浅草―――同期3人
浅草。
かつて、辰川、西尾、中山の三人が、初めて大型爆弾の解体に成功した「約束の地」。
若かった彼らは、鳴り止まない鼓動を抑えながら、この街の片隅で未来を語り合い、仲間としての結束を誓った。
「中山の野郎……。よりによってこの場所を選ぶとは、どういうつもりだ」
思い出を踏みにじられたような痛みが辰川を刺す。
だが、それと同時に拭えない違和感があった。
「……西尾。お前、なぜ中山がここ(浅草)にいると確信できた。あいつの罠だとは思わなかったのか?」
「……思わねぇよ」
先に着いていた西尾が、浅草寺の朱塗りの柱を見つめたまま、静かに首を振った。
「あいつから、ただ一言『浅草』とだけメールが来た。罠も、犯行予告も、そんなもんじゃない。……あいつなりの、けじめの付け方なんだろうよ」
「けじめ……?」
「よく思い出してみろ、辰川。中山が、あんなに器用な男だったか? 緻密な計画を立てて、多方面に思慮を巡らせ、人を苦しめることに悦びを感じるような……そんな奴だったか?」
西尾の言葉が、辰川の脳裏に「本当の中山」を連れ戻す。
「……いや。あいつは不器用で、いつだって真っ直ぐで、損ばかりするような男だった」
「あぁ。だからこそ、あいつはここにいる。それだけなんだ」
大学の爆弾が、爆発しない「空」だった理由。
中山は、もう誰も傷つけるつもりはない。
いや、最初からそのつもりなどなかったのだ。
「辰川。三人で話をしようじゃないか。世界中で、俺たち三人にしか理解できない話を。それで全部終わりにしよう。……きっと、中山もそれを望んでいるはずだ」
「あぁ……。そうだな」
どちらが導くともなく、二人は歩き出した。
賑わう仲見世通りを抜け、裏通りの入り組んだ路地へ。
向かう先は、決まっていた。
かつて、泥のように酔いながら、明日への希望を酌み交わしたあの隠れ家的な飲み屋。
「……なあ、みんな。聞こえるか」
辰川が無線を起動した。
その声は、これまでで一番低く、そして重かった。
「……俺たちの話が終わるまで。応援の突入だけは、待ってくれねぇか」
特務課の司令室に、その静かな、しかし確かな意志が響き渡る。
『……辰川さん』
司が唇を噛む。
『――現場は中山の潜伏を確認。周囲の完全包囲を維持させます。……ただし、特務課の司令官として命じるわ。爆弾処理班・辰川の、全作業が終了するまで。誰も、あの店には一歩も足を踏み入れさせない』
「司……サンキューな」
『無茶しないでね。……全員で、戻ってくるのよ』
志乃の、祈るような声が最後に聞こえた。
辰川と西尾は、古びた赤提灯の前に辿り着いた。
縄のれんの向こう側、かつての特等席には、一人の男が静かにグラスを傾けていた。
「……待ってたぜ、二人とも」
十年の歳月を隔てて、黄金の三枚看板が、再び一箇所に集った。
「……分かりました。許可します」
司の返答は、迷いのない即答だった。
「……いいのか、司」
『私も、西尾さんや中山さんにはお世話になりました。最後くらい……三人で語り合う時間があってもいいでしょう。絶対に逃がさないことが大前提、ですが』
「逃げねぇよ。あいつに限って、そんな無駄な悪あがきはしねぇ」
『……話が終わったら連絡を。その瞬間を「現認」とし、応援を突入させます。いいですね?』
「……恩に着る」
辰川は短く通信を切った。
かつては自分たちが目をかけていた新米刑事だった司。
だが今は、自分の魂を預けられる、誇り高き特務課の司令だ。
「司ちゃんと話してたのか?」
「あぁ。あのお転婆が、今じゃ俺の上司だ。……俺たちの時間を確保してくれた。しっかり話そうぜ、中山と」
「……そうだな」
浅草の入り組んだ路地裏。
看板すら出ていない、今にも崩れそうな木造の家屋。
その前で足を止め、辰川は建て付けの悪い引戸をガラガラと開けた。
「やってるかい?」
「……奥に来な」
聞き覚えのある、掠れた声。
店主との秘密の合言葉。
爆弾処理班を退いて数年が経つが、この一言だけで「あの頃」に引き戻される。
ギシ、ギシと軋む床板を踏みしめ、二人は廊下の突き当たりへと向かう。
「相変わらずボロいな、ここは」
「だから良いんじゃねぇか。自分たちが何者でもなくなる、ただの隠れ家だ」
いつも三人で酒を酌み交わした、突き当たりの座敷。
襖の向こうから、一人の男の気配が静かに立ち上っていた。
「いるな」
「あぁ」
辰川は迷わず、襖を横に滑らせた。
「久しぶりだな、辰川、西尾」
暗がりの奥。
上座に座り、一人静かに盃を傾けていたのは、一連の事件の主犯――中山だった。
「おいおい。爆弾魔が上座かよ」
「まぁ、良いじゃねぇか。最後の晩餐だ。今日は無礼講で行こうぜ」
辰川と西尾は、憎まれ口を叩きながらも、微かに笑みを浮かべて向かい合わせに座った。
三人が揃うと同時に、店主がお通しを手に部屋へ入ってくる。
「懐かしい集まりだな。何年ぶりだ、あんたたち」
変わらない店主の言葉に、三人の胸に温かいものが込み上げる。
警察という組織を離れ、人生の荒波に揉まれても、ここにだけは自分たちの「居場所」が残っていた。
「またしばらく集まれなくなるからな。今日はじっくり話そうや、マスター。『いつもの』、頼むぜ」
三人が揃うと必ず頼んでいた、定番のメニュー。
もう忘れているかと思われたが、店主は中身を聞き返すことすらなく、不敵に笑って頷いた。
「はいよ。ちょっと待ってな」
厨房へ消える店主の足音。
再び訪れた静寂の中、辰川は真っ直ぐに中山の瞳を見つめた。
「さて、中山。……お前の『本当の目的』を聞かせてもらおうか」
「はい、お待たせ」
ほどなくして、店主が両手に抱えきれないほどの料理を運んできた。
「おい、こんなに頼んでないぞ、マスター」
三人がいつも頼むのは、煮込みと焼き鳥、そして日替わりの一皿。
それを少しずつ突きながら、じっくりと酒を飲むのが彼らの流儀だった。
だが、目の前のテーブルに並べられたのは、この店で一番豪華な品々だった。
「最後の晩餐なんだろ? このくらい並んでなきゃ、店として格好がつかねぇよ」
店主は全ての皿を並べ終えると、手拭いで手を拭い、部屋の入り口に立った。
「もう、この部屋には顔を出さない。ゆっくり味わって食うんだぜ」
それだけ言い残し、店主は音もなく襖を閉めた。
訳ありの客を数多く見てきた主には、今の彼らが纏う「死の匂い」が分かっていたのだ。
「サンキュー、マスター……」
並べられた高級な酒と、湯気を立てる極上の料理。
「おいおい。こんな豪勢な飲み、警察学校時代から通じて初めてじゃねぇか?」
「違いない……。最後の晩餐には、いささか贅沢が過ぎるがな」
辰川と西尾が顔を見合わせ、自嘲気味に笑う。
場を支配する空気は、刑事と犯人のそれではない。
死地を潜り抜けてきた戦友たちの静かな語らいだ。
「……さて。なぁ、中山。そろそろ腹を割ろうじゃないか」
辰川は猪口を置き、真っ直ぐに親友の瞳を射抜いた。
「紗良を本当に殺そうとしたわけじゃない。あれは……俺をこの場所に、お前の前へ呼び出すためのメッセージだった。違うか?」
辰川の脳内では、未だに多くの欠片が噛み合わずにいた。
なぜ、十年前の再現から始めたのか。
なぜ、その模倣をたった二件で終わらせたのか。
そして、なぜ最愛の標的であるはずの紗良に、手をかけなかったのか。
「……なぜ途中で、気が変わったんだ?」
辰川が導き出した答えは、一つしかない。
計画の途中で、中山の心に「何か」が起きた。
だからこそ、彼は自ら幕を引くために、この場所を選んだのだ。
「……ふっ。やっぱり、お前たちには隠し事はできないな」
中山は、注がれた酒を一気に喉に流し込む。
大きく吐き出されたため息と共に、十年間、彼の中に澱のように溜まっていた言葉が溢れ出した。
「本当はな……十年前、あの爆破で妻と子が死んだ時。お前が事件を解決してくれた瞬間に、全部割り切っていたんだ。辰川が犯人を挙げてくれた。これで、あいつらも報われる……ってな」
中山の独白を聴きながら、辰川と西尾も静かに箸を動かす。
「本当に……あの時は、恨みなんて欠片もなかった。お前は俺の誇りだったんだ、辰川」
その言葉に、辰川の胸を鋭い痛みが突き抜けた。
誇りと呼んでくれた男が、なぜ今、テロリストとして自分の前に座っているのか。
その「溝」を埋める、恐ろしい真実が語られようとしていた。
「じゃあ、どうして……っ!」
西尾がたまらず中山に詰め寄る。
「まあ待て、西尾。こいつは今、それを話そうとしてるんだ」
辰川が静かに制し、中山の空いたグラスになみなみと酒を注いだ。
その表面には、部屋の灯りが波紋となって揺れている。
「……ある日、自宅のパソコンに一通のメールが届いた。最初はスパムだと思って無視していたんだが、その文面を読むうちに……俺の心の奥底に、どす黒い感情が少しずつ、だが確実に生まれていった」
「メール、だと……?」
辰川の胸に、冷たい予感が走る。
「メールの末尾には、一つのURLが添付されていた。俺の傷を抉るような悪い冗談だと思って、吐き捨てるつもりでクリックしたんだ。……その先にあったのは、闇サイトだった。殺人、破壊、あらゆる悪意を専門に扱う……」
「闇サイト……まさか」
辰川の脳裏に、司令室のモニターに映し出された『あるマーク』が閃光のように過った。
「中山。そのサイトに……『蠍の紋章』はなかったか?」
「……! どうしてそれを知っている。その後、何度入り直そうとしても辿り着けなかった、亡霊のようなサイトなのに……」
「やっぱりか……。なるほどな」
繋がった。
連続女性殺人、連続放火。
特務課がこれまで対峙してきた事件の陰に、常に小さく、しかし不気味に刻印されていた『蠍』。
彼らは犯罪の道具を調達し、絶望の淵にいる者を甘い言葉で洗脳し、自滅的な犯行へと駆り立てる。
中山もまた、その毒牙に掛かったのだ。
「畜生……。何なんだ、その『蠍』の野郎共は……っ!」
辰川の拳が、みしりと音を立てて震える。
「……だがな、辰川。唆されたとはいえ、実際に爆弾を組み、設置したのは俺だ。数人の犠牲を出し、街を恐怖に陥れた。その事実は、何ら変わらない」
中山は、全てを諦めたように静かに呟いた。
きっかけが闇サイトであろうと、最後に起爆スイッチを押したのは自分自身。その十字架を他人のせいにするほど、中山は卑怯な男ではなかった。
「……それで。メールには、何て書いてあったんだ」
西尾が、絞り出すような声で訊ねる。
「『なぜ、お前だけが全てを失った?』……そう書いてあった。『お前が英雄と呼ぶ男は、手柄と引き換えにお前の家族を見捨てたのではないか。手順を変えていれば、応援を待っていれば、助かった命があったのではないか』とな。……その言葉が、俺の弱りきった心に、毒のように染み込んでしまったんだ」
「馬鹿野郎……ッ!」
西尾が中山の襟元を掴み上げた。
「あの時は応援なんて出し尽くして、動けるのは俺たち三人しかいなかった! その中でたまたま、辰川が一番デカい爆弾を引き当てて、たまたま、俺たちの手に余った別の爆弾のそばにお前の家族がいた……! あれは犯人以外、誰も責められねぇって、お前だって分かってたはずだろうが!!」
西尾の絶叫が、狭い座敷を震わせる。
中山は抵抗することもなく、ただ悲しげに瞳を伏せた。
その横顔には、自分の過ちを認めた男の、あまりにも遅すぎた後悔が刻まれていた。
「分かっていたさ……。分かっていたんだ」
西尾に襟を掴み上げられ、身体を揺さぶられても、中山の瞳に動揺はなかった。
「辰川には今も感謝している。お前があの大型を解除していなければ、犠牲者は桁違いだったはずだ。頭では理解している。……だが、それでもだ……」
中山の声が、微かに震える。
「もし、その残酷な偶然が、別の方向を向いていたら。家族以外の誰かに、死の指先が向けられていたら。俺の人生は、こうはならなかったんじゃないかって……そんな汚い思考が、頭を離れなかったんだ」
その瞳から、一筋の涙が頬を伝う。
「……中山、テメェ!!!」
逆上した西尾が拳を固めた、その時。
「……やめろ、西尾」
辰川の、低く重い制止の声が響いた。
「辰川! だがよ、こいつが言ってるのは、お前に対する完全な言いがかりじゃねぇか! お前はあの時、死に物狂いでやった! 犠牲者を最小限に抑え込んだんだ!!」
「……あぁ、だが『ゼロ』じゃなかった。それが全てだ」
辰川は静かに、かつての自分の「限界」を見つめるように言葉を紡いだ。
「いかに犯人を捕らえようが、爆弾を解体しようが、あの日、実際に人が死んだ。最小限だろうと何だろうと、失われた命は二度と戻らない……。それが、俺たちが背負うべき事実なんだ」
もし、今回の件で紗良を失っていたら。
自分は正気でいられただろうか。
「今回の事件で、もし紗良が死んでいたら……きっと俺は中山を、そして自分自身を、一生許せなかっただろう。……なぁ、中山。お前もあの事件以来、自分を許せないまま生きてきたんだな?」
東京の英雄。
事件解決の立役者。
そんな虚飾の肩書きとは裏腹に、辰川もまた、あの日救えなかった命の重みに押し潰されそうな夜を幾度となく過ごしてきた。
「お前も、西尾も、俺も……いや、特務課の若い連中だって、みんな刑務を抱える人間は同じ地獄にいるんだ。もう少し早く発見できていれば、もう少し早く手錠をかけていれば……。みんなそんな『たられば』の泥沼で後悔してる。……でもな」
辰川は歩み寄ると、そっと西尾の手を解かせた。
「でもな、刑事ってのは、その泥沼を這いずり回って、それでも前を向かなきゃならねぇんだ。遺された人たちに生きる希望を、前を向くための強さを与えるために! 生きていていいんだと、証明するために!」
辰川の烈火のような言葉が、中山の胸の奥深くに突き刺さる。
「中山。お前の絶望は痛いほど分かる。だがな、お前は結局、十年前の犯人と『同じ憎しみ』を、別の無実の連中に向けちまったんだ。……今回の事件で家族を奪われた遺族の気持ち。それを世界で一番知っているのは、お前のはずだろう?」
「……あ、あぁ……」
放された中山が、力なく畳に膝をついた。
「……その通りだ。俺は、……取り返しのつかないことをしてしまった……っ!」
中山は顔を覆い、子供のように声を上げて泣いた。
それは十年間、誰にも見せることができなかった、真実の号哭だった。
「これで……終わりだ」
辰川は震える手で腰の後ろから手錠を取り出し、中山の両手首にかけた。
金属の冷たい音が、静まり返った座敷に響く。
「……一連の連続爆破事件の容疑者として、お前を逮捕する。何か、言いたいことはあるか?」
「いや。何もない。あとはすべて供述するよ」
中山の態度は、潔いものだった。
辰川が手錠を見せた瞬間、彼は自ら両手を差し出したのだ。
「……そうか。西尾、すまなかった。いろいろと手伝わせちまって」
「気にするな。同期のよしみだ。……三人で酒を飲めただけで、十分さ」
三人の間に、重く、しかしどこか晴れやかな空気が流れる。
辰川は無線のスイッチを入れた。
「虎……もう大丈夫だ。頼む」
『……本当に、いいのか? 辰川さん』
「あぁ。俺たちはもう、語るべきことは語り尽くしたよ」
最後まで相棒に「時間」をプレゼントしようとした虎太郎の気遣いに、辰川は穏やかな声で応えた。
『了解した。店は完全に包囲している。だが、抵抗はないと伝えてある。パトカーまでの道は……俺が空けさせておくよ』
「……すまない、恩に着る」
辰川と西尾は、中山の両脇に立ち、彼を促した。
中山も抗うことなく、静かに一歩を踏み出す。
部屋の外、古びた襖を開けると、そこには仁王立ちした店主が待っていた。
「……また来いよ。俺がくたばる前に、な」
「……すまねぇなマスター。迷惑かけちまった」
「今度は、もっと気軽に暖簾をくぐれるようになれ」
辰川と西尾の謝罪に、店主はぶっきらぼうに返す。
俯いたまま黙り込む中山に対し、店主は一段と声を張り上げた。
「中山! また来いよ!!」
「…………はい」
店主の剥き出しの気遣いに、中山の瞳から再び涙が溢れた。
死者まで出した今回の事件。
極刑か、あるいは数十年の服役か。
七十を越えた店主とは、もう二度と会えないかもしれない。
それでも主は「また来い」と、未来を指し示してくれたのだ。
「悪ガキどもが、いつまでも辛気臭い面してんじゃねぇよ。事件は解決したんだろ?」
その言葉に、三人は同時にふっと息を抜いた。
この気概こそが、彼らがこの店を愛した理由だった。
「そうだな。湿っぽいのは、俺たちの柄じゃねぇ」
辰川が中山の左肩に手を回した。
それに倣って、西尾も右肩に手を添える。
「最後はこの店で終わろうぜ。再起を願ってな」
「次の飲み会まで、しぶとく生きろよ。同志」
たとえ罪を犯し、裁かれる運命にあっても、彼らは一生、魂の同志なのだ。
「……外に出たらマスコミが湧いてるはずだ。中山、顔を隠しておけ」
辰川が親友を気遣った、その時。
『大丈夫だ。こっちにマスコミの影はねぇよ』
虎太郎の軽やかな声が無線を叩いた。
「なんだって?」
『司令が情報操作してくれてる。浅草には一匹も近づかせねぇってさ。……なんせ、司令自ら今、記者会見でマスコミを「料理」してる最中だからな』
「司ちゃんが……?」
辰川は店先の古いテレビに目をやった。
画面の中では、無数のフラッシュを浴びながら、凛とした表情でマイクに向き合う司の姿が映し出されていた。
『――犯人像については現在捜査中ですが、すでに目星はついています。逮捕は時間の問題かと。事実上、今回の事件は今夜、解決を迎えます』
「……全くだ。あのお転婆が、一番の食わせ者だよ」
辰川は苦笑し、中山の肩を強く抱いた。
司が稼いでくれた、マスコミのいない静かな夜。
三人は堂々と顔を上げ、浅草の夜風の中を、虎太郎の待つパトカーへと歩き出した。
空には、中山が仕掛けた「悪意の花火」など必要ないほど、美しい月が輝いていた。
「司ちゃん……すまないな」
辰川は、画面越しに見える司の心遣いに感謝した。
自らカメラの前に立ったのは、情報の信憑性を高め、マスコミの意識を現場から逸らすため。
彼女の言葉はすべて真実だ。
犯人の目星はついており、今この瞬間、その手首に銀輪がかけられたのだから。
「さすがは司令だぜ。……完璧なガードだ」
虎太郎もその決断力に舌を巻く。
そんな中、中山の肩が小刻みに震えていることに西尾が気づいた。
「中山……どうした?」
「うっ……うぅっ……」
男泣きとは違う、喉の奥から絞り出すような絶望。
辰川は直感した。
この「平和な結末」の裏に、まだ隠された毒があることを。
「……もう一つ、仕掛けてあるんだな?」
「な……なんだと!?」
西尾が驚愕の声を上げる。
「まさか……。こんな風に話し合えるなんて、思っていなかったから……。最初から、本命は『それ』だったんだ……!」
崩れ落ちる中山。
その唇から、最悪の地名が漏れた。
「浅草・雷門……。この、すぐ近くだ」
「雷門だと!? 冗談じゃねぇ、今ならまだ間に合う!!」
辰川は西尾に中山を託し、現場へ向かおうと地を蹴った。
だが、その背中に虎太郎の声が突き刺さる。
「――志乃さん! 雷門だ、全班突入開始!!」
『了解! 浅草近辺で待機させていた爆弾処理班を現行投入します!』
「……え? 虎? 志乃ちゃん?」
足を止めた辰川が、信じられないものを見るように二人を振り返った。
「どうして……分かっていたんだ?」
「あぁ。……『病欠のオッサン』が、余計な気を回してきてさ」
虎太郎は苦笑いしながら、手元の端末を見せた。
中山の所在を突き止めたその直後、北条から入った着信。
寝不足の掠れた声で、あの男はこう予言したのだ。
『……僕の直感だけどね。本格的な爆弾は、最初と「最後」だけだよ。この事件は、無差別殺人が目的じゃない。辰川君の精神を折るのが目的だ。十年前の悪夢を再燃させ、そして彼の「原点」を吹き飛ばすことで、刑事としての誇りを粉々に砕く。心が死んだ後なら、ナイフ一本で辰川君を殺せるからね……だって恨んでるんだから』
「……まぁ、今となっては『恨んでいた』、が正解だろうけどな」
虎太郎も北条も、三人の「思い出の場所」までは特定できなかった。
だから虎太郎は賭けたのだ。
辰川たちが必ず辿り着くであろう浅草の地に、志乃の協力で爆弾処理班をあらかじめ潜伏させていた。
「……北条の旦那。本当に食えねぇ人だぜ」
辰川は天を仰いだ。
自分が絶望の淵に立たされる直前で、かつての相棒と今の相棒が、その足場を固めてくれていたのだ。
「志乃さん、状況は!?」
『雷門の提灯の真下に偽装された爆薬を発見! 現在、処理班が最終解除作業に入っています。……タイマー停止まで、あと六十秒!』
「間に合えよ……!!」
辰川と虎太郎、そして手錠をかけられた中山。
三人の視線の先、浅草の夜空を貫くように、成功を知らせる無線の音が鳴り響いた。
「まったく……とんでもない奴らが仲間にいたもんだぜ」
北条の冷徹なまでの推理。
それを信じ抜き、迷わず賭けに出た虎太郎の行動力。
そして、すべてを完璧に調整した志乃のバックアップ。
誰が欠けても、この「最悪」は防げなかった。
「……まあ、司令がマスコミを完璧に抑え込んでくれたからこそ、俺たちはここまで自由に暴れられたんだけどな」
すべてを見通し、仲間を信じて矢面に立った司。
自分たちが走り回る背後で、特務課の絆が巨大な盾となって機能していたのだ。
「辰川……。今のお前の職場は、ずいぶんとやり甲斐のある場所みたいだな」
中山が、憑き物が落ちたような顔で呟いた。
「あぁ。我ながら、とんでもねぇ場所に配属されちまったと思ってるよ」
念のため中山のポケットを探ると、一本の折り畳みナイフが出てきた。
「バカ。俺を殺すのが目的なら、あちこちに爆弾なんて仕掛けずに、このナイフ一本でかかってこいよ。そのほうが、俺を始末できる確率は高かったぜ」
「……違いない。お前の運動神経、昔からそんなに良くなかったもんな」
「……全くだ」
笑い合えるほどに、空気は澄んでいた。
店の入り口で中山を西尾に預けると、辰川は一人で暖簾をくぐった。
夜風の吹く路地裏で、虎太郎が壁に背を預けて待っていた。
「お疲れっす」
「あぁ……ありがとな、虎。おかげで気持ちの整理がついたよ。あとは、雷門の『最後の爆弾』を処理して終わりだ」
「あぁ、そうだな」
「じゃあ……行ってくるわ」
辰川が虎太郎の横を通り抜けようとした、その時だ。
虎太郎がその肩を、がっしりと掴んで引き止めた。
「辰川さん。あんたが行く必要はねぇよ」
「……え?」
戸惑う辰川の前で、虎太郎はスマホをスピーカーフォンに切り替え、誇らしげに差し出した。
「辰川さん、そっちに行くってよ!」
虎太郎がマイクに向かって叫ぶと、弾けるような声が返ってきた。
『必要ないですよ、辰川さん!』
『あの事件から十年、処理班だって指をくわえて待ってたわけじゃありません。その成長、特等席で見せてやりますよ!』
通話の向こう側で、複数の男たちの気合の入った声が響く。
現在の爆弾処理班の面々だ。
『十年前、俺は何もできなかった。でも辰川さん、あんたに憧れて、あんたになりたくて、死ぬ気で場数を踏んできたんだ。今の俺たちは……「伝説」と呼ばれたあんたたちを凌ぐ自信があります!』
「まさか……お前、本田か?」
『ご無沙汰してます、辰川さん!』
声の主は、かつて辰川が厳しく、そして情熱を持って育てた元部下だった。
「……あのヒヨッコが。でかい口を叩きやがる」
辰川の目尻が、熱いもので潤む。
「本田班長と言えば、今や処理班の絶対的エースっす。あいつらが現場にいるなら、もう安心だぜ」
虎太郎は通話を切ると、不敵にニヤリと笑った。
「時代は変わったんだ。あんたが命がけで守ってきた「志」は、ちゃんと次の世代に繋がってる。分かるだろ? 辰川さん」
夕闇の浅草に、パトカーの赤色灯が美しく反射する。
十年前、一人で絶望を背負い込んだ男は、今、最強の仲間と、最強の後輩たちに囲まれていた。
「あぁ……。分かったよ、虎。……任せるとするか、今のエースたちに」
辰川は深く息を吐き出し、夜空を見上げた。
そこには、もう爆煙の影などどこにもない。
ただ静かに、新しい時代の到来を祝うような月が、三人の男たちを照らしていた。
「……確かにな。今の若い世代に背中を預ける時代なのかもしれないな。本田、そっちの爆弾は任せたぜ。俺は……これから中山の取り調べだ」
『了解っす!! 「現」爆弾処理班の実力、その目に焼き付けておいてください!』
辰川と本田の短い、だが魂の通った会話が終わると、虎太郎は静かに通話を切った。
「辰川さん、そろそろいいか?」
浅草の夜。
路地裏にまで、少しずつ野次馬の気配が忍び寄り始めていた。
このまま時間が経てば、特務課が必死に作り出した「静寂」は喧騒に飲み込まれてしまうだろう。
「あぁ……十分すぎるほどの時間を貰った。ありがとうよ、虎」
辰川が小さく頷くと、中山と共にパトカーのリアシートへ乗り込んだ。
「俺はここでお暇させてもらうよ。あとはしっかりな、辰川。中山……死ぬ気で反省して、きっちり戻ってこいよ!」
西尾はここで別れを告げた。
彼はあくまで『協力者』。
刑事と容疑者を乗せた車に同乗できないルールを、彼は誰よりも熟知していた。
「すまねぇ。……恩に着る、西尾」
「今度、高い肉でも奢れよな」
西尾はパトカーに背を向けると、一度も振り返らず、手を振りながら浅草の街に消えていった。
その背中は、どこまでも軽やかで、どこか寂しげだった。
「虎、世話になったな」
「俺は結局、最後しか役に立ってねぇよ。今回のヤマは辰川さん、あんたと、あんたの仲間……後輩たちが解決したんだ」
「まったく……。よくできた若造だぜ、お前は」
「これから伝説の刑事になる男だからな。これくらいは標準装備だ」
「よく言うぜ。……じゃ、行ってくる」
「おう。あとは任せとけ」
赤色灯が浅草の古い街並みを撫でるように走り出し、パトカーは静かに署へと向かった。
『虎太郎くん、お疲れ様』
無線に飛び込んできたのは、大役を終えたばかりの司の声だった。
「司令こそ、お疲れっす」
『無事に終わったみたいね。……皆さんの、顔は見れた?』
「おかげさんで。いい顔してましたよ、みんな」
『そう。……各地の爆弾処理の状況整理は私たちで引き継ぐわ。虎太郎くんはゆっくり戻ってきなさい』
「助かるっす。俺はこの周辺の野次馬を散らしてから帰りますよ」
いつの間にか、店の周囲にはスマホを構えた人だかりができ始めていた。
「さーて……。事後処理、事後処理、と。だりぃなぁ……っ」
一度大きく背伸びをしてから、虎太郎は雑踏へと歩き出した。
その足取りは、事件前よりもどこか力強く、確かなものに変わっていた。
――こうして、一連の爆弾事件は幕を下ろした。
悲しい偶然の果てに生まれた、誤解と憎悪。
その傷跡が癒えるには、まだ長い時間が必要だろう。
しかし、暗雲の先に差し込んだ光は、確かにあった。
残された新たな疑問。
『蠍のマーク』を掲げる闇サイト。
中山という真っ直ぐな男を歪めたその「正体」が何なのか、まだ誰も知らない。
特務課の戦いは、ここからが本番である。




