悲しい恋の話
姉崎里美。
彼女は、ごくありふれた家庭に生まれ、ごく普通の人生を歩んできた。
中学、高校も熾烈な競争とは無縁の環境。
友人に恵まれ、その人生は順風満帆に見えた。
最初の転機は、高校三年の冬だった。
歳の離れた妹が、病によってこの世を去ったのだ。
年齢差ゆえに、いつもべったりと一緒にいたわけではなかった。
多感な時期だった里美にとって、まだ幼かった妹は可愛らしいだけの存在で、じっくりと遊んであげた記憶も少ない。
(もっと、あの子に触れてあげればよかった。あの子のような子供たちの力になりたい……)
その強烈な後悔が、里美の進路を決定づけた。
それまで志望していた私立女子大の一般学部を捨て、保育士養成課程のある難関大学への進学を宣言したのだ。
突然の変更に、両親も教師も困惑し慎重な判断を求めたが、里美の瞳に迷いはなかった。
死に物狂いの勉強の末、彼女は都内でも指折りの国立大学に合格する。
「妹にできなかったことを、他の子供たちにたくさんしてあげたい」
その一心で、友人がキャンパスライフを謳歌する間も、里美は図書室に籠り、勉学と実習に明け暮れた。
結果、彼女は首席で大学を卒業。
その輝かしい実績ゆえ、就職先はどこも彼女を求めて争奪戦となった。
だが、里美が選んだのは、高待遇の園ではなく、子供たちとの対話に最も重きを置いた、現在の幼稚園だった。
「これで、ようやくあの子の続きができる……」
里美にとって、保育の仕事は仕事ではなく、妹への贖罪そのものだったのだ。
彼女は懸命に働いた。
だが、天は二度目の試練を彼女に与えた。
両親が、旅行先での交通事故により、帰らぬ人となったのだ。
唯一の身寄りを失い、広すぎる実家に一人残された里美。
その絶望の淵で出会ったのが、戸村だった。
「先生。どうしたんですか? 何か辛いことでもあったんじゃ……」
園児を迎えに来た戸村は、里美の僅かな異変を、ただ一人で見抜いた。
他の誰も気づかなかったのに。
必死で平静を装い、完璧な「先生」を演じてきたのに。
「一人で抱え込むのは、毒ですよ。思い詰める前に、僕に話してください」
それは、下心など微塵もない、戸村の純粋な思いやりだったのだろう。
だが、暗闇の中で差し伸べられたその温かな手に、里美が理性を失うのは時間の問題だった。
周囲に悟られないよう戸村に連絡先を渡し、園児の父親との「禁断の関係」が静かに幕を開けた。
最初は他愛もないメールのやり取り。
それが次第に、戸村が妻子と離れている時間を狙った深夜の電話へと変わっていく。
そして、関係はさらにエスカレートしていった。
戸村が出張と偽り、里美の家に泊まる――明白な「不倫」へと踏み込んだのだ。
里美の底知れない献身と、消えることのない寂しさを孕んだ佇まい。
(放っておけない)
そう思ってしまった戸村の慈悲は、いつしか、引き返せない愛情へと形を変えていった。
もはや里美と戸村は、抜き差しならない相思相愛の仲となっていた。
戸村は「仕事」という嘘を妻子に塗り重ね、里美との密会を繰り返す。
背徳の炎は、静かに、しかし激しく燃え上がっていった。
「ずっと、側にいて……」
これまで控えめで、波風を立てぬよう生きてきた里美が、人生で初めて口にした我儘。
「あぁ、離れたくない。離さないよ」
戸村もまた、彼女の深い愛情に悦びを感じ、その献身を享受していた。
……だが、そんな甘い時間は長くは続かなかった。
不倫という綱渡りの代償。
それは、里美の「妊娠」という形で突きつけられた。
里美は、愛する人との間に宿った新しい命を、心から祝福した。
しかし、それを聞いた戸村の顔から色は消えた。
「すまないが……。その子は、諦めてくれないか」
戸村にとって、里美は「理想の隠れ家」であっても、今の生活を壊してまで手に入れるべき「現実」ではなかった。
彼は、家庭では育児も家事も完璧にこなす『良き父親』という仮面を守りたかったのだ。
「私のこと……愛してないの?」
二人の愛の結晶を、単なる「障害」として切り捨てようとした戸村。
その一言は、里美の心に癒えない傷を刻んだ。
彼女にとってこの関係は、いつしか「割り切った付き合い」などという冷めた領域をとうに超えていた。
この日を境に、二人の関係は音を立てて綻び始める。
毎日のように通っていた戸村の足は週一回に減り、幼稚園への迎えも露骨に回数が減っていった。
(避けられている……)
肌でそれを感じ取った里美は、募る不安に耐えかね、戸村の自宅近くから彼を呼び出した。
……だが、夜の静寂の中で電話に出たのは、夫の入浴中に着信を見た戸村の妻だった。
画面に表示された『幼稚園の先生』という名前に違和感を覚え、彼女は無言で通話ボタンを押したのだ。
不倫を知った妻の逆上は凄まじかった。
泣きながら食い下がる里美を、妻は憎悪を込めて力一杯突き飛ばした。
「二度と、夫に触れないで! これ以上つきまとうなら、幼稚園にすべてぶちまけます!」
冷たいアスファルトに叩きつけられた里美にそう言い放つと、妻は自宅へと消えた。
……そして、その衝撃が、里美の腹の中にいた小さな命を奪い去った。
事の次第を知った戸村は、妻にすべてを打ち明け、平伏して許しを乞うた。
「子供に対しては良い父親だった」
という家庭内の実績が功を奏し、妻は彼を厳しく断罪した上で、
「二度とない」
ことを条件に彼を受け入れた。
一方、子供という「未来」を失った里美は、深い喪失の闇へと沈んでいった。 幼稚園には休職届を出し、窓を閉ざした自宅で死人のように過ごす日々。
ここで、この悲劇が幕を閉じていれば、まだ良かった。
だが、根が優しすぎた戸村は、彼女が休職していることを知ってしまった。
(彼女が壊れたのは、僕のせいだ。せめて最後、しっかり謝らなければ……)
その中途半端な「善意」が、最悪の引き金になる。
「……今回のことは、本当に申し訳ないと思っている。里美が無事で、それだけが救いだよ。でも、妻にもバレてしまった。もう、これまでにしよう」
里美の家を訪れた戸村は、穏やかに、しかし非情な幕引きを告げた。
「そんな……。私のこと愛してるって、ずっと側にいるって、言ってくれたじゃない……!」
「それは……『家族を大切にする』っていう前提での話だよ。君だって、それを分かった上で納得してくれていたんだろう?」
不倫関係。
大概、男は都合よく解釈の余地を残し、女はそんな男に盲目的に身を委ねる。
周囲の平穏をどれほど踏みにじろうと、その悦楽の中にいる男女には届かない。
……だが、そんな関係が終わりを告げる時、そこには逃れようのない漆黒の憎悪が生まれる。
「じゃあ……もう私と貴方は、他人同士。そういうことね……」
「すまない……」
その瞬間、里美の心の中で何かが弾け、憎悪の炎が音を立てて燃え上がった。
「分かった。……さよなら。もう、会わないわ」
「……ありがとう。分かってくれて」
戸村は、これで全てが終わった。
そう信じて安堵の溜息を漏らした。
(これで、ようやく『正しい生活』に戻れる……)
だが、里美は違った。
彼女の心の中に「戸村を諦める」という選択肢など、端から存在してはいなかったのだ。
(戸村さん……ずっと、私の側にいて。行かないで……)
気づいた時には、キッチンで包丁を握りしめていた。
次の瞬間、戸村は床に横たわっていた。
おびただしい量の鮮血。
噴き出す紅い飛沫が里美の頬を濡らしたが、彼女は取り乱すことさえなかった。
もう助からないことは、見なくても分かった。
「これで、ずーーーーっと一緒にいられるね……」
自分には決して向けられなかった「一生」という名の愛情。
ならばせめて、その身体だけは永遠に自分の側に留めておこう。
里美は冷え切った戸村の遺体を、自邸の庭先へ、誰にも見つからないよう深く、深く埋めた。
しかし、それでも里美の心は満たされなかった。
「人並みの幸せ」など、何一つ手に入れていない現実に直面しただけだったからだ。
愛も得られず、愛の結晶だと信じた子供は父親に拒絶され、その妻によって無惨に消された。
「どうして私ばかり、こんなに辛い思いをしなければならないの……?」
いつしか、窓の外に見える「幸せそうな家庭」そのものが、彼女にとって耐え難い暴力となった。
笑い声が聞こえるたびに、すべてを無茶苦茶に破壊したいという衝動に駆られる。
そんな時、逃げ込むように覗いた『闇サイト』の掲示板が、彼女に魔の知恵を与えた。
――【女性でも確実にターゲットを仕留める方法】。
そこには「放火」という手段が推奨されていた。
直接手を汚さずとも、炎がすべてを呑み込んでくれる。
就寝時を狙えば、現代の家屋の気密性と燃焼速度から逃れることは不可能に近い。
消火器の備えなどない家庭がほとんどだ。
道具を使えば、遠距離からでも確実に点火できる……。
精神を病んだ里美にとって、その文字列は救いの「魔法」に見えた。
闇サイト経由で必要な道具を揃えるのに、時間はかからなかった。
そして、最初の一件。
夜の静寂を切り裂き、激しく燃え上がる家屋。
逃げ惑う人々の叫び声すら届かないほどに轟々と鳴る炎を眺めながら、里美はうっとりと目を細めた。
その赤い光景は、彼女の新たな門出を祝う、壮大な花火のように見えていたのだ。




