住宅街の捜査
住宅街を当てもなく歩きながら、不審者の影を追う北条と虎太郎。
「でもさ、今日は来ないかもしれないよな?」
「そうだねぇ。来ればラッキー、ってところかな?」
傍目には呑気な散歩にしか見えない二人。
だが、北条の足跡には明確な意図があった。
「あれ……? ここ、二件目の現場じゃねぇか」
「うん。そしてあの角を曲がった先は五件目だ。どこも歩いていける距離なんだよね。となると……」
「犯人も、この徒歩圏内に住んでいる可能性があるってことか」
「ご名答。さらに言えば、この住宅街を東西南北に分けたとき、火災はすべて『南側』に集中している。何らかのこだわりか、あるいは時間的な制約か……理由はまだ不明だけどね」
「そこまで読み切ってたのかよ……」
相変わらずの推理力に、虎太郎は脱帽するしかなかった。
「俺、あんたのこと誤解してたわ」
「なになに? ただの陽気なオッサンだと思ってた?」
「いや……正直、もうボケちまったのかなって」
「…………」
一見、無駄に見える徘徊の一つひとつが、犯人の喉元を狙う最短ルートに直結している。
北条の頭脳は、衰えるどころか、静かに研ぎ澄まされていた。
「ホント……なんであんたほどの人が捜一を辞めたんだか」
それは虎太郎の心からの疑問だった。
これほどの有能な刑事が最前線にいれば、救える命はもっと多かったはずだ。
「ま、五十を過ぎれば、大人の事情っていうのは色々あるものだよ。仕方ないのさ」
のらりくらりと躱す北条。
だが、短い付き合いの中で虎太郎は悟り始めていた。
その「大人の事情」こそが、北条を特務課という「吹き溜まり」へと向かわせた、逃れられない理由なのだと。
『北条さん、聞こえますか?』
ほどなくして、志乃からの無線が静寂を破った。
「相変わらず仕事が早いねぇ。何か分かったのかい?」
『はい。例の不審者ですが、北条さんの読み通りでした。火災が発生している南側の区域でしか、その姿は捉えられていません』
志乃が、数あるデータの中から最も鮮明な画像を北条の端末へ転送する。
『今送ったのが、一番表情が分かるものです』
「うん、よく見えるよ。さすが志乃ちゃんだ」
北条が画面を覗き込み、細めた目をさらに鋭くした。
「ふぅん……なかなかの男前じゃない。でも……怪しいねぇ。しきりにカメラを気にしている素振りだ」
「え……?」
北条が画像を静止させ、虎太郎に突きつける。
「この、僅かなカメラ目線。これは、レンズの位置を事前に把握して、無意識に避けていないと不自然な角度だ。ただの通行人なら、カメラなんて視界にも入らずに素通りするはずだからね」
北条は確信を持って断言した。
「この『不審者』は、間違いなく事件の核心に関わっているよ」
住宅街を歩き始めて、二時間が経過しようとしていた。
夕闇が街を朱色に染め、家々の窓に明かりが灯り始める。
「住んでいるとしたら、やはりこの南側だ。……少し重点的に、この辺りを洗おうか」
すれ違う男性たちの顔を注視しながら、二人の刑事は「獲物」との遭遇を待ちわびる猟犬のように、住宅街の深部へと入り込んでいった。
「あぁ。もうすぐ志乃ちゃんから『正解』が届く頃合いかな」
北条と虎太郎は、夕闇の迫る住宅街・南側を、根気強く網を張るように歩き続ける。
『北条さん、ヒットしましたよ』
ほどなくして、志乃の落ち着いた声がイヤホン越しに届いた。
「相変わらず仕事が早いねぇ……。聞かせてくれるかい?」
『はい。まず不審者の男性ですが、やはり南側在住でした。名前は深町 亮。近所のコンビニのアルバイト店員です。そして……』
志乃が、淡々と調査結果を読み上げる。
『先ほどお二人が話を伺った若い保育士――姉川里美。彼女と深町は過去に交際していた形跡があります。さらに遡れば、二人は同郷の幼馴染だそうです』
その結果を聞き、北条と虎太郎は顔を見合わせた。
「里美ちゃんかぁ……。なかなか、困ったちゃんかもしれないねぇ」
「あぁ。不審者の野郎と幼馴染だったなんて、絶対に何か隠してやがる」
事件の核心に、二人の男女の姿が浮かび上がった。
「どうする? どっちから当たるんだ」
深町と里美。
もし二人が共謀していたとしたら、当たる順番が重要になる。
片方に気づかれれば、もう片方が逃走や証拠隠滅を図る恐れがあるからだ。
「……志乃ちゃん、深町の正確な住所は?」
『コンビニ裏のアパートです。「メゾン南」の101号室……一階の角部屋ですね』
「そこまで調べてくれるなんて、本当に助かるよ。じゃ、まずは彼の方からお邪魔しようかな」
北条は、迷うことなく深町を選択した。
アパートへと向かう道すがら、虎太郎が隣の北条に問いかける。
「なぁ、なんで里美じゃなくて深町から行くことにしたんだ?」
「あぁ……どちらかが連絡を受けて身を隠すなら、深町の方だと思ってね」
「……なんでだよ」
「里美ちゃんは保育士だ。彼女が職場を放棄して失踪すれば、即座に大騒ぎになるだろう? もし彼女が犯人の一人だとしたら、ギリギリまで『日常』を演じ続けるはずだ。堂々と保育士をしておくことが、彼女にとっての最大の防壁になるからね」
「なるほどな……」
虎太郎は感心したように、自分の手帳に筆を走らせる。
前回の事件以来、彼は北条の思考のプロセスを一つひとつ記録するようになった。
より優れた刑事になりたい。
――その野性的な純粋さが、彼を突き動かしていた。
「虎、どうやらここみたいだよ」
北条が足を止めた。
目の前には、パステルカラーの街並みの中で一際浮いている、古びた二階建てのアパートが建っていた。
「確か……101って言ってたよな。志乃さんの情報通りだ。窓が開いてる……中に誰かいるぜ」
虎太郎が、網戸越しにカーテンが揺れる一階の窓を指差す。
「うん。確かに今日は暑いからねぇ……。単に戸締まりの悪い『困ったサン』であればいいんだけど」
北条は頷くと、虎太郎を背後に従え、101号室の重い鉄扉の前に立った。
ピンポーン、と安っぽいチャイムが鳴り響く。
「ごめんくださーい。深町亮さんはご在宅かな?」
北条がドアを軽くノックしながら、穏やかな、しかし逃げ場を塞ぐような声で呼びかけた。
ほどなくして、ガチャリと鍵が開く音がし、一人の青年が姿を現した。
「……なんすか。夜勤明けで寝てたんですけど」
(うん、ビンゴだね)
不審者の中には、知り合いの名を騙って犯行に及ぶ者もいる。
だが、目の前の男は志乃が送ってきた画像と寸分違わぬ風貌をしていた。
彼こそが、深夜の住宅街を徘徊していた「不審者」本人で間違いない。
「ごめんね、すぐ済ませるから許してよ」
「で、どちらさんですか」
「うん、警察」
北条がにこやかに答え、懐から警察手帳を差し出す。
その瞬間、深町の顔色からさっと血の気が引いた。
事件への関与はともかく、警察に踏み込まれると都合が悪い「何か」を抱えていることは明白だった。
「……任意、ですよね?」
「うん、任意だよ」
その言葉を聞いた瞬間、北条の確信は深まった。
この男、間違いなく「何か」を隠している。
「じゃ、断ります。一分でも長く休みたいんで」
深町は吐き捨てるように言うと、北条たちが言葉を重ねるより早く、勢いよくドアを閉めた。
内側から鍵の掛かる、重い音が響く。
「……いいかい虎。警察官が手帳を出したとき、真っ先に『任意ですか?』と聞いてくる奴は、ほぼ『クロ』か、限りなくそれに近いグレーだと思っていい」
「そんなもんなのか……」
「後ろめたいことがなければ、任意だろうが強制だろうが、普通は質問に答えてくれる。わざわざ権利を確認してくるのは、あわよくば対話を拒絶したいという心理の表れなんだよ」
数多の職務質問から犯人を検挙してきた北条。
その経験に裏打ちされた「刑事の勘」が、深町の逃げ腰な態度を正確に射抜いていた。
「でもどうすんだよ? ドア、閉められちまったぜ」
虎太郎がドアノブを掴むが、びくともしない。
「……今日は天気が良くて助かったねぇ。ほら、あんなに窓が開いているし」
「まさか、あそこから乗り込むのか?」
「それこそ、まさかだよ。令状もない、人質もいない民家に土足で突入してみろ。僕たちが現役警察官の不祥事としてニュースになっちゃうよ」
苦笑いを浮かべる北条に、虎太郎は焦れったそうに声を上げた。
「じゃあ、どうするんだよ」
「仕方ないなぁ。じゃあ、里美ちゃんの方に会いに行こうか。深町さんと接触があったみたいだし、彼女から『詳しく』話を聞いてみようかなぁ!」
北条が、開いた窓の奥まで届くような大声で言い放つ。
すると、間を置かずに玄関の扉が再び跳ねるように開いた。
「……里美は、関係ない。あいつは何もしてない!」
そこには、血走った目で北条を睨みつける深町の姿があった。
「……じゃ、話、聞かせてもらっていいかな?」
「……外で話すのもアレなんで、中に入ってください。散らかってますけど」
里美の名前を出されたことで、深町はようやく腹を括ったようだ。
北条と虎太郎は視線を交わすと、独特の生活臭が漂う部屋の中へと足を踏み入れた。
「……どうぞ。入ってください」
深町に促され、北条と虎太郎は室内へと足を踏み入れた。
「へぇ……なかなか綺麗にしているじゃない」
「ホントだ。……俺の部屋よりずっと片付いてるぜ」
男の一人暮らしとは思えないほど、隅々まで掃除が行き届いた室内。
生活感はあるが、物の配置には潔癖なまでの規則性が感じられた。
「彼女でも……いるのかい?」
「いませんよ。もう、しばらく一人です」
深町は不機嫌そうに吐き捨てると、キッチンへ向かった。
「麦茶でいいですか」
「あぁ、お構いなく」
麦茶の注がれた三つのグラスが、安物のテーブルに置かれる。
深町は自分の分を手に取ると、北条たちの正面に腰を下ろした。
「……で、何の用です。俺は警察に追われるようなことは何もしてませんよ」
一刻も早く話を終わらせて、この場から追い出したい。
深町の言葉には、隠しきれない焦燥が混じっていた。
「あぁ、そんなに時間は取らせないよ。最近この辺りで続いている放火事件について捜査していてね。何か知っていることがあったら、教えてほしいんだ」
深町から放たれる拒絶のオーラを柳に風と受け流し、北条は淡々と語り始める。
「……アレ、放火なんですか? 『連続不審火』じゃなくて」
「うーん。不審火ならまだ僕らも気が楽だったんだけどねぇ。どうしても放火としか言いようがない条件が揃いすぎてしまったんだ」
「……条件?」
深町が、無意識に身を乗り出した。
その僅かな反応を見逃さず、北条は薄く笑みを浮かべる。
「まず一つ。被害に遭ったのは、どこも小さなお子さんのいる『幸せそうな』ご家族ばかりだということ。夫婦仲が良くて、子供も元気。絵に描いたような家庭ばかりが狙われている」
「おい北条さん、捜査情報をそんなに……」
虎太郎の制止を無視して、北条は言葉を継ぐ。
「そしてもう一つ。火災はこの住宅街の『南側』でしか発生していない。つまり、犯人はこの区域に異様な執着があるか、あるいは移動手段が限られていて、この範囲でしか行動できない人物……つまり、この近隣の住人である可能性が極めて高い、ということだ。……まぁ、現段階ではこんなところかな」
「そう……ですか」
深町の表情から、徐々に余裕が剥がれ落ちていく。
その顔色の変化に、虎太郎も息を呑んだ。
(このオヤジ、まさか……。もうこいつをホシだと断定して、あえて情報を食わせてるのか?)
「……それで、そんな機密事項を、どうして僕に話すんですか」
深町が、詰問するように北条を睨みつけた。
答えを急ぐその声は、僅かに震えている。
「……君。街の人たちから『不審者』扱いされてるよ?」
「……え?」
「……え?」
北条のあまりに唐突な一撃に、深町だけでなく、虎太郎までもが素っ頓狂な声を上げた。
(不審者だから聞き込みに来たんじゃねぇのかよ……?)
北条の狙いが読めず、虎太郎は内心で毒づく。
だが、北条は構わず、獲物の喉元へ指をかけるように言葉を紡いだ。
「僕は不審者なんかじゃ……」
「そうだよねぇ。『元カノ』に会いたくて通っていただけだもんねぇ。でも、ちょっと煙たがられていたんじゃない? だから周りからは不審者に見えた……と」
「…………っ!」
深町が言葉を失い、喉を鳴らす。
「何を話していたのか、教えてくれないかい?」
「それは……」
深町と里美。
この二人の関係性の「綻び」にこそ、事件のヒントが隠されている。
北条はそう確信していた。
(どちらか、あるいは両方が犯人と密接に関わっているのは間違いない。……慎重に、かつ大胆に剥がしていくよ)
「これは……任意、ですか?」
深町が真っ青な顔で、縋るように問う。
「任意だよ。……けど、今この場で令状を取りに行ってもいいレベル、かな」
北条の瞳に、逃げ場を許さない冷徹な光が宿る。
「里美とは……」
この男からは逃げられない。
そう悟ったのか、深町は絞り出すような声で、ポツリポツリと語り始めた。
「付き合ってなんていません。里美と僕は……ただの、幼馴染なだけです」
「そうなんだ。でも、君は彼女が好きだったんだろう?」
「そ、それは……。でも、里美の方は、僕のことなんて眼中になかったみたいですから……」
自嘲気味に、寂しげな表情を見せる深町。
その意外な反応に、北条の眉が僅かに動いた。
(おや……読み違えたかな?)
北条は、二人が何らかの強力な共犯関係にあると踏んでいた。
恋愛、あるいはそれに準ずる強い絆がなければ、人が死んでいる凄惨な放火事件を共謀し続けることなど不可能に近いからだ。
たとえ背後に巨大な黒幕がいたとしても。
だが、深町の感情は、報われない片想い。
北条は、自分の描いた相関図にズレが生じていることを即座に理解し、思考を再構築する。
(一方的な愛情で、里美ちゃんが罪を犯すのを黙って見ていられるか……? いや、惚れた女なら、むしろ必死に止めるはずだ。……点と点が、まだ繋がらないな)
「……だったらよ。なんで不審者扱いされてまで、里美のところに何度も行くんだよ」
沈黙を破ったのは、虎太郎だった。
「幼馴染なら、メールなり電話なりで済むだろ。わざわざ『夕方』に、何度も姿を見せる必要がどこにあるんだ?」
「あぁ……」
ふと思った疑問をぶつけた虎太郎の言葉に、深町がたじろぐ。
「虎……ファインプレーだ!」
北条が思わず声を上げた。
野性の直感で核心を突いた虎太郎。
深町が「直接足を運ばなければならなかった理由」――そこに、彼が隠し通そうとしている『真実』が眠っている。




