本当の愛の在処
「そんなことで、あんなにたくさんの人を……っ」
虎太郎が、震える拳を強く握りしめた。
「そんなこと……? 貴方に何が分かるっていうの! 愛されたこともない、人並みの家族さえ作れない女がどれだけ悲しくて惨めなのか……貴方に、私の何が理解できるっていうのよ!」
虎太郎の言葉に、里美が牙を剥くように逆上した。
聖母のようだった面影は消え、そこには孤独に焼け爛れた一人の女がいた。 それでも、虎太郎は退かなかった。
「いたじゃねぇか……! あんたのことを必死に心配して、何度も、何度も声をかけ続けた男がよ……。自分が周りから何て言われようが、あんたを救うために動いてた男が、いたじゃねぇか……!」
虎太郎は奥歯を噛み締め、天を仰いだ。
脳裏には、深町亮の姿が浮かんでいた。
必死に里美を想い、行動を起こそうとして、志半ばで命を奪われた。
その一途な、あまりにも一途な幼馴染の最期を。
「あんたは、そんな深町を……!!」
「亮……くんが、なんて……?」
一瞬、里美の瞳に迷いが走った。その微かな心の揺らぎを、北条は見逃さなかった。
「やり方は、不器用で間違っていたかもしれない。でも深町くん……彼はいつだって、君のことだけを考えていたよ。君が間違った恋愛に足を踏み入れた時も、彼は誰よりも先に気づいて、相談に乗ろうとしていたんじゃないかな?」
「亮、くん……?」
里美は、凍りついた記憶の淵を必死に掘り起こす。
「寂しい時、いつも声をかけてくれたのは誰だい? 戸村に冷たくあしらわれ、酷い言葉を投げかけられた時……黙って話を聞いてくれたのは、誰だった? 自分のことなんてそっちのけで、君の痛みだけを見つめていた。……それはどうしてだと思う? ただの『幼馴染』だからかな?」
呆然と立ち尽くす里美に、北条は諭すように問いかける。
「君だって、戸村に対して同じ想いを抱いていたはずだ。何かをしてあげたい、ただ側にいてあげたい……。そんな純粋な気持ちを、君も知っているはずだ」
「それって、まさか……」
里美の表情が、みるみるうちに青ざめていく。
北条はゆっくりと、彼女の魂に届くように言葉を置いた。
「そう。君が渇望していた『愛』はね。君が小さな頃から、ずっとすぐ側にあったんだよ。手を伸ばさなくても届くような、そんな距離にね」
里美の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
「亮君……。私、私は、なんてことを……っ!」
膝から崩れ落ち、獣のような慟哭を上げる里美。
虎太郎は、このタイミングだと確信し、腰から手錠を取り出して彼女に近づいた。
「……もう少しだけ、待ってくれ」
北条はそんな虎太郎を、静かな仕草で制した。
差し出された手錠を虎太郎から受け取ると、北条は沈黙を選んだ。
虎太郎もまた、北条の横顔を見て、そのまま見守ることに決めた。
「いいかい? 人間はいつだって自分の思い通りに生きられるわけじゃない。辛いことも、悲しいことも、それらすべてを飲み込んで、人は少しずつ大きくなっていくんだ」
泣きじゃくる里美の隣に、北条はそっと寄り添うように腰を下ろした。
「私だけが辛いんじゃない。みんな、そういう思いを抱えて生きている。でもね、この世界に生まれてきた以上、君は独りじゃない。世界にたった一人くらいは、必ず君のことを見ていてくれる人がいる。……それが、君の場合は深町くんだった。気づくのが、あまりに遅すぎたんだよ」
里美の慟哭が、静まり返ったリビングに響き渡る。
北条の言葉は、冷徹な現実を突きつけながらも、凍りついた彼女の魂を静かに溶かしていく。
「戸村さんを殺したことも、何の罪もない家族を奪ったことも、そして深町くんを殺したことも……僕は許すつもりはないし、同情するつもりもない。君の身勝手な絶望のために、可能性ある未来がいくつも奪われたんだ。僕は君を庇わない。しっかりと、罪は償ってもらう。だからね……」
北条が、泥に汚れた里美の手をそっと取る。
「……奪った人たちの死を、一生背負って生きなさい。深町くんが言いたかったこと、気づいて欲しかったこと、それを刑務所の中で、償いながら考え続けるんだ。亡くなった人たちは、二度と生き返らない。その命の重みを噛み締め、背負うんだ。……優しいことは言わないよ。それが、『犯罪』というものなんだから」
犯罪者のすべてが反省するわけではない。
自分を正当化し、現実から目を逸らし続ける者もいる。
だからこそ北条は、自分が関わった者には、その罪の深淵を直視してほしいと願っていた。
二度と、同じ悲劇を繰り返さないために。
「ごめんなさい、ごめんなさい……っ!」
地に頭を擦り付け、謝罪を繰り返す里美。
北条はその細い肩をそっと抱き起こした。
「二十時四十分。戸村殺害・死体遺棄の現行犯、および連続放火の容疑で逮捕する。……何か、言いたいことはあるかい?」
「……ごめんなさい。私が、やりました……」
抵抗する気力もなく、力なく罪を認めた里美。
「……うん。今はそれで充分だ。残りの話は署でじっくり聞くよ。ありのままを話してくれ。……罪を償うつもりなら、分かるね?」
「……はい」
北条は、彼女の手首に優しく手錠をかけた。
金属が噛み合う冷たい音。
彼は自身のスーツのポケットから清潔なハンカチを取り出すと、それを手錠の上からそっと被せた。彼女の最後のか細い自尊心を守るかのように。
「……さあ、署まで連行してくれ。もう罪は認めている。優しく、ね」
「はい!!」
虎太郎の返事が、夜の空気に凛と響いた。
北条の手によって、里美の身柄は待機していた捜査一課の刑事たちへと引き渡された。
彼女はその後一度も振り返ることなく、促されるまま静かにパトカーの奥へと消えていった。
赤光が遠ざかるのを、北条と虎太郎は並んで見送った。
「なぁ、おっさん……」
パトカーのテールランプを見つめたまま、虎太郎が低く問いかけた。
「深町がさ、もっと勇気を出してあいつに気持ちを伝えてたら……こんなことには、ならなかったのかな」
もし、里美がもっと早くに、真実の『愛』に触れることができていたなら。 やりきれない思いを吐き出した虎太郎に、北条は静かに首を振った。
「深町くんは、里美ちゃんを愛するがゆえに見守ることを選んだんだと思うよ。幼馴染みという、近すぎるがゆえに複雑な距離感。それを壊すのが怖かったんだろう。……誰よりも近くに互いを感じ、その不確かな熱を心地よく感じることだってあるのさ」
「そんなもんかよ……」
「うん。でも、二人とも遅すぎた。深町くんがもっと早くに想いをぶつけていたら彼は死なずに済んだかもしれないし、里美ちゃんがもっと早くに彼の愛に気づいていたら、人は殺されなかったかもしれない。……まぁ、ただの『たられば』だけどね」
北条が刑事になってから、嫌というほど耳にし、自らも口にしてきた言葉。
(もし、あのとき……。もし、もっと早く駆けつけていたら……)
そう自問するたびに、胸が締め付けられる。
その『たられば』は、いつだって誰かの「死」から生まれる呪縛のようなものだからだ。
「でもね、虎……」
「……あ?」
「刑事はその『たられば』を、血肉にして大きくなっていくんだ。もう二度とこんな思いはしたくない、悲劇を繰り返したくない……。その痛みが捜査の力になり、犯人を逃がさないという執念になる。虎……君もここから大きくなるんだ。立派なデカになるためにね」
北条は、パトカーが消えていった闇の向こうを見つめたまま、静かに告げた。
「……あぁ。分かってるよ」
虎太郎は余計な言葉を飲み込み、素直に頷いた。
今回の事件、自分にはほとんど見せ場がなかった。
北条の底知れない洞察力と、特務課メンバーたちの圧倒的な情報処理能力――その「プロフェッショナル」の壁を、嫌というほど見せつけられただけだった。
(――絶対、いつか追い付いてやる)
虎太郎の胸の奥で、燻っていた野心に新たな火が灯った瞬間だった。
夜風が吹き抜け、街の喧騒が遠くに聞こえる。 特務課の「長い一日」は、こうして静かに幕を閉じた。




