が現実に引き戻す。
「お、おう……!」
「カーテンの綱、窓の外に放り投げて。長さは十分ね」
「ああ。だが、これをどうするつもりだ……お前、まさか……」
「おじさん、煙幕はできた?」
「おうよ、俺様にかかればこの通り――」
「いいから貸して! 突入はコンマ一秒を争うのよ!」
あさみは、流れるような動作で装備を整えていく。
その迷いのなさに、虎太郎と辰川は思わず顔を見合わせた。
「……突入?」
「……どこからだ?」
あさみは即席の煙幕をポケットにねじ込むと、躊躇なく窓枠に足をかけ、外へと身を乗り出した。
「一人で行くのか!?」
「あんた、ここ……飛べないでしょ?」
「うっ……」
ラッキーマートと銀行。
隣接しているとはいえ、ビルの間には断崖のような隙間が口を開けている。
常人ならば見下ろすことすら躊躇うその暗い深淵を、彼女は「道」だと言い切った。
「嬢ちゃん、これも持っていけ。閃光弾だ。殺傷能力は皆無だが、目くらましには十分すぎる」
「……ん。ありがと」
あさみは辰川から受け取った銀色の筒を握りしめ、最後に虎太郎を真っ直ぐに見つめた。
「虎、私が突入して十分経っても声が入らなかったら……私は死んだと思って。でも、必ず無線は入れるわ。だから――その時はすぐに動きなさい。いいわね?」
「……ああ。分かった。頼むぞ」
真剣そのものの瞳に、虎太郎も全力の信頼を込めて頷いた。
あさみは窓枠を強く掴み、重心を外へと移す。
夜風が彼女の髪を激しくなびかせ、眼下には冷たいアスファルトが広がっている。
隣のビルの壁面までは、わずか数メートル。
だが、その距離は生と死を分かつ境界線だ。
あさみは一度だけ、夜の冷たい空気を肺の奥まで吸い込み、跳躍のタイミングを測る。
「……カウント、お願い」
あさみの静かな声が無線に乗る。
司令室の悠真、志乃、そして司。
全員が固唾を呑んで、その一瞬を待った。
「私が跳んだら、そのまま綱を窓の内側に回収して。そのまま銀行の正面玄関へ走るのよ。あとはSITや一課と協力して、人質の救出を」
「……おう」
「おじさんは、そのままここに残って。もし階下で不測の爆発があった場合、それを分析して無線で退路を指示してほしい。風向き、煙の動きを読むの、得意でしょ?」
「ああ、おじさんに任せときな。職人の意地を見せてやるよ」
突入前の、短くも緻密な擦り合わせ。
三人の意識は、すでに一つの作戦行動として完璧に同期していた。
「――じゃ、行ってくるよ!!」
二人の返事を待たず、あさみの身体が窓から夜空へと躍り出た。
「マジで跳びやがった……!!」
虎太郎が身を乗り出して見守る先。
重力をも味方につけたあさみの影が、一閃の矢となって隣のビルの壁面へと吸い込まれていく。
銀行ビル最上階。
あさみは空中で身体を反転させると、一点の迷いもなく窓ガラスを蹴破り、静寂に包まれた「聖域」へと突入した。
銀行内は、不気味なほど物音ひとつしない。
鉄筋コンクリエイトの要塞は、六階で起きた衝撃を階下へと漏らすことはない。
それこそが、あさみが最上階を侵入口に選んだ最大の理由だった。
「司令!! あさみが突入した!」
虎太郎はカーテンの綱を力任せに引き込みながら、無線へと叫んだ。
『了解。各自、最善を尽くしなさい。司令室からバックアップするわ。一秒の無線情報も聞き逃さないように』
『了解しました』
『ま、バックアップは任せてよ。デジタルな檻で犯人を追い詰めてあげるから』
司令室の三人が、モニターを凝視しながら瞬時に各セクションの封鎖を開始する。
「……そういうわけだからさ。そろそろ『チェックメイト』だよ、Fくん」
特務課の歯車が噛み合ったことを確信した北条は、ずっと繋ぎっぱなしにしていた受話器の向こう、姿の見えぬ王(F)へと告げた。
『どういうことだ! 話が違うぞ、貴様!!』
想定外の事態に、Fの声が怒りと動揺で裏返る。
だが、北条は眉一つ動かさない。
「話も何も……。僕は食料の件以外、君の要求に対して『うん』と言った覚えはないよ。君が一方的に望みを並べ立てただけだ」
『そんなこと……ただの屁理屈だ!』
「そう、屁理屈だよ。こういう交渉はね、いかに屁理屈を積み上げ、時間を稼ぐかが警察側の腕の見せ所なんだ。だってそうだろう? 君たちの要求は、すべてこの国の『正義』を根底からぶち壊す内容だ。そんなもの、ハナから呑めるわけがないだろう」
北条は、ずっとこの瞬間を待っていた。 Fが苛立ち、余裕を失い、独りよがりの『シナリオ』が綻びを見せる瞬間を。
「君……このまま僕と話していていいのかい? もう『すぐそこまで』来ているよ。僕たちの、最高に手癖の悪い仲間たちがね。君は、何もできないまま、ここで御用だ」
北条が、これまでよりも一段低い、底冷えするような声で最後通告を下した。
「……ちっ!」
叩きつけるような音と共に、通話が断絶した。
「おやおや、荒いねぇ。受話器の悲鳴がこっちにまで響いてきたよ」
北条は「やれやれ」と肩をすくめ、ゆっくりと腰を上げた。
「どちらへ?」
怪訝そうな顔をする秋吉に、北条は柔和な、しかしどこか鋭利な笑みを返した。
「うん、もう交渉人としての仕事はお役御免だからね。ここからは――『自分の課』の仕事をさせてもらうよ」
車外へ出た北条は、夜の冷気に身を委ね、大きく背伸びをした。
「うーーん、僕は年寄りだけどね、ずっと座って仕事するのは性分じゃないんだ。あーやだやだ、こういうのが出世を逃すタイプだよねぇ」
飄々とした口調で独り言ちながら、彼は銀行ビルの最上階を見上げた。
「さて、新人ちゃんの実力や、如何に……?」
あさみの経歴は聞いていたが、あんな可憐な少女が、隣のビルから銀行の最上階へ跳躍するほどの「ガチの特殊部隊」だとは想定外だった。
「だいぶ度胸のあるお嬢さんだ。……特務課には、丁度いい」
ほどなくして。
一階――銀行フロアの窓から、鋭い閃光が漏れ出した。
(始まった、かな……?)
北条は目を細め、静かに「チェス盤」を畳む準備を始めた。
一方、銀行内。
(……まだ、気づかれてない)
あさみは暗視スコープ(ナイトビジョン)の緑色の視界を頼りに、音もなく階下へと滑り降りていた。
電気の消えた階段室は、彼女にとっての独壇場だ。
一階と二階の踊り場で足を止め、喉元のマイクに囁く。
「悠真くん、正面玄関以外の照明、全部落とせる?」
『もちろん。カウントダウンしていい?』
「OK。――3・2・1……」
あさみは即席の煙幕に点火した。
「『0』!!」
叫びと同時に、銀行内の全照明が消失した。
完全な漆黒。
その空白の瞬間に、あさみは階段室の扉を蹴り開け、煙幕をフロアの中心へと転がした。
「な、なに……!?」
「停電か!?」
「いや、煙臭いぞ……まさか火事か!?」
目隠しをされたままの人質たちが、見えない恐怖に煽られて騒ぎ出す。
「静かにしなさい! 撃ちますよ!!」
Fが激昂し、大声で暴徒化しそうな群衆を制しようとする。
だが、暗闇と煙、そして「死」の予感。
パニックに陥った人間にとって、もはやFの銃口すら絶対的な抑止力にはならなかった。
「出口はどこだ!!」
「それよりまずはこの拘束を……!」
焦燥が伝染し、フロアが混沌に染まる。
(くっ……プランが、崩れる……!)
Fは暗闇の中で、自らの完璧なシナリオが瓦解していく音を聴いた。
その喧騒の最中、あさみはカウンターの影から滑り込み、行員たちの背後へ現れた。
シュッ、という小さな断裂音と共に、ナイフがロープを断ち切っていく。
「静かに……。警察よ。これで動けるはず。人質たちの拘束を解いてあげて」
耳元で囁かれた慈雨のような声に、行員たちは震えながらも頷いた。
特務課の「牙」が、今、人質の鎖を解き放ち、犯人の喉元へと迫ろうとしていた。




