交渉人・北条
「お疲れ様です!!」
北条と虎太郎が指揮車両に近づくと、警戒にあたっていた二人の警官が鋭い敬礼を送った。
「はいはい、お疲れ様。ここかな? 交渉の『特等席』は」
「はい! 稲取一課長が中でお待ちです!」
警官が重厚なドアを開け、北条を中へと促す。
その背に続こうとした虎太郎だったが、警官の腕によって無造作に制された。
「おい、俺も特務課の関係者だぞ」
「この車両内に入れるのは交渉人と一課長、そして各班の長のみです。人数が増えれば指示系統が乱れ、交渉に支障をきたす」
「理屈はわかるけどよ……」
虎太郎が食い下がろうとした、その時。
「虎ぁ。できるだけ、この車の近くにいておくれ。……大きな声で『独り言』を言うかもしれないからね」
中から聞こえてきた北条の声。
その意図を察し、虎太郎はニヤリと笑って引き下がった。
「了解。……入らなきゃいいんだろ?」
北条は、この強固な「警察の壁」の外側にいる特務課を、自らの耳目として使うつもりなのだ。
虎太郎は車両の後部座席付近に背を預け、相棒の合図を待つ態勢に入った。
一方、電子機器の放熱でわずかに熱を帯びた車両内――。
「やぁやぁ。久しぶりだねぇ、皆さん」
そこには、現在の警視庁を支える「三本の柱」が揃い踏みしていた。
捜査一課長・稲取重三。
SIT隊長・古橋一徹。
そして、組織犯罪分析課長・秋吉夕。
現場の叩き上げから昇り詰めた伝説の刑事、稲取。
的確な武力行使を信条とする『鉄人』古橋。
そして、司の同期であり警視庁最高の知性を持つ秋吉。
「警視庁の未来が三人も揃うなんて。……この銀行の中には、よほど『やんごとなきお方』でも閉じ込められているのかな?」
北条の皮肉めいた問いに、室内の空気が一瞬で凍りついた。
「北条さん……茶化さないでいただきたい。この事件は極めて緊急を要する」
「いいですよ、稲取さん。北条さんのことだもの、すでにおおよその推測はついているでしょう?」
凛とした声で制したのは、制服に身を包んだ秋吉夕だった。
「おぉ、夕ちゃん。その制服、実によく似合っているね。美人が際立つよ」
「あら、お上手ですこと。……お察しの通りよ。人質の中に『要人の令嬢』がいるわ。それで総監が私たちを直接派遣した。……命令は『犯人の生死は問わず、令嬢を最優先で救出せよ』とのことよ」
「ふぅん……。穏やかではないねぇ」
北条の瞳から、一瞬で温度が消えた。
「『命の価値』を勝手に決めるとは、お偉いさんも罪作りだ。……いいよ、始めてくれ。僕は僕の仕事を、エレガントにこなすだけだ」
北条が専用のヘッドセットを装着したその瞬間、車両内の全モニターが銀行内部の不気味な静寂を映し出した。
稲取、古橋、秋吉、そして北条。
現代の警視庁を支える四つの頭脳と力が、一台の指揮車両に凝縮されていた。 目的は、中央銀行に立て籠もる強盗犯の制圧。
そして、人質の解放。
「なかなか難易度の高いミッションだよねぇ……。中の様子は完全なブラックボックス。突入経路は塞がれ、犯人の数も素性も不明。……そもそも、交渉のテーブルに着くかさえ謎だ。だって、逃げるためなら身代金を要求するより、さっさとこの場を去ったほうが賢明だもの」
北条が苦笑いを浮かべ、無機質な鉄の塊と化した銀行のモニターを見やる。
「確かに。なぜ犯人は強奪に成功しながら、あえて『立て籠もり』を選んだのでしょう……? 時間を稼げば稼ぐほど、包囲網は狭まり、逮捕のリスクは跳ね上がるのに」
秋吉が冷静に分析し、古橋が拳を握りしめる。
「俺たちに喧嘩を売ってやがるのか」
「ふむ……なんとしても突破口を見出さねば……」
稲取の焦燥が車両内の空気をさらに重く沈ませた、その時だった。
――プルルル、プルルル。
卓上の電話が、凍りついた静寂を切り裂いた。
「……おや、誰からだろう?」
北条がゆったりとした動作で受話器を取る。
「はいはい、こちら警察。……御用件は?」
『……ご機嫌いかがでしょうか。愚鈍なる警察の皆さん』
ボイスチェンジャーを通した、金属的な無機質な声。
その音声を聴いた瞬間、北条は他の三人に向け、静かに右手を上げた。
(――犯人だ)
即座の判断。
車内の緊張が爆発し、三人の表情が鋼のように強張る。
「愚鈍とはご挨拶だ。これでも数々の難件を解決してきた刑事なんだけどねぇ」
『あなたのことは聞いていません。警察とは往々にして愚鈍。隠蔽、不祥事、誤認逮捕……。権力という鎧を着ただけの愚者の集まりではないですか』
「それを言われると痛いね。精進するよ、市民の安心と安全のために」
犯人を刺激しないよう、北条はまるで旧友と話すかのような穏やかなトーンを維持する。
その傍ら、彼の右手はすでにペンを握り、傍らのノートに走り書きを始めていた。
【犯人:知的な中年以上。冷静沈着】
稲取と秋吉が、そのメモを見て顔を見合わせた。
「……どうして、そう言い切れるの?」
秋吉の囁きに、北条は自分の声が受話器に入らないよう、即座にメモで返答を返す。
【この緊張下で、若者が「愚鈍」なんて言葉を迷いなく使うことは稀だ。教育レベルも高い】
「相変わらず、大した洞察力だぜ……」
稲取が椅子に深く座り直し、感嘆の溜息を吐いた。
北条の瞳は、モニターに映る「要人の令嬢」や「人質」の文字ではなく、受話器の向こうに潜む『悪意の構造』を鋭く見据えていた。
「さて。そんな立派な御高説を垂れるために電話をくれたわけじゃないだろう? ……君が望むのは、金かい? それとも……」
北条が仕掛けた。
「命の価値」を巡る、エレガントで残酷な心理戦が、ついに火蓋を切った。
「警視庁の北条だよ。……君が、今回の『主役』かい?」
北条は、重圧を微塵も感じさせない弛緩したトーンで受話器に語りかけた。
『犯人……。この銀行の立て籠もり事件に関しては、確かに私は「犯人」です。あなたが交渉人ですね?』
「うん、嫌だったんだけど無理やり頼まれちゃってさ。交渉なんて、本当は苦手なんだよねぇ」
『それでも白羽の矢が立つということは、あなたは有能な方だ。羨ましいですね。こちらも心してかからねばならない』
北条のペンが、さらさらとノートを走る。
【現状に強い不満。有能な他者への羨望と劣等感が混在。社会から疎外されている自覚あり】
「有能じゃないよ。ただ仕事がなかっただけさ。それに、こんな貧乏くじ、誰も引きたがらないだろう?」
『ふふ……確かに。断ったほうが賢明だったと言えましょう。……さて』
受話器越しに、男が深く、冷たい呼吸を整える音が聞こえた。
同時に、北条の瞳から「おどけ」が消え、絶対零度の鋭利な光が宿る。
『交渉に入りましょう。……我々は、本宮和也、姉崎里美、そして中山祐司の三名の即時釈放を要求します』
「……なんだって?」
北条の眉が跳ね上がった。
要求された名はすべて、特務課がこれまで対峙し、収監してきた「凶悪犯」たちの名だ。
「『我々』と言ったね。君たちは、どこかの大きな組織の一員なのかい? 君たちの背後には、絶対的なボスがいるのかな」
『我々は組織にあって組織にあらず。……しかし、その三名は、我々と同じ意思のもとで「失敗」した者たち。いわば、同志なのです。彼らの自由を、我々は求めます』
「へぇ……」
北条は思考を音速で走らせた。
トップが不在、あるいは実体を持たない流動的なコミュニティ。
思想だけを共有し、インターネットの闇で繋がる「個」の集団。
(――つまり、末端の駒をいくら叩いても、心臓部には辿り着けない構造か。こいつ自身も幹部じゃない。どう転んでも、この男から組織の全容を吐かせることはできないね……)
北条は小さく吐息をつくと、非情な結論をノートに叩きつけた。
【本件での組織解明は「不可能」。現時点での最優先事項は、人質の奪還と事件の物理的終結に絞る】
背後で見ていた稲取、古橋、秋吉が息を呑む。
数々の絶望的な現場から、針の穴を通すような突破口を見出してきた北条。
その彼が、即座に『不可能』の三文字を刻んだのだ。
そこには、一切の綻び(スキ)がないことを意味していた。
「……分かった。重い腰の連中を説得するのは骨が折れるが、本庁に掛け合ってみるよ」
北条は受話器を置き、一瞬だけ車窓の隙間から、外で待機する虎太郎へと視線を投げた。
「命の価値」を天秤にかける、地獄のチェス。
北条が指した最初の一手は、あえて「相手の土俵に乗る」という、危険な賭けだった。
「建前では、ありませんよね?」
『もちろんだとも。ちゃんと掛け合ってみるよ。……しかし、首を縦に振るかどうかは、本庁のお偉いさん次第だ』
「そんな悠長なことを言っている場合ではないでしょう。本当に、人質を殺しますよ。……現に一人、既に殺している。こちらは一切の容赦をしません」
「!!!」
Fの告白に、北条の背筋に冷たい戦慄が走った。
「……ちっ」
小さく舌打ちを漏らすと、震えるペン先をノートに叩きつける。
【既に1名、死亡している模様。犯人は一線を超えている】
「な……っ!!」
「なんてこと……」
「くそっ、間に合わなかったのか……!」
背後で文字を盗み見た三人が、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。
既に死者が出ている。
その事実は、この交渉の前提を根底から覆す。
一人殺したのなら、二人も三人も同じだ――犯人がその心理的優位に立った時、生存している人質たちの『命の価値』は、暴落したも同然だった。
「……分かった。一生懸命に掛け合うよ。だから、もう少し時間をくれないか」
『五時間です。五時間以内に、手続き開始の言質を取りなさい。その連絡を、人質解放の第一条件とします』
「五時間か……。なかなかシビアな要求だね」
『こちらも必死なのですよ。優秀な警察の方々なら、五時間もあれば突入策の一つも練り上げるのでしょう?』
Fの声は、どこまでも澄んで、冷静だった。
口にしているのは『シナリオ』の文言かもしれない。
だが、それを淡々と、揺らぎなく発信できるほど、彼の心は冷たく静まり返っていた。
――腹を括ったのだ。
もう引き返せない深淵まで足を踏み入れてしまったことを、Fは完全に理解している。
成功して人生を塗り替えるか。
逮捕され、あるいは死んで灰になるか。
人生で一度も訪れなかった「巨大な天秤」が、今、Fの目の前で激しく揺れていた。
『では、五時間後の良い報せを待っています。……また、こちらから連絡します』
「待ってくれ。こちらからの連絡手段は用意してくれないのかい?」
『必要ないでしょう。あなた方は、私の要求を呑むしかない。……さもなければ、次の遺体が転がるだけですから』
無機質なツーツーという音が、一方的に通話の終わりを告げた。
「……ふーーーーーっ」
受話器を置いた瞬間、北条は椅子の背もたれに体を預け、肺の中の空気をすべて吐き出すように大きく息をついた。
「どうなんだ、北条さん!」
稲取が鬼気迫る形相で詰め寄る。
「……参ったねぇ」
北条は両手で顔を覆い、指の隙間から漏らすように呟いた。
「分が悪い……なんてレベルじゃないな。肝が据わっているなんてものじゃない。……絶望的に、狡猾だ。僕で相手が務まるかどうか、本気で怪しくなってきたよ」
強敵。
伝説の交渉人と呼ばれた北条に、己の敗北すら予感させる。
それほどまでに、今回の『シナリオ』は、人間の弱さと強さを完璧に計算し尽くされていた。
車外でその様子を察した虎太郎は、無線機のスイッチを入れた。
「……聞こえるか、あさみ。北条さんが『参った』と言った。……ここからは、お前の出番だぞ」




