夜半の事件
閑静な住宅街。
午前二時。
全ての光が死に絶え、静寂が支配する街角に、ぽつりと佇む人影があった。
「どうして……みんな、そんなに幸せそうなのかなぁ。当たり前のように結婚して、当たり前のように温かい家庭を築いて……。妬ましいなぁ」
呪詛のような独り言を漏らしながら、その人影は背負っていたリュックサックをゆっくりと下ろした。
「幸せになるどころか、裏切られて、騙されて、罵られて……血を吐くような思いで生きている人間だっているのにさ。不公平だよねぇ」
リュックから取り出されたのは、小振りの携行缶に入ったガソリン。
そして、数枚の新聞紙とチャッカマン。
ぶつぶつと恨み言を連ねながら、人物は一軒の民家へと忍び寄る。
そのすぐ隣には、今はひっそりと静まり返った幼稚園が建っていた。
「いいなぁ、幼稚園がすぐ側で。明日の朝も、夫婦仲良く子供を送り出して、ニコニコ笑いながら仕事に行くんだろうね。……あぁ、本当に妬ましい」
広げた新聞紙に、ガソリンをたっぷりと含ませていく。
手際よく火種を作り上げたその人物の口角が、暗闇の中で歪に吊り上がった。
「……そんな甘ったるい幸せ、毎日見せつけられたくないんだよ。だから……消えちゃえ」
カチッ、とチャッカマンが火を噴く。
赤ん坊の産声のような小さな火種を、人物は躊躇うことなく民家の壁際へと放り投げた。
どろりとした黒い煙が立ち込めた直後――。
ガソリンを吸った新聞紙は、爆発的な勢いで発火した。
炎は瞬く間に外壁を舐め上がり、夜の闇を鮮血のような赤で塗り替えていく。
「か、火事だぁぁぁ――――っ!!!」
不意に、静寂を切り裂く絶叫が響いた。
炎の明かりに気づいた近隣住民の男性が、喉を潰さんばかりの声で異変を知らせたのだ。
咄嗟に、犯人はパーカーのフードを目深に被り、物陰の闇へと身を潜める。
激しく燃え盛る民家。
だが、家の中の明かりは一向に点かない。
「おい!! 起きろ!! 火事だぞ!! 早く逃げろ!! 死ぬぞ――っ!!」
住民の男性が必死に玄関の扉を叩き、インターホンを連打する。
ようやく、家の中に明かりが灯った。
だが、その時にはもう、手遅れだった。
「う、うわぁぁぁっ!!」
呼びかけていた男性が、あまりの熱風に仰け反り、転がるように家から離れる。
火の手は完全に家を包囲し、猛烈な勢いで屋根へと突き抜けていた。
騒ぎを聞きつけた近隣の人々が次々と外に飛び出し、手分けして通報し、消火器を抱えて駆け寄るが、炎の怪物に抗う術はない。
「助けて……助けてくれ!!」
「うわぁぁん! お母さん、怖いよぅ!!」
「嫌だ!! 誰か、助けてください!! お願い!!」
家中の窓が次々と突き破るように開かれ、室内に閉じ込められた家族が、地獄の底から這い上がるような悲鳴を上げる。
それを見て――犯人は、暗闇の中でくすくすと笑った。
「あらあら……ダメだよ、そんなに窓を開けちゃあ」
一度は酸素不足で燻りかけていた炎。
しかし、必死に開けられた窓から、新鮮な夜の空気が一気に吸い込まれていく。
――バックドラフトに近い現象が起きた。
送り込まれた酸素を得て、炎は爆音を立てて狂暴化し、逃げ惑う家族を飲み込もうと室内に躍り込んだ。
「助けてえぇぇぇ――――っ!!!」
「げほっ! げほっ……! 助けて、誰か!!」
猛煙に巻かれ、必死に窓から身を乗り出す家族。
その顔は煤で汚れ、涙と鼻水でぐちゃぐちゃだ。
「……むーだだよ。もうすぐそこ、崩れちゃうから。あぁ、早く消防士さん来ないかな? 早く助けてあげてよぉ――」
地獄のような光景を特等席で眺めながら、犯人は思わず吹き出した。
ちょうどその時、夜の空気を切り裂いて、遠くから幾重ものサイレンが近づいてくる。
「来たぞ!! 消防車だ!!」
「道を空けろ! 車を動かせ!! 消防車をここまで入れさせるんだ!!」
住民たちの連携は、見事なまでに迅速だった。
瞬く間に火災現場の周辺から障害物が排除され、巨大な赤い車両が入り込むスペースが確保される。
「なんて素晴らしい連携……。これならどんな事件や事故が起きても、この街の人たちは他の地域より長生きできるね。……『今回』を除けばさ」
犯人は小さく、皮肉な拍手を送った。
まるでテレビドラマの感動的なクライマックスを鑑賞しているかのように、その瞳は期待に爛々と輝いている。
そして、先頭の消防車が現場の正面に到着し、隊員たちが飛び出した、その瞬間だった。
「さよなら……幸せな家庭」
犯人が甘く囁く。
ごうごうと燃え盛り、既に炭化して限界を迎えていた一階部分の柱が、ついに自重に耐えかねて悲鳴を上げた。
――ミシミシッ、ドォォォォォン!!
凄まじい轟音と共に一階が圧壊する。
それと同時に、助けを求める家族がいた二階部分が、奈落の底へと吸い込まれるように、一気に炎の渦中へと叩き落とされた。
「う、うわぁぁぁぁぁぁっ!!!」
救出を信じて疑わなかった住民たちの目の前で、家族を乗せた家は、巨大なキャンプファイヤーの如き火柱を上げた。
一瞬前まで生きて、助けを求めていた人々の叫び声は、爆ぜる炎の音にかき消され、無慈悲に、そして完全に、夜の闇へと呑み込まれていった……。




