北条の思惑
(なかなか手際が良いみたいだねぇ。やっぱり頼れるのは特務課ってわけだ)
無線から流れるメンバーたちの鮮やかな連携を耳にし、北条の口元に微かな笑みが浮かぶ。
「北条さん、食料の準備ができたぞ!」
ちょうどその頃、稲取が焦燥を隠しきれない大声で報告してきた。
「まだ二十分じゃないか。さすがは捜査一課、仕事が早いねぇ」
「ちっ、一課をパシリに使いやがって……。まぁいい、どうやってコンタクトを執るつもりだ?」
稲取の瞳には、一刻も早く犯人を引きずり出し、失墜した警察の威信を取り戻そうとする功名心が燃えていた。
「もうすぐ連絡が来るよ。きっと、指定した時間よりも少しだけ早く……ほら、来た」
北条の予言をなぞるように、車両内の電話が鳴り響く。
「はいはい、北条だよ」
『……だいぶ余裕ですね、北条さん。こんな事件、慣れっこですか?』
受話器越しのFの声は、これまで以上に冷たく、苛立ちを含んでいた。
北条が己の支配に屈せず、平常心を保っていることが不快なのだ。
「余裕だなんてとんでもない。どうすれば人質を救えるか、君と話しながらも必死に知恵を絞っているところさ」
『見え透いた嘘を……』
「本当だよ。人質に罪はない。君たちはすでに一線を越えているんだろう? だったら、一刻も早く他の人質を救い出したい。……これは僕の本心だ」
北条は内側に燃える怒りを、プロの仮面で完璧に覆い隠す。
「で? どうやって渡せばいい。解放する人質とは、どこで合流させる?」
『何も難しくはありません。私が最も信頼をおく人質に、解放する方を連れていかせます。食料は人質と交換。私は去り行く者の背後を撃つような、無粋な真似はしませんよ』
「……大丈夫。君のその言葉は信じているよ。それで? 誰が食料を運べばいい?」
北条は予測していた。
犯人は、武装を解除しやすい女性警察官などを指名するはずだと。
だが、Fの返答はその予測を無慈悲に上回った。
『……北条さん。あなたにお願いしましょうか』
「……!!!」
「……だいじょうぶ。こちらも武器などは一切持たせません」
「それは安心だけど……君にとってはリスキーじゃないかな? 交渉人を直接、取引に使うなんて」
ゆっくりと、思考の速度を落とさぬまま言葉を選んでいく北条。
『あなたの「誠意」を、直に確認したいのですよ』
「……分かった。僕が真心を持って届けるよ。銀行の正面へ向かえばいいかな?」
『えぇ。あなたの姿を確認次第、人質を外へ出します』
「……はいよ」
通話が切れると同時に、北条の表情から余裕が消え、深い皺が刻まれた。
「参ったねぇ……。想像以上にやり手だ。解決の瞬間まで、僕を現場指揮から引き離し、自らの監視下に置くつもりだわ……」
「北条さん、本気か!?」
稲取が詰め寄るが、北条はすでに上着を脱ぎ、両手を挙げる準備を始めていた。
「時間がない。二十五分のリミットまであと数分だ。……稲取くん、ここからは君の指揮だ。ただし――」
北条は無線機のスイッチをオンにし、特務課の全員へ届くように、そして稲取には悟られぬよう、最後の「指示」を呟いた。
「……エレガントな配達員の登場だ。みんな、しっかり見ていておくれよ」
その言葉は、屋上のあさみへ、司令室の悠真へ、そしてスーパーの虎太郎へと飛んだ。
特務課の『盾』が自ら囮となり、敵の懐へ飛び込む。
反撃のカウントダウンが、ゼロになろうとしていた。
稲取が用意させた、人質二十人分の食料が詰まった重いバッグを両手に下げ、北条は指揮車両から降り立った。
「いやぁ、こいつは重たいねぇ」
足取りをふらつかせ、のんびりと銀行の正面へ向けて歩き出す。
だが、その口元は襟元に隠したマイクへと向けられていた。
『あー、聞こえるかい? こんな感じで、僕は配達員に任命されてしまったよ。しばらく指揮車からは離れる。……今回の犯人、一筋縄ではいかないよ。実に性格が悪い』
無線越しに、司の冷静な声が返る。
『了解。でも北条さんが犯人の「至近距離」にいるのは心強いわ。周囲の工作は他のメンバーで完遂させる。自分の身だけを考えて』
「すまないねぇ。でも、なんとなく犯人の『正体』がつかめてきた気がするよ。確信を持ったら話すさ。……じゃ、お役目を全うしてくるとしようかね」
北条が銀行の正面玄関前にたどり着く。
彼は一度足を止めると、ゆっくりと上着を脱ぎ捨て、足元に食料バッグを置いた。
そして、白シャツ一枚の姿で、天を仰ぐように両手を高く掲げた。
「はい、着いたよ。……見てるんだろう?」
どこかに潜む犯人の「目」に対し、武器も隠し持っていないことを全身で示す。
指揮車両内では、稲取、秋吉、古橋の三人がモニターを食い入るように見守っていた。
「流石だ。上着を脱げば、身に着けている装備品がないことは一目瞭然。下手に隠し持って、見つかった瞬間に交渉が決裂するリスクを排除したんだ」
古橋が北条の判断を低く評価する。
だが、秋吉は青ざめた顔で呟いた。
「けれど……相手が最初から殺すつもりなら、あの姿はただの標的よ」
「……ま、今回は大丈夫ってことだろ。あの人の勘と頭脳が、そう導き出したんだ。信じるしかないさ」
かつての同僚である稲取が、祈るような眼差しでモニターを見つめた。
「……来た!」
古橋の声と同時に、重厚なシャッターが、大人の膝の高さまでだけ持ち上がった。
隙間から姿を現したのは、一人の老人だった。
目隠しをされたまま、震える手で杖をつき、ゆっくりと、探るように北条の方へと歩み寄ってくる。
「すみません……。私たちのために……」
杖を突き、深々と頭を下げる老人。
北条はそっと手を添えようとしたが、その震えの激しさに胸が痛んだ。
「こちらこそ。すぐに助けてあげられなくて、申し訳ない。あなたが、今回解放される方ですか?」
「えぇ、そう言われました。……この荷物を中に運んだら、そのまま外に出ていいと」
「分かりました。……目隠しは、今ここで外しても?」
老人は、見えない視界の中で激しく首を振った。
「いいえ……解放されるまで外すなと言われました。もし外せば、誰か一人殺すと……」
「驚くほど入念だなぁ。……重いですよ。手伝いましょうか」
「いえ、大丈夫。……ありがとうございます。本当、ありがとうございます……」
老人は必死の思いで重いバッグを肩にかけ、目隠しという名の暗闇の中を、再び銀行の内側へと去っていった。
北条はその背中を、ただ静かに見送るしかなかった。
だが、その鋭い眼光は、老人の足首、そして開いたシャッターの奥にある「影の配置」を、瞬きもせずに記録していた。
「さぁて、まずは一人目……か」
北条が小さく、深く、溜息を吐き出す。
老人が食料バッグを運び込んでから三分後。
再びシャッターが静かに持ち上がった。
そこには、目隠しをされたままの老人と、その肩を抱えるように支える支店長代理の姿があった。
「……この方を、解放します」
支店長代理はそれ以上多くを語らず、震える老人の背をそっと北条の方へ押し出した。
(あなたが無事に解放されて、本当によかった……)
声には出さない、支店長代理の切実な祈りが空気を通じて伝わってくる。
その表情を一瞥しただけで、北条は彼が「壊れかけている」こと、そして犯人に心まで操られていることを即座に見抜いた。
「次の要求は?」
電話が切られているこの無防備な状況。
北条はあえて、支店長代理に問いを投げかけた。
「次の……要求?」
「イエスなら『はい』、ノーなら『えぇ』で答えて」
戸惑う支店長代理に近づき、周囲の雑音に紛れるほどの小さな声で、北条は最短の尋問を開始した。
「あなたは共犯?」
「……えぇ(No)」
「脅されて利用されているだけ、だね?」
「……はい(Yes)」
「犯人は、一人?」
「えぇ(No)」
「二人……?」
「……はい(Yes)」
「そっか。ありがとう。必ず皆を助ける。今は辛いかもしれないけれど、どうか頑張ってほしい。――警察(僕たち)を、信じて」
「……はい」
これ以上の接触は、Fに感づかれるリスクがある。
必要な情報――犯人の数と内情を掴んだ北条は、優しく、しかし毅然と支店長代理を銀行内へ促した。
「よろしく、お願いします……」
「『はい(Yes)』、任せておくれ」
北条は老人の手を引き、支店長代理の姿が完全に闇に消えるのを見届けてから、待機していた一課の刑事に保護を命じた。
「とりあえず、一歩前進……かな」
吐き出した溜息には、安堵の色はなかった。
かつてないほどの『強敵』。
そのシナリオ通りに動かされていることへの苛立ちと、一歩間違えればすべてが崩壊する綱渡りの緊張感。
(こんなに頭の切れる犯人、初めてだよ……)
だからこそ、絶対にこの手で終わらせる。
北条の瞳の奥に、静かな闘志が宿った。
車両に戻る北条を、稲取、秋吉、古橋の三人が迎える。
「お疲れさまでした、北条さん」
「無事、一人目の解放。まずは一勝だな」
「……何か、糸口は見つかりましたか?」
畳みかけるような三人の問いに、北条は首を横に振った。
「まぁまぁ、落ち着いて。まず、犯人は二人。それと、無理やり協力させられている支店長代理だ。彼はただの『使い走り』だよ。罪に問う必要はないレベルだ」
「報告します!」
そこへ一課の刑事が駆け込んできた。
「先ほどの老人、人工透析が必要な状態で、直ちに病院へ搬送します。彼からの証言です。犯人は二人組。ライフル、もしくはショットガンらしき長物を確認したとのことです!」
北条が「YES/NO」で引き出した事実と、老人の証言が合致した。
「武器は長物か……。一発の破壊力が高い。突入の難易度はさらに跳ね上がったね」
北条はモニターを見つめた。
そこには、再び閉ざされた銀行の鉄の扉。
その裏側で、あさみは今、どこまで近づいているのか。
特務課の反撃は、ここから「静」から「動」へと加速する。
「さて……どうしようか。犯人の要求を呑まないのは既定路線だが、となると人質救出には、いささか時間が足りないかもしれないね……」
北条が、無線のスイッチを入れたまま指揮車内で独り言のように呟く。
「いざとなったら、SIT(特殊捜査班)を突入させるしか……」
「稲取くん、相手はもう腹を括っている。突入の気配を察知された瞬間に、ロビーは無差別乱射の地獄絵図になるよ」
膠着する交渉。
遅々として進まない救出の『シナリオ』。
そんな重苦しい沈黙を、一発の銃声のような鋭い声が切り裂いた。
『ねぇ。犯人は二人なんでしょう? 銃の数は?』
特務課の無線に割り込んできたのは、屋上で獲物を待つあさみだった。
「……あぁ、正確な数は把握できていない。けれど二人組なら、最低でも二丁は持っていると想定すべきだね」
『だよね。……なら、対象が二人なら、なんとかなる。ねぇ、そろそろ「特務課チーム」のターンにしない? このまま要求の押し問答を続けるより、ずっと解決が早いと思うんだけど』
口調こそ年相応の奔放さがあるが、その指摘は極めて冷徹な戦況分析に基づいていた。
このままでは平行線、そして早期解決こそが唯一の生存ルートであることは明白だった。
「……そうだねぇ。よし、ここはひとつ『お偉いさん』の判断を仰ぐことにしようか。いつもの通りにね。……ね、司ちゃん!」
『……そう言うと思ったわ。了解。各所に楔を打ち込んでくる』
困った時の司令――新堂 司。
彼女の存在は、特務課にとっての『起爆スイッチ』だ。
司が「Go」を告げた瞬間、各方面に精通した怪物たちが、一斉にその封印を解かれる。
「――というわけだ、あさみちゃん。司ちゃんから結果が出るまで、ラッキーマート組は待機。僕はもう少し、犯人との『お茶会』に付き合ってみるよ」
『……わかったわよ。早くしなさいよね』
あさみは不満げに鼻を鳴らしたが、おとなしく北条の指示に従った。
だが、北条は無線機の向こうにいる全員へ向けて、かつてないほど厳格な声を飛ばした。
「……いいかい、皆。あさみちゃんの言う通り、時間は無い。ダラダラと要求を先延ばしにすれば、苛立った犯人が何をしでかすか分からない」
敬語を完璧に使いこなし、穏やかな知性を感じさせるF。
その話し方に惑わされ、つい「話せばわかる」と錯覚してしまいがちだが――。
「油断だけはしないでくれ。犯人の言葉が『穏やかに聞こえる』こと、それ自体が罠だ。現に彼は一人殺している。……容疑者Fは、本物の凶悪犯だ。そこを履き違えた瞬間、僕たちの命も、人質の命も、ゴミのように捨てられる」
その一言に、特務課員だけでなく、指揮車内の稲取、秋吉、古橋の背筋にも戦慄が走った。
「北条さん、あんたはやっぱり……すげえ人だ」
北条の横顔を、稲取が眩しそうに見つめる。
「ずっとあんたの背中を追い続けてきて、正解だったよ」
警視庁捜査一課長という肩書きを脱ぎ捨て、一人の「弟子」として稲取は小さく呟いた。
北条はそれに答えず、再び受話器を手に取った。
「……さぁ、第ニラウンドといこうか」
静寂を突き破る一閃が放たれる、その直前。 司から司令室へ、一通の極秘承認が届いた。
『……もしもし?』
再び、Fから電話が入る。
「まだ、その後誰も手にかけてはいないよね?」
『えぇ。「今のところは」、ね』
「嫌だねぇ。君の話は敬語だから穏やかに聞こえるけれど、底に流れる殺意の迫力がすごいよ」
『まぁ、「犯人」ですから。迫力くらい出さなければ、あなたのような人に舐められてしまう。そうでしょう? 北条さん』
のらりくらりと雑談に逃げ、相手の綻びを探そうとした北条だったが、Fはその意図さえも楽しむように見透かしていた。
北条の目が、一瞬で氷のように鋭くなる。
「……さすがだね。すぐに逮捕されるようなタマなら、今のでボロを出してくれるんだけどなぁ」
北条は捜査一課時代、その天賦の才を買われ、数々の極限状態を切り抜けてきた。
金欲しさの銀行強盗なら、追い詰められれば言葉が荒らぎ、
自滅への道を勝手に突き進む。
だが、目の前のFは、これまでのどんな凶悪犯とも違っていた。
『周りの有象無象と一緒にしないでいただきたい。私は「とある大義」のために立ち上がりました。これまでにあなたが相手にしてきた小悪党とは、一味も二味も違う。……そういうことです』
「確かに。あまりに周到でやりづらいよ。本当、困ってる。……もういい加減、自首してくれないかなぁ? その方が僕の胃にも優しいんだよね」
『そういうわけには参りません。まだ、この事件では「何も進んでいない」のですから』
何も、進んでいない。
警察から見れば未曾有の大事件だが、Fにとっては、これは序章に過ぎないのだ。
銀行という名の閉鎖空間を整え、観客(警察)を集めた。
だが、肝心の演目はまだ始まってさえいない。
『そろそろ……動くとしましょうか。我々の要求は当初と変わりません。逮捕された同志たちの釈放。それだけです。……我々も、これ以上悠長に構えているわけにはいきませんのでね。三十分後、答えをお聞かせください。……では』
「ちょっと! さすがに三十分は早すぎないか!? ……あら、切れちゃったよ」
受話器から流れるツーツーという無機質な音を聴きながら、北条は「ちっ」と短く舌打ちをした。
「相当な切れ者だよ、今回の犯人は……。こっちが動くのを完全に読んで、その先手を打つための『三十分』だ。じっくりと計画を練る余地すら与えない。……ここで無理に突入すれば、間違いなくロビーは血の海になるよ」
北条はモニターを見つめた。
三十分。
それは、特務課が「法」と「物理」の壁を越えるために残された、最後の砂時計。
その時、無線機から司の、冷徹ながらもどこか高揚を含んだ声が響いた。
『北条さん。……「ライセンス」は降りたわ。これより、特務課独自の救出作戦――【フェイズ・ゼロ】を開始する』
司令部、ラッキーマート屋上、そして店内。 特務課の全メンバーに、戦慄にも似た緊張が走った。




