人質解放
「入電よ、北条さん」
指揮車両内のモニターを見つめていた秋吉夕が、鋭い声を上げた。
(――思ったより、早いね)
単独犯、あるいは素人の混成チームにしては、あまりに淀みのないレスポンス。
北条はその違和感を喉の奥に飲み込み、受話器を耳に当てた。
「……はい、北条だよ。何か、風向きでも変わったかな?」
努めて平静に、北条はFの「リズム」を崩さないよう語りかける。
『――人質を一人、解放しようと思います』
「……ふぅん」
北条の眉が、微かに、しかし鋭く動いた。
「……条件は、なに?」
『察しがいいですね。嫌いではないですよ、そのよく回る頭は』
稲取、秋吉、古橋の三人が、反射的に顔を見合わせた。
北条とFの会話の深度が深まりすぎて、現場のプロたちですら状況の推移に一瞬置いてけぼりにされる。
「まぁ、この道長いんでね。少しは犯人の気持ちが分かってきたつもりだよ。……で? その条件は」
『これから解放する人質に、食料を持たせてください。行員、市民を含めて二十人分。……さすがに、人質を餓死させるなんて「勿体ない」ですからね』
淡々と、無機質に語るF。
北条はノートに力強くペンを走らせた。
【長期戦を想定。早期解決は極めて困難】
食料の要求は、そこに留まり続ける意志の表れだ。
犯人は逃げるためではなく、何かを「完遂」させるための時間を買おうとしている。
「了解。すぐに手配させるよ。高級品は難しいが、コンビニのおにぎりやパンならすぐだ。人数分より少し多めに用意させる」
『……結構です。ただし、薬物の混入などは考えないことだ。ランダムに人質に食べさせ、一人でも異変が出た時点で――全員を射殺します』
「これはこれは、用心深いことで。分かったよ。準備ができ次第、こちらから連絡する」
『三十分です。三分超過ごとに、一人ずつ撃ちます』
あくまで冷酷、かつ機械的。
人質の命を、ただの交渉チップとしてしか見ていないその口ぶりに、北条は内臓を焼かれるような怒りを覚えたが、それをプロの仮面で完璧に押し殺した。
「……二十五分で揃えてみせるよ。だが、人質に食料を渡したところで、そいつがまた銀行内に戻ってしまったら『解放』にならない。本当に、出してくれるんだろうね?」
刹那、沈黙が降りた。
『もちろんです。その一人の……「リクエスト」はありますか?』
「こちらが決めてもいいのかい?」
その言葉に、車内の三人が一斉に色めき立った。
彼らの脳裏に浮かぶのは、ただ一つの正解。
要人の令嬢――彼女を指名し、解放させれば、警視庁上層部の至上命令は達成される。
稲取、秋吉、古橋が、それぞれ殴り書きのようなメモを北条に突きつけた。
『要人の令嬢を指名しろ』
『令嬢をいち早く解放!』
『令嬢の安全を確認次第、突入に踏み切る』
三人の「エリート」たちの目が、獲物を狙うようにギラついている。
北条は彼らの欲求が透けて見えるメモを一瞥し、重い溜息を飲み込んで、小さく頷いた。
「……それじゃあ、こちらの希望を言わせてもらうよ」
北条がその「命」の名を呼ぼうとした、その時。
特務課司令室の悠真から、北条のイヤーモニターに衝撃的な情報が飛び込んできた。
「一番身体の弱そうな、ご高齢の方を一人。……それでお願いするよ」
「……なっ!?」
「ちょっと、北条さん……!!」
「…………!」
稲取、秋吉、古橋の三人が揃って絶句し、北条を凝視した。
秋吉が叩きつけるようにペンを走らせる。
【上層部の指示を忘れたの? まずは令嬢を確保すべき!】
続いて稲取。
【老人を解放したところで、我々にメリットはないぞ!】
北条は、目の前に突きつけられた「醜い本音」のメモを一瞥し、薄く笑みを浮かべた。
「持病のある方、高齢の方……。長時間拘束されることで命の危険がありそうな人を、最優先で解放してあげたい。その具体的な判断は――君にお願いするよ。僕が思っているよりも、ずっと君は『公平』な目を持っていそうだからね」
稲取や秋吉の怒りを無視し、北条はFとの対話を滑らかに滑らせる。
『……分かりました。しかし、驚きましたね。人質の中には、警察が「優先させたい特定の人質」も紛れているかと思ったのですが……』
受話器越しに、Fが心底不思議そうに呟いた。
「!!!」
「はっ!?」
その呟きに、稲取と秋吉の肩が跳ねた。
(――ちっ、聞かれたか?)
北条は彼らの漏らした小さな動揺が、マイク越しにFの耳に届いていないかだけを危惧した。
「……もしそんな人物がいたとしても、真っ先に解放を要求なんてしないよ。要求したところで、君は解放なんてしない。……だろう? 君は頭がいい。こっちの裏をかき、僕たちが一番『嫌がる』手段を、一番効果的なタイミングで取ってくる。……そうだろう?」
北条は、絶対零度の冷静さでFの「知性」を肯定し、揺さぶりをかける。
『……さすが、私の交渉相手に選ばれただけのことはある。恐ろしい洞察力だ。確かに、人質の中に重要人物がいたとして、私があなたの要求を素直に飲むとは限りませんからね。……流石です』
その返答に、北条は内心で深く安堵した。
(良かった……悟られていない。ここは「令嬢」の価値を伏せたまま進めたほうが良さそうだねぇ。相手の『方向性』も見えたことだし)
この刹那の交渉で、北条はFの「理」を掴んだ。
穏やかに対話を進めている限り、相手も理性的に振る舞う。
しかし、ひとたび警察側の「弱み」というカードを見つけたなら、Fはそれを一切の躊躇なく、残酷な「処刑台」として利用する。
警察にとっての弱点――要人の令嬢。
その存在が公になれば、Fはより強硬な要求を突きつけ、逆らえば見せしめとして彼女の命を最初に奪うだろう。
「北条……貴様、さっきの独断は――」
稲取が憤怒の形相で声を荒らげようとした瞬間、北条がそれまでに見たことのないような険しい表情で彼を制した。
(――頼む、黙れ。これ以上、僕のチェス盤を汚さないでくれ)
その鬼気迫る「プロの眼」に、稲取は思わず言葉を飲み込み、その場に固まった。
「さて、まずはゴハンだね。すぐに用意させるから、一度電話を切るよ」
『えぇ……。お願いします。では、二十五分後に』
通話が切れると同時に、北条は肺の中の重たい空気をすべて吐き出した。
これ以上、指揮車内の「愚鈍な欲望」がマイクに乗る前に、対話を終わらせたかったのだ。
「どういうつもりだ、北条さん! 人質の解放なら、真っ先に彼女を……!」
通話が切れた瞬間、稲取の怒声が指揮車内に響いた。
だが、北条は椅子の背もたれに体を預けたまま、温度の無い声で淡々と答える。
「要人の令嬢がいます、だからその子を返してください――そんな間抜けなこと、犯人に言えるわけないだろう? 銀行内には彼女と同じ年格好の女性が何人もいる。細かく容姿を説明すればするほど、相手は彼女の『価値』に気づく。……そうなれば、交渉の主導権は永遠に失われるよ」
「う……」
稲取はぐうの音も出ない。
「僕たちは、この交渉が終わるまでは彼女の存在を『知らない』という体で通す。それがベストだ。もし価値を知られたら、不当な要求を呑まされるか……最悪の場合、彼女一人を盾にして、他の人質は全員殺されることになる」
「……そんな」
古橋と秋吉の顔から血の気が引く。
北条が見据えているのは、最優先の人質を救うことではなく、「全員を救うための唯一の細い糸」をたぐり寄せることだった。
「とにかく、気長に待とう。まずは皆のゴハンだ。稲取くん、指示を出せるかい?」
「あ、あぁ……。もちろんだ」
稲取はすぐに車両を飛び出し、周囲の刑事たちに食料調達の号令をかけた。
「虎ぁ。ちょっといいかな」
北条が車両の窓越しに、外で待機していた虎太郎を呼ぶ。
「はいよ」
「この銀行の真裏に、大きなスーパーがあるだろう? そこの従業員とお客さんを、上手いこと退避させてほしいんだ。マスコミが騒ぎ出す前にね。……それが終わったら」
「終わったら?」
「その店のシャッターをすべて閉めて、辰川さんと二人で店内で待機していてほしい。……あ、万引きはダメだよ」
「するか、馬鹿野郎!! ……でも、そこまで言うってことは、何か『突破口』を見つけたんだな?」
虎太郎はニヤリと不敵に笑った。
数々の修羅場を北条と共に潜り抜ける中で、虎太郎は理解していた。
この食えない男が冗談めかして指示を出す時は、すでに七割以上の勝算を握っている時だと。
「二十分、待ってくれ」
「二十分? ……いいねぇ、上出来だよ」
虎太郎は北条と視線を合わせると、弾かれたように銀行の裏手へと走り出した。
走りながら、無線のスイッチを叩く。
「辰さん! 銀行裏のスーパー『ラッキーマート』まで来てくれ! 俺が客と店員を退避させておく。合流して店を占拠するぞ!」
『あいよ、了解だ。もう向かってる、すぐに着くぜ』
特務課の猟犬たちが、ついに牙を剥き始めた。
北条が作った「五時間」という名の空白に、特務課独自の『シナリオ』が書き込まれていく。




