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SEVEN~警視庁特務課~  作者: 桂木 京
第4話:命の価値

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悪夢の始まり

――警視庁に第一報が入る、二時間前。


台東区。

東京中央銀行の入り口を望む、昼下がりの歩道。

行き交う人々が互いに無関心なその場所で、二人の男が邂逅した。


「あなたが……『F』さん、ですね?」


「はい。あなたが『D』さん……?」


一人は、どこにでもいる中年のサラリーマン。

くたびれたスーツに眼鏡をかけた姿は、中間管理職の悲哀を絵に描いたようだ。

もう一人は、まだ幼さの残る学生。

有名大学のロゴが入ったパーカーを着ているが、その視線は定まらず、周囲を怯えたように見回している。


共通しているのは、二人とも中身の詰まった大きなバッグを手にし、異常なほど緊張していること。


「……あ、あの。『シナリオ』は、完璧に覚えてきましたか?」


「もちろんです。あとは実行に移すだけ……。ですが、本当に成功するんでしょうか。送られてきた装備は、指示通りバッグに詰めましたが……」


「私だって不安ですよ。ですが、これほどの物資をわずか三日で揃えて送り届けてきた相手です。……抜かりはないはずだ」


「そうですね。これだけの計画を立てられる組織なら、きっと……」


二人はバッグを握る手に力を込めた。


「成功すれば、私たちは素性を隠したまま、莫大な報酬を手にできる。この『シナリオ』をなぞるだけで、今の生活をすべて捨てられる大金が……最高だと思いませんか?」


囁き交わす声は、雑踏の音に消えていく。

二人は念を押すように、鞄の中に隠した一冊の冊子――『シナリオ』と題されたそれを、脳裏で反芻した。


会社で理不尽な板挟みに耐え続けてきた『F』。

親の期待に応え続け、将来への閉塞感に窒息しかけていた『D』。


初対面の彼らを結びつけたのは、一つの闇サイトだった。


『――現状を破壊し、望む未来を手に入れたい方へ。完璧な筋書きと、相応の報酬を約束します。』


その不敵な見出しをクリックした瞬間、彼らの運命は決まった。

サイトに記されていたのは、銀行強盗の全工程。

金の要求方法から、立て籠もりの心得、警察への対処、そして――鮮やかな脱出路。


あまりに緻密で、あまりに美しく、あまりに自分たちの弱さを理解してくれているその「計画」に、二人は魅了されてしまったのだ。


サイトの主から届いたメールには、それぞれに異なる、より詳細な指示が添付されていた。

そして、そこには不気味な赤字で、こう添えられていたのだ。


――このシナリオは、決して共犯者に見せてはなりません。――


その警告が意味する真意に気づくほど、今の彼らに冷静な思考は残っていない。

ただ、画面の向こう側にいる「(マスター)」だけが、自分たちの絶望を理解し、人生を変えてくれる救世主だと信じ込んでいた。


「……行きましょうか」


「はい……」


二人が重い腰を上げたその時、バッグの底に忍ばせた、ある「マーク」が刻印された物資が、鈍い音を立てた。


さそり』。


その毒が、白昼の銀行へと解き放たれようとしていた。



近くの公衆トイレで着替えを済ませ、FとDは再び人混みの中へと戻った。


「……準備は、いいですか?」


「えぇ。万が一失敗した時の心残りも、もうありません。……いえ、失敗することは考えないようにしましょう。私たちは必ず成功して、素晴らしい人生を掴み取るのですから」


二人は互いに頷き合い、並んで正面から銀行の自動ドアをくぐった。


「いらっしゃいませ。整理券をお取りになり、少々お待ちくださいませ」


フロアマネージャーの女性が、洗練された微笑みで二人を迎え入れる。

二人はその丁寧な案内に素直に従い、発券機を操作した。

カテゴリーは『融資・投資に関するお問い合わせ』。

これもすべて、シナリオ通りだ。


ソファに並んで座る二人。

ふと、Fが視線を落とすと、隣に座るDの両手が小刻みに、しかし激しく震えているのが見えた。


「……どうしましたか。Dさん」


「いえ……大丈夫です。すぐに、収まりますから」


隠そうとしても溢れ出る、生身の恐怖。

もし行員に不審に思われれば、すべてが水の泡になる。


「……人生、変えましょう。あなたもこれまで、不遇な道を歩んできたのでしょう。その屈辱的な毎日を思い出してください。あの灰色の生活に二度と戻らないために、ここで踏ん張るんです」


諭すような、しかし力強いFの声。

管理職として多くの部下の悩みを聞き、動かしてきた「言葉の重み」が、今は犯罪のパートナーを繋ぎ止めるために費やされている。


「ありがとうございます。僕……官僚の息子だというだけで、毎日執拗ないじめに遭い、金を吸い取られる日々だったんです。両親から自立しようと上京しましたが、どこへ行っても肩書きに縛られ、利用され、奪われるだけ……。だから僕は、変わりたいんです。他人の金ではなく、自分の手で掴んだ金で身を立てて、誰にも屈しない『強い力』を手に入れたい……!」


Dの瞳に、赤黒い悔しさが滲む。

それを見たFは悟った。

この青年は、エリートという皮を剥けば、中身は数えきれないほどの泥を啜ってきた一人の人間なのだと。


「その怒りを、最後まで忘れないでください。挫けそうなとき、過去の口惜しさは必ず自分を動かすエンジンになる」


「はい……」


「お待たせいたしました。整理券二十三番をお持ちのお客様、五番窓口までお越しくださいませ」


Dの呼吸が整ったその時、無機質で綺麗なチャイムが二人を呼び出した。


「行きましょう」


「はい」


二人はジャケットの襟を正し、淀みのない足取りで窓口へと向かった。


「こんにちは。私、『東京ハウジング』の者です。今回はこちらの彼が家を建てたいと申しまして、融資のご相談に伺いました。即決というわけではなく、まずは概算の見積もりを頂戴したいと思いまして……」


「かしこまりました。工事計画書などはお持ちでしょうか?」


「えぇ。工事計画書と土地の価格見積書、持参しております。まだ仮契約の状態ですので、大まかなものですが」


Fは流暢に、そして穏やかに話し始めた。

そのカバンの中に、偽造された書類と――社会を震撼させる『物資』が潜んでいるとは、誰も気づかないままに。



「かしこまりました。では担当を呼びますので、少々お待ちくださいませ」


受付係が丁寧な一礼を残し、奥へと消えていく。

そのわずかな隙を、FとDは見逃さなかった。

二人は一瞬だけ、鋭い目配せを交わす。

Dがぎこちない動作で立ち上がった。


「すみません……少しお手洗いに」


「はい。右手奥にございます。ご自由にお使いください」


係の案内を背に、Dがフロアの隅へと消えていく。

ほどなくして、上質なスーツを纏った中年の男が、差し出した名刺と共に現れた。


「お待たせいたしました。支店長代理のものです。……おや、お連れ様は?」


「えぇ。大きな契約を前にして、緊張でもされたのでしょう。今、お手洗いに向かいました」


「左様でございますか。では、先に応接室へ参りましょう。お連れ様は、戻られましたら私がご案内させていただきます」


洗練された所作でFを促す支店長代理。

大口の融資相談という「獲物」を、銀行側も逃すまいと必死なのだろう。

その丁重な扱いは、今から起こる惨劇への皮肉なレッドカーペットだった。


「申し訳ございません。あいにく他が埋まっておりまして、こんな狭い部屋しか用意できず……」


通されたのは、防音設備の整った、調度品の美しい小部屋。

Fは周囲を見渡し、満足そうに口角を上げた。


「いいえ……このくらいの広さの方が、好都合ですよ」


「……え?」


その言葉と同時に、Fがバッグから引き抜いたのは、鈍い光を放つショットガンだった。

それも、素人には扱えぬはずの、手入れの行き届いた『凶器』。


「……あなた、失礼ですがおいくつですか?」


銃口を突きつけられ、支店長代理の顔から一瞬で血の気が引く。


「ご、ごじゅう……六歳、です」


「そうですか。あと四年で定年退職だ。この素晴らしい銀行で支店長代理まで昇り詰めたあなたなら、退職金も大層な額になる。老後の不安どころか、家族に多大な貢献ができる。……実に素晴らしい人生だ」


Fは淡々と語りながら、ショットガンの照準を支店長代理の眉間にピタリと合わせた。


「……ひっ!!」


「だがね。そんな輝かしい未来が手に入るかどうかは、あなたの『心がけ』一つですよ。六十過ぎまで生きるか、今日ここで、私の引き金一本で果てるか。……勘違いしないでください。私に情けはありません。あなたを生かせば、私が逮捕されるリスクが高まる。私も人生を賭けているのでね」


冷徹な、しかし極めて理知的な脅迫。

支店長代理は、目の前の男が本気であることを本能で悟った。

テレビドラマにあるような「正義感」など、この圧倒的な暴力の前では霧のように消え去る。

脳裏に浮かぶのは、愛する家族の顔と、これまで築き上げてきた平穏な生活。


死にたくない。

死んでしまえば、地位も、名誉も、家庭も、すべてが虚無に帰す。


「……なにを、すればいいのですか?」


震える声で絞り出したその言葉は、彼が『命』を守るために、自らの誇りと銀行の『信頼』を売り渡した瞬間だった。

Fは、かつて部下に指示を下した時のように、静かに、そして残酷に微笑んだ。



「それでは、社内電話で社員たちに告げてください。まずはこの銀行のシャッターを、すべて閉めるように」


Fの指示に感情の類は一切含まれていない。

シナリオ通り。

まるで血の通わない機械がプログラムを読み上げるように、Fは冷たく告げる。

その異様な圧力に屈した支店長代理は、震える指で内線電話の受話器を取った。


「私だ。応接室から電話している。……あぁ、私の指示通りにしてほしい。まずはすべてのシャッターを閉めるんだ。防火シャッターもすべてだ。……え? 問題ない。心配しなくていいよ」


死の恐怖を必死に抑え込み、努めて平静な声を絞り出す。

それが自らの、そして行員たちの首を絞めることになると分かっていながら。


「警察……?」


「……通報すれば、今この銀行内にいる人間は、例外なく皆殺しになる。そう伝えてください」


「ひ……っ」


わずかに笑みを浮かべ、さらりと残酷な断罪を口にするF。


「……通報すれば、私たちは皆、殺される。……通報せずに従おう」


支店長代理の悲痛な声が受話器の向こうへ消え、ほどなくして、銀行の堅牢なシャッターが重厚な音を立ててすべて閉まるのが、応接室にまで響いてきた。


直後に沸き起こる、客たちの困惑と喧騒。


「騒がしくなってきましたね……」


Fは流れるような所作で、次の指令を突きつける。


「さぁ、部屋を出る前に行員たちに伝えなさい。すべてのお客を一か所に集め、携帯電話を没収しろ、と。回収を終えたら両手を後ろ手に縛り、目隠しをさせる。道具はすべて、私の『連れ』が持っています。……もしおかしな行動をとる者がいれば、行員から一人ずつ殺します」


支店長代理には、もはや言葉を返す余力すら残されていなかった。


「終わったら、有線のチャンネルをニュースに変えてください。それが、私たちが外に出る合図です」


この銀行は都内でも屈指の有力行だ。

社員教育の徹底が、皮肉にもこの『有事』において、犯人にとっての理想的な行動力として反映されていた。


ものの二十分もしないうちに、BGMの流れていた有線放送がニュース番組へと切り替わった。


「ほう……貴行の社員は実に有能だ。流石は天下の中央銀行だ」


パチパチ、と乾いた拍手を送り、Fがゆっくりと立ち上がる。


「さぁ、行きましょう。……仕上げは、あなたにしてもらいますよ」


「わ、私に……!?」


命に代えられるものはない。

まだ、死にたくない――その本能が、彼を共犯者へと堕としていく。


重い応接室の扉を開け、フロアへと戻った二人の目に飛び込んできたのは、静寂に包まれた異様な光景だった。

客たちは全員、後ろ手に縛られ、目隠しをされて床に座らされている。

そしてその中心で、怯えた様子の行員たちが、銃口を構えたDに追い詰められるように立っていた。


「だ、代理……っ」


あるじの帰還を待っていたかのように、行員たちの絶望に満ちた視線が支店長代理へと突き刺さった。


「だ、大丈夫だみんな。……心配、するな」


支店長代理は、消え入りそうな声を必死に絞り出した。

怖いのは自分も同じだ。

いつ背後から撃ち抜かれるか分からない極限の恐怖。

行員たちは「何が起きているか分からない」恐怖に震えているが、自分はもっと具体的で抗いようのない死を突きつけられている。


逆らえば、即座に殺される。

膝の震えが止まらない。


不意に、支店長代理のポケットで携帯が震えた。

強張った指でそれを取り、耳に当てる。


「……平常心で、お願いしますよ」


受話器から聞こえてきたのは、すぐ数メートル先にいるはずのFの、凍てつくような声だった。

Fは、目隠しをしていない行員たちの死角になる位置に立ち、あえて電話越しに指示を出してきたのだ。


どこまでも周到で、どこまでも狡猾。

平常心――今の彼にとって、それがどれほど絶望的な要求か。

だが、従わなければ命はない。

理不尽な重圧に、支店長代理の心は少しずつ、砂の城のように崩れていく。


「さて、次はあなたの仕事です。行員たち全員に、目隠しをしなさい」


「は、はい……」


言いなりになるしかなかった。


「みんな、すまない……許してくれ……」


一人ひとりに泣き言のような謝罪を口にしながら、支店長代理は同僚たちの光を奪っていく。


「次に、両手を縛って――」


Fが次の指示を紡ごうとした、その時だった。


―――ドォン!!―――


乾いた銃声が、大理石のフロアに硬く反響した。


「!!!」


刹那の静寂の後、目隠しをされた客たちの間から悲鳴が上がる。

見れば、Dが硝煙の立ち昇る銃口を、床に転がった男に向けていた。

男は即死だった。

指先一つピクリとも動かない。


「きゃぁぁっ!!」


「撃った……本当に撃ったのか!?」


「殺した……殺された……!?」


状況が掴めないパニックが、怒号となってフロアを埋め尽くそうとする。


「静かにしてください!! あなた方も撃ち抜きますよ!!」


Dが裂ぱくの気合で怒鳴りつけると、フロアは一瞬で氷ついたような静寂に包まれた。

Dは絶命した男の手から、一台の携帯電話を剥ぎ取った。


「みんなで回収したはずなのに、彼はこれを隠し持っていた。素直に預けていれば、死なずに済んだのに……」


男は後ろ手に縛られながらも、死に物狂いで外部へ通報しようとしたのだろう。

それを、極限状態のDに見つかり、射殺された。

Fは、わずかに眉をひそめて小さな溜息を吐く。


「やれやれ……。素直に従わないと、こうして命を落とす。皆さん、どうも自分の置かれている状況が理解できていないようだ。あなた方は、ただの人質なのですよ。そして、一つだけ言っておきます」


Fは眼鏡のブリッジを押し上げると、獲物を見定めるような目でニヤリと笑った。


「ここまでのことを起こすのです。相応の覚悟はしてきました。ゆえに――人質の生死は問いません。それを前提に、警察と交渉することにします」


生死は問わない。

その言葉は、この銀行内にいるすべての命が、今やFの指先一つで消える「消耗品」に過ぎないという宣告だった。


「さて、次は力仕事といきましょうか。支店長代理、あなたは今からDと共に、シャッターの内側にバリケードを築くのです。棚、机、ありったけの什器を、入口という入口に積み上げなさい」


シャッター一枚など、警察の重機や特殊部隊にかかれば突破は時間の問題だ。 だが、Fの意図はそこにはない。

すべては、配布された『シナリオ』の通り。


この閉鎖空間を、誰の手も届かない「完璧な密室」へと作り変えるために――。

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