銀行内――陰謀
「さて……そろそろ、ですか」
銀行の死角で、Fは静かに時計の針を見つめていた。
「このままここに留まれば、いずれは包囲網に沈み、逮捕される。それは明白です。そして国家が凶悪犯の釈放に首を縦に振ることなど、余程の事態でもない限りあり得ない。……そんなこと、私にだって分かっていますよ」
人質たちは、一名を除いて全員が生きている。
警察に対し「一人ずつ消す」と脅してはいるが、実は人質を二人以上殺めることは、Fが握る『シナリオ』には記されていなかった。
彼が求めているのは、血の海ではない。
「そろそろ、潮時でしょうか。シナリオによれば、警察がしびれを切らして突入を画策する頃。どうやって入ってくるつもりでしょうね。シャッターを閉ざし、バリケードまで築いたというのに……」
Fの手元にあるシナリオは、警察の心理を完璧に先読みしていた。
【三時間立て籠もってなお、要求が受理されぬ場合は、次項へ移行せよ】
それが、闇から届けられた指示の一部。
「ちょうど三時間、ですね……」
防犯カメラの死角に鎮座していた椅子から、Fは音もなく腰を上げた。
そして、ロビーで銃を構えるDを呼ぶ。
「次のシナリオに進みますよ。D、大金庫へ向かいます」
「大金庫? 我々の目的は、金品ではなかったはずでは……」
「えぇ、違います。ですが、あの『場所』が好都合なのです。あそこなら、この銀行内で誰の手も届かない。……おっと、あの支店長代理には、少しだけ居残りを願いましょうか」
Fは防犯カメラに決してその輪郭を捉えさせぬまま、支店長代理を呼びつけた。
「な、何でしょうか……?」
「すみませんね、何度も。……一つ『お願い』があるのです。正面玄関のバリケードだけを、今すぐ撤去してください」
「え……?」
支店長代理は、耳を疑った。
立て籠もるため、機動隊の突入を防ぐために必死で積み上げた重い什器。
それを自ら崩せというのか。
「完全に退かす必要はありません。警察の突入は――『そこからは絶対にありません』から」
その言葉の真意を、支店長代理は測りかねた。
だが、断れば待つのは死だ。
彼は抗うことを諦め、再び重い机に手をかけた。
「さて、D……これでしばらく支店長代理が大金庫に来ることはありません。今のうちに向かいましょう」
「は、はい……」
戸惑いを隠せないDを従え、Fは銀行の深部――堅牢な防護壁に囲まれた大金庫へと足を進めた。
それは、警察が「正面」に目を向けている隙に、彼らを奈落へ突き落とすための移動だった。
銀行の最深部、大金庫前。
重厚な鋼鉄の扉が、外界の喧騒を完全に遮断している。
「F……。私たちの目的は、金品ではなかったはず。なぜ、こんな場所へ……」
理解が追いつかないDに対し、Fは暫しの沈黙を置き、ゆっくりと、葬送の儀式のように口を開いた。
「私たちには、与えられた『シナリオ』がありましたね?」
「えぇ……。この銀行での細かい指示が、すべてそこに。今のところ、一分の狂いもなく進んでいるはずだ。そうだろ?」
不信感を募らせるDを見据え、Fは淡々と予言を告げる。
「おそらく、もうすぐ警察による突入が始まります」
「えっ……!?」
「警察は愚鈍ですが、馬鹿ではない。正確な見取り図を手に、すべての退路を断って、私たちの息の根を止めに来る。……当然の帰結です」
「そ、そんな……。だったら、俺たちはどうすればいいんだ!」
震えるDの声を余所に、Fは懐から一通の紙束を取り出した。
「私のシナリオには、その対処までが詳細に記されていましたよ」
ここで、Dは致命的な違和感に気づく。
彼の持つシナリオには、『万が一警察に踏み込まれても問題はない。背後には「私」がついているのだから』という心強い、しかし曖昧な言葉しか記されていなかった。
「問題ないって……。あぁ、確かに書いてあった。あんたのにも、そう書いてあるんだろ?」
縋るようなDの問いに、Fは酷く冷ややかな笑みを返した。
「えぇ。確かに記されていました。……この方法を執れば『問題ない』と」
Dが人質を一人射殺したこと。
あの時、Fは想定外だと憤って見せた。
だが、それすらも黒幕が描いた緻密な絵図の一片に過ぎなかったのだ。
Dのシナリオには、こうあった。 『一人くらい射殺しても構わない。それが恐怖による完全支配への近道だ』
そして、Fのシナリオには、こう記されていた。
『若さゆえ、Dは人質を一人射殺するだろう。
あなたは想定外を装い、そのまま計画を完遂せよ。
……その死体は、後にあなたの無実を証明する「ノイズ」になる』
黒幕の視線は、数時間先の未来すらも完全に透過していた。
Dが殺したのは、奇しくもFと同じ年代の中年男性。
それは、後の現場検証で混乱を招くための布石ですらあった。
「そう……すべてはシナリオ通りだったんです。何もかもね」
Fは重く、深い溜息を吐き出すと、目にも留まらぬ速さでDからショットガンを奪い取った。
その銃口が、迷いなくDの眉間へと向けられる。
「な……何を……!!」
恐怖で顔を引き攣らせるDに、Fは聖職者のような穏やかさで引導を渡す。
「あなたは実によい仕事をしました。……ですが、あなたの物語はここでおしまいです。どうか来世では、もう少しマシな人生を」
「待て……! やめろっ……!!」
Dがすべてを悟った瞬間――。
静寂に支配された地下通路に、無慈悲な轟音が響き渡った。




