事件の始まり
某日、某所。
都内を流れる河川敷の、朝靄が残る一角。
物々しい規制線の向こう側で、一人の女性が「物」のように変わり果てた姿で見つかった。
特務指令課長・司から下された現地捜査命令。
北条と虎太郎の二人は、その不穏な静寂が支配する現場へと足を踏み入れた。
「……おはよー。特務課だよ。ちょっと現場、見せてもらえないかな?」
殺伐とした雰囲気の中、北条がいつもと変わらぬ気楽な声で規制線をまたぐ。
「北条さん! 久しぶりです!」
周囲の刑事たちは、他部署の介入を疎むどころか、むしろ待ちわびていたかのように北条を迎え入れた。
「やぁやぁ若人よ、元気に捜査してるかい? オジサンはもう、腰と膝が悲鳴を上げていてねぇ……」
軽口を叩きながらも、その視線は既にブルーシートに囲われた「中心部」を射抜いている。
「あ、虎。殺人事件の遺体は初めてか?」
「殺人は……あんまり。刺殺の現場を数件と、あとは自殺ばっかりっすね」
「そっか。……ポリ袋か、ハンドタオルは持ってるか?」
「……なんで?」
マスクを装着し、手袋の感触を確かめながら、北条の声から温度が消えた。
「『殺人事件』のご遺体は、時に酷い辱めを受けていることがある。……覚悟して入りなさい」
その横顔は、冗談など一切受け付けない「伝説の刑事」のそれだった。
「お、おう……」
虎太郎は気圧されるように頷き、己の精神を研ぎ澄ます。
北条はその様子を確認すると、短く一呼吸置き、静かにブルーシートの結界を潜った。
「失礼するよ」
シートの内部には、数人の刑事が沈痛な面持ちで立ち尽くしていた。
北条は、その中央で鋭い指示を飛ばしている一人の男に声をかける。
「北条さん……お疲れ様です。特務課の指示ですか」
「あぁ。僕は今や特務課のヒラ社員だからね。パシリだよ」
「何て恐れ多いことを。一課の伝説が……」
「そんなこと言ったら、君だってそうだろう? 『稲取重三』警部」
北条が肩を叩きながら笑いかけた男。
現・捜査一課長にして、現場を統率する熱血漢――「鬼軍曹」の異名を持つ稲取警部だ。
彼は、なるべくして刑事になった男と言われる。
デジタルとアナログを自在に使い分け、ホシを挙げるためなら不眠不休も厭わない、一課の生けるカリスマ。
「北条さん……やめてくださいよ。それは教え子いじめだ」
「はは、もう立場的には君の方が上官じゃないか。時代は変わるものだよ」
稲取はかつて、北条に捜査のイロハを叩き込まれた愛弟子だった。
北条への深い恩義があるからこそ、他部署が特務課を白眼視する中でも、彼は真っ先に全面協力を約束したのだ。
「……捜査の状況は?」
北条の問いに、稲取はブルーシートの中央――横たわる遺体へ視線を落とした。
「ええ……。見たばかりなので、今のところは何とも。……ただ、犯人の意図がまるで見えません」
稲取は、苦しげに小さな溜息を吐き出した。
その視線の先にあるのは、プロの刑事たちを沈黙させるほどの、異様な「光景」だった。
「では、失礼するよ。ほら、虎。こっちだ」
「お、おう……」
北条は遺体の前で静かに膝をつき、深く目を閉じて手を合わせた。
虎太郎もその背中に倣い、ぎこちなく合掌する。
やがて、北条が迷いのない手つきで、遺体を覆う白布をゆっくりと捲りあげた。
「……これは、綺麗なホトケさんだ」
「なんだ……これ」
思わず漏れた虎太郎の声には、困惑が混じっていた。
殺人現場。
そこにあるはずの「惨劇」の痕跡が、この遺体には一つもなかった。
被害者は一目でそれと分かるほど、整った顔立ちの若い女性だ。
ただ、その頭部だけが異様だった。
「髪が……ない?」
「うーん。着ている服から見ると、僧侶……というわけでもなさそうだがね」
今どきの若者が好む、流行りのスカートに真新しいブーツ。
出家した隠遁者でないことは明白だ。
しかし、彼女の髪は、剃刀で丁寧に手入れされたかのように、一本の産毛すら残さず剃り落とされていた。
「北条さん……どう見ます?」
稲取が、静かに師の横顔を伺う。
「犯人が被害者の毛髪を、根こそぎ『奪い去った』。……そう捉えるのが自然だろうね」
「私も……同意見です」
二人のベテランの視線が、青白い肌の上に落ちる。
「しかも……怨恨や、突発的な揉め事の末の犯行ではないね」
「ええ……」
現場に流れる、プロ同士にしか解らぬ暗黙の了解。
「すみません、稲さん! どうして怨恨じゃないって言い切れるんですか? 人が一人、殺されてるんですよ」
たまらず割って入ったのは、稲取の背後に控えていた若い刑事だった。
「ああ……北条さん、紹介します。こいつは香川裕二。この春、捜一に配属された新人です。……まぁ、まだまだ青いですが、叩き甲斐はありますよ」
「あー、はいはい、よろしくね。でも稲取君が連れて歩いているんだ。将来有望な証拠だよ。誇っていいぞ、君!」
「一課の伝説」から直々に掛けられた言葉に、香川は顔を林檎のように赤くして直立不動になる。
「あ……あざっす! 精一杯、頑張ります! ……で、あの、何で怨恨じゃないって?」
香川は興奮を抑えきれない様子で、再び遺体へと視線を戻した。
「だよなぁ。殺してるんだから、普通は何かしらのドロドロした恨みがあるんじゃねぇのか?」
虎太郎も隣でしゃがみ込み、同じように首を捻る。
「これこれ、そんなに若い女性をまじまじと見つめるんじゃない。失礼だよ」
北条は苦笑しながら二人を遺体から引き離すと、稲取に続きを促した。
「周辺に、血液反応は一切なし。被害者の爪からも、抵抗した際の血液や組織片、布などの異物は確認されませんでした」
稲取の淡々とした報告が、現場の不気味さを増幅させる。
「つまり彼女は、抵抗する間もなく、あるいは抵抗の意志すら奪われた状態で『処理』された……ということだ」
北条の瞳に、鋭い光が宿る。
それはもう、気さくなオジサンのものではなかった。
「血液反応もなし、目立った外傷もなし……。なぁおっさん、これ本当にここで殺されたのかよ?」
ベテラン二人の会話を反芻しながら、虎太郎が苛立たしげに現場の土を踏み締める。
「お、良いねぇ虎。その疑問が即座に浮かぶのは、捜査官として広い視野が育っている証拠だぞ」
「あー、はいはい。あざっす。……でもそれって、フツーじゃねぇの?」
稲取に真っ向から褒められ、虎太郎は少し照れくさそうに、だが不遜に鼻を擦った。
「うーん。『フツー』ならね、この現場を這いずり回って、血眼で証拠品を探そうとするものだよ。だが、こういう『静かな事件』ほど、足元ではなく背景を見なきゃいけないのさ。……ほら」
北条は後輩たちを導くように、遺体の足側へと回り込ませた。
「……何か、異変に気が付かないかい?」
「異変? ……え、なんだよ……あ!」
「靴、履いてない……! それに足の裏、泥ひとつついてない。綺麗すぎるぞ」
虎太郎の言葉に続くように、香川が鋭い声を上げた。
「うん、やっぱり優秀だね君たちは。その通り。屋外で襲われたなら靴は脱げているはずだし、逃げ惑ったなら足の裏に傷や泥がつく。……つまりこのホトケさんは、別の『清潔な場所』で殺され、ここに丁寧に置かれた(パッキングされた)ということさ」
北条の淡々とした解説に、虎太郎は思わず「ちっ」と舌を打った。
「……いつ気づいたんだよ、おっさん」
「え? 実はさ、ブルーシートに入った瞬間だよ。あっちから来ると、ちょうどこの角度からご対面だろ? 足元までシートがかかりきってなかったからね」
北条がいたずらっぽく笑ってみせると、虎太郎は面白くなさそうに顔を背けた。
「……ケッ、相変わらず嫌な目してんな」
「凄い……。ここに来たどのデカも、そんなこと口にしなかった。……さすがは、稲取さんの師匠だ」
香川が心酔した眼差しを北条に送る。
(くそ……。このオッサン、こと捜査に関しては恐ろしいほど頭が切れる。見てろよ、俺だってすぐ追いついてやる……!)
虎太郎は北条の背中に、静かな、しかし熱いライバル心を燃やしていた。
「稲取君、遺留品の類は?」
「それが、スマホから身分証まで一切。殺害現場に置かれたままか、あるいは……」
「徹底的に処分されたか、だよねぇ。遺棄事件の定石だ。……よし、じゃあとりあえずホトケさん、署にお連れしようか。こんな寒い場所に、いつまでも置いておくのは……可哀想だ」
北条の眼差しから先ほどまでの鋭さが消え、被害者の女性へと向ける深い憐憫が宿った。
「署に戻り次第、検視を急がせます。結果はすぐに司令室へ」
「うん、頼むよ。こっちもこっちで、別の角度から洗ってみる。……ほら、行くぞ虎」
「わかってるって。……おい、次は俺が先に見つけてやるからな!」
現場で何一つ「物」としての手がかりを得られなかったことに、虎太郎は釈然としないまま、北条を追い越して歩き出す。
その二人を、現役の鬼軍曹と、次代を担う新人が、無言で見送っていた。




