虎太郎という男
「お前……怖くないのか? 僕は武器を持って、本気でお前を殺しに行こうとしているんだぞ」
自信満々に立つ虎太郎の姿に、本宮は本能的な違和感を抱いた。
死を目前にした人間特有の怯えが、この男からは微塵も感じられない。
「別に、怖くねぇよ。いかに大層な得物を振り回そうが、使い手が素人じゃあ欠伸が出る。お前……刃物の扱い、習ったことねぇだろ?」
「なんだと……? ――なら、その減らず口を叩けなくしてやる!」
虎太郎の挑発に逆上した本宮が、鉈を横薙ぎに振り回しながら突進する。
だが、虎太郎は紙一重の距離でその軌道を見切り、最小限の動きで、しかし確実に刃を躱し続ける。
その足取りは、まるで退屈なダンスを踊っているかのように軽やかだった。
「凄い……。どうしてあんなに落ち着いていられるの? 私も護身術の心得はあるけれど、あんなの……実戦に慣れすぎているわ」
絶句する司の横で、北条は満足げに目を細めた。
「期待通りのリアクションで嬉しいよ。虎はね、警視庁の各種武道・格闘技大会の……『全種目王者』なんだ。柔道、剣道、逮捕術、挙句の果てには射撃までね」
「……え、えぇっ!? 全種目!?」
北条がさらりと明かした経歴に、司は思わず素っ頓狂な声を上げた。
『うっそ! マジ!? 凄いじゃん虎太郎くん! 志乃ちゃん、知ってた?』
『えぇ……噂程度には聞いていましたが。まさか、あの「怪物」が虎太郎さんだったなんて……』
無線越しに会話を盗み聞きしていた悠真と志乃も、驚愕を隠せない。
『辰川さんは知ってたんですか?』
『あぁ。俺は北条から事前に聞いてた。捜査力はまだヒヨッコだが、こと犯人確保の局面においては、特務課の中でも「最強の矛」になるだろうってな……』
北条の先輩格である辰川は、この組織が立ち上がる前から虎太郎のポテンシャルを共有されていたらしい。
『だがな……ありゃあ異常だ。全種目王者っつっても、普通は「試合」の話だ。あんなふうに、実際に何人も切り刻んだ凶器を向けられて、平然と笑ってられるなんて……正気の沙汰じゃねぇよ』
数多の修羅場を潜り、無慈悲に奪われた命の残骸を見てきたベテランの辰川にすら、そう言わしめる。
『あれは……ネジが一本、確実にぶっ飛んでやがる』
それは、恐怖という感情を「闘争心」へと変換してしまう、戦うために生まれてきた者だけが持つ狂気だった。
無線から流れる声を聞きながら、司は虎太郎と北条を交互に見比べた。
(北条さん……一体、私たちも知らない秘密をいくつ持っているの?)
古巣の捜査一課にいた頃から、北条は謎の多い男だった。
だが、彼の助言に従えば、最悪の事態は常に回避され、いつの間にか「最善の一手」へと導かれていた。
(北条宗一郎……。全く底が見えない人だわ)
だが、彼が味方であるならば、これほど心強いことはない。
この凄惨な連続殺人事件の終着点に立って、司はそれを確信していた。
虎太郎と本宮が、月明かりの下で対峙している。
本宮は喉を鳴らし、幾度となく鉈を振り下ろすが、虎太郎はその軌道を予見しているのか、あるいは野性の本能で躱しているのか、刃先は虎太郎の衣服をかすめることすらできず、虚しく空を斬るばかりだった。
「おいおい……お前、自分より弱い相手しか殺したことがねぇのか? とんだ三流の殺人鬼さまだなぁ、あぁ?」
虎太郎の冷徹な挑発。
激昂した本宮は、顔を真っ赤に染めて、さらに闇雲に鉈を振り回す。
「どうして挑発なんてするの……? 余計に危険だわ!」
『刃物を持つ犯人を刺激するな』。
警察学校時代から叩き込まれてきた鉄則を真っ向から踏みにじる虎太郎の行動に、司は戦慄を禁じ得ない。
「……それはね、周囲に民間人がいるかもしれないからこそのセオリーだよ、司ちゃん。今は、本宮と虎の一騎打ちだ。こうなればもう、一対一の『殺し合い』。……そっちの土俵なら、虎に任せるのが一番確実なんだよ」
「そっちの……?」
北条は、虎太郎の履歴書の裏側を知っているからこそ、その戦い方に絶対の信頼を寄せていた。
「虎はね……若い頃、ギャングと呼ばれる半グレ組織に身を置いていたんだ」
「……え?」
「この話は、僕と君だけの秘密にしておいてね」
不穏な前置きの後、北条は静かに語り出した。
「学生時代の喧嘩は負け知らず。格闘技を学ぶ前から、彼は異常に強かった。その分、火種も絶えなかったんだ。ギャングに堕ちたのも、抗争の渦に呑み込まれた結果、仕方のない選択だった」
視線の先では、本宮の動きに明らかな疲れが見え始めている。
「その組織は極道とも繋がっていてね。一度のミスが自分の死に直結する。仲間たちが何人もコンクリート詰めにされ、東京湾に沈んでいったそうだ。虎は、何度も何度も本物の死臭を嗅ぎながら生きてきた。生き残るために、――殺されないために、彼は『最強』になるしかなかったんだよ」
「…………」
北条の語る壮絶な過去に、司は息を呑む。
「その後、警察の一斉検挙で組織は壊滅した。メンバーのほとんどが塀の中へ消えたが、たった一人、立件されるような犯罪に手を染めていなかったのが虎だった。用心棒として腕を振るってはいたが、薬にも詐欺にも、破壊活動にも一切加担しなかった。僕はね、そんな彼と今後の人生について、よーく話し合ったんだ。……どんな経緯があったかは本人の口からは聞けないだろうけど、結果として虎は、自らの意思で警察官を目指した……というわけさ」
「そんなことが……。まさか、かつてのギャングが、今は刑事として犯人を追い詰めているなんて……」
北条がどのようにして、闇にいた猛獣を光の世界へ導いたのか。
その手法は謎に包まれている。
だが、確かなことが一つだけあった。
目の前で獲物を追い詰める虎太郎の背中は、今の特務課にとって、誰よりも頼もしい守護神のものだった。
「はぁ、はぁ……っ。くそ、どうして……当たらない……!」
本宮の瞳からは、既に戦意が消え失せていた。
幾度襲い掛かろうと、怯むどころか余裕すら崩さぬ虎太郎。
これまで手にかけてきた、恐怖に顔を歪め、惨めに命乞いをして逃げ回った女たちとは、あまりに「種族」が違いすぎた。
「僕が殺してきた人間はみんな……あんなに、あんなに容易く壊れたのに……っ!」
「……そうやって命乞いをしてきた人間を、お前は無慈悲にバラバラにした。そういうことだよな?」
虎太郎の拳が、みしりと音を立てて固く握られた。
その微かな予動が、自らの命を奪う決定的な暴力であると、本宮は本能で理解した。
「……ひっ! や、やめ……」
懇願が形を成すよりも早く、虎太郎の硬質な拳が本宮の頬へとめり込んだ。 肉の潰れる嫌な音が響き、本宮は木の葉のように後方へと弾き飛ばされた。
「う……うぅ……っ」
「オラ、立てよ。まだ終わっちゃいねぇぞ」
虎太郎は泥だらけの本宮の髪を乱暴に掴み、無理やり引きずり上げた。
逃げ場を失った顎へ、そして内臓を破壊せんばかりの勢いで腹部へ。
容赦のない拳が、正確に急所を穿っていく。
「もう……やめてくれ……っ」
激痛に顔を歪め、本宮が喘ぐ。
だが、虎太郎の左手は万力のように本宮の髪を掴んだまま、決して離そうとはしなかった。
「まぁ待てよ。もう少ししたら、あの鉈……借りるからよ。あと数発殴って動けなくなったら、今度はあの得物でお前の身体を少しずつ切り刻んでやる。お前がやってきたように、丁寧に、な……」
本宮が衝撃で手放した鉈を冷たく見据え、虎太郎が低く笑う。
その瞳に宿る本物の「殺気」を前に、本宮は生まれて初めて、底なしの死の恐怖に直面した。
「誰か……助けて……! こ、殺される……!」
本宮は縋るように周囲に視線を泳がせた。
北条へ、そして先ほどまで自分が刃を向けていた司へと、必死の訴えを向ける。
「北条さん……」
司が苦い表情で隣の北条を見上げた。
いかに残虐な犯人とはいえ、このままでは本当に虎太郎が彼を殺してしまいかねない。
だが、北条は静かに、そして冷徹に首を振った。
「大丈夫だよ。虎は本当に殺したりはしない。……もう少し、任せてみようじゃないか」
本宮の必死な命乞いなど、夜風ほども気にならないといった様子で、北条は飄々と答えた。
「司ちゃん、君は優秀な刑事だ。加害者の人権さえも案じているんだろう。でもね……」
虎太郎が本宮を再び殴り飛ばし、ゴミのように地面へ投げ捨てる。
「……決して足を踏み入れてはいけない領域に踏み込んだ者には、それ相応の報いが必要なんだ。そう……」
その瞬間、北条が向けた鋭い眼光に、司は全身が凍り付くような戦慄を覚えた。
「……それこそ、自分が『死ぬ覚悟』も持たずに、他人の命を弄んではいけないんだよ」
もはや指一本動かす余力も残っていない本宮。
虎太郎は、赤黒く染まった鉈をコンクリートの上に引きずりながら、ゆっくりと歩み寄る。
カラ……カラ……と金属の擦れる音が、本宮への葬送曲のように響いた。
「頼む……殺さないで……助けて……」
恐怖の先にある、漆黒の絶望。
自らの手足が動かない無力感の中、本宮は消え入りそうな声で、それでも醜く、必死に命乞いを繰り返した。
「俺は、ちゃんと聞いてやるよ。……何か、最期に言い残すことはねぇか?」
虎太郎の目は、底冷えするほどに冷徹だった。
本宮を人間としてではなく、道端に転がる汚物のように蔑んだ、無機質な視線。
その瞳に射抜かれた瞬間、本宮は確信した。
この男は今、本気で自分を「処分」しようとしている――と。
「ごめん……なさい! 僕が間違っていた! ――全部、ただの逆恨みなんだ! 美しいものが好きだなんて、そんなのは獲物に近づくための口実でしかなかった! 本当は……本当は美しいものが憎くて、壊したくて、たまらなかったんだ!!」
時折、苦悶の呻きを上げながら、本宮は自らのドロドロとした本音を吐き出していく。
虎太郎は、その醜悪な独白を、一言も遮ることなく聞き届けた。
「……じゃあ、なんで綾さんと付き合ったんだよ。同棲までしてさ」
低く、重い問いかけ。
憎しみだけで動いている男が、ひとりの女性と生活を共にするなど、並大抵の動機では不可能なはずだ。
「綾さんには、今までの被害者たちとは違う『何か』を感じてたんじゃねぇのか? そうじゃなきゃ、憎悪に駆られたお前が、あんな穏やかな時間を共有できるはずがねぇ」
虎太郎には分かる。
彼自身、生涯を添い遂げると誓った婚約者がいるからだ。
他者と同じ屋根の下で暮らすということは、己の弱さも醜さもすべてを晒し、相手の人生を受け入れるということ。
生半可な気持ちでできることではない。
「綾は……僕の話を、聞いてくれたんだ。否定もせず、意見を押しつけるでもなく、ただ静かに、僕の孤独に寄り添ってくれた。だから……心を許してしまったのかもしれない」
本宮の凍てついた心を唯一溶かしかけたのは、紛れもなく綾の慈愛だったのだ。
「……綾さんが、第一の被害者じゃねぇな?」
ここで、虎太郎の野生的な直感が、新たな真実を掘り当てた。
「あぁ……何人か殺して、この場所で繋ぎ合わせていた。この『作品』に気づく者はいなかったが……。ある日、綾は僕が人を殺していることを知ってしまったんだ」
「話し合おうとは……しなかったのか」
「綾は……一緒に罪を背負うと言ってくれた。何年でも待つから、自首してくれと泣いて縋られたよ。でも……ここで僕が捕まったら、この『作品』は放置され、朽ちてしまう。それだけは、耐えられなかったんだ」
本宮は、自分を愛してくれた唯一の存在よりも、狂気から生まれた「死の造形物」を優先した。
完成まであと一歩。
その執着が、彼に残されていた一筋の救いを断ち切ったのだ。
「……馬鹿野郎。自分の恋人だぞ。殺すことがどういうことか、考えなかったのか」
「考えた……考え抜いたさ。だから、綾だけは安らかに逝かせてやろうと思ったんだ。僕が捕まる前に、僕の手で……。苦しませず、眠ったままの姿で……」
そう語った本宮の目から、一筋の涙が零れ落ち、コンクリートの床に染みを作った。
自らの手で、唯一の理解者を、唯一の愛を殺めた男の、あまりに遅すぎた落涙だった。
「馬鹿野郎が……!」
虎太郎は、地を這う本宮を無理やり引きずり上げた。
「お前が本当に反省して、真っ当に罪を償う道を選んでいたら……きっと待ってたはずだ。綾さんは、お前のことを……」
絞り出すような叫びと共に、もう一度だけ、虎太郎は拳を振り下ろした。
鈍い音を立て、本宮が不格好に崩れ落ちる。
「お前が殺しをやっていたと知っても、彼女は逃げなかった。それどころか、二人でやり直そうとしたんだ。それほどまでにお前を思っていたからこそ、自首してくれと縋ったんじゃねぇのか!」
虎太郎の怒声が、冷え切ったコンテナの壁に虚しく反響する。
「綾……僕は、僕は……!」
剥き出しの真実を叩きつけられ、本宮はようやく己が踏みにじった愛の大きさに気づいた。
虎太郎は重い溜息を吐くと、それ以上は何も語らず、嗚咽を漏らす本宮の両手に金属の輪――手錠を噛ませた。
「……死んだ人間は、もう二度と戻らない。失った命の分、地獄の底でしっかり償え」
こうして、都内を震撼させた連続猟奇殺人事件は、容疑者逮捕という形で幕を閉じた。
「虎、お疲れ」
応援の警官隊が到着し、状況報告と本宮の身柄引き渡しを終えた。
未だ立ち去りがたい空気が漂う現場で、虎太郎は本宮が残した忌まわしくも悲しい『作品』をぼんやりと見つめていた。
そんな彼に、北条が労いの言葉と共に缶コーヒーを差し出す。
「あぁ……。北条さん、なんで人間って、こうも簡単に分かり合えないものなんだろうな」
綾の説得の真意を、本宮がほんの少しでも察していれば。
狂気の果てに手を染める前に、誰かが彼の絶望に気づいていれば。
刑事として、そして一人の男として、虎太郎の胸はやりきれない後悔で満たされていた。
「……警察の仕事に、完全なハッピーエンドなんてものは無いんだよ。いつだって『たら、れば』が付きまとう。だから、刑事は犯人を捕まえても心が晴れることはない。でもね、それでいいんだ」
これまで幾多の凶悪事件を最前線で潜り抜けてきた北条。
彼のその横顔には、数えきれないほどの「救えなかった命」の記憶が刻まれているようだった。
「完全な解決なんて無いからこそ、刑事は次の事件を、今度こそ早期に、未然に防ごうと全力を尽くす。それは、ちっともおかしなことじゃないよ」 「あーあ……事件が起きる前に、全部知ることができたら、どれほど楽だったことか……」
北条は苦笑を浮かべたまま、虎太郎の隣に腰を下ろした。
そして、胸ポケットから煙草を一本取り出し、ゆっくりと口に咥える。
虎太郎は迷うことなく、懐から出したライターの火を、差し出された煙草の先に近づけた。
「お、サンキュ」
バディとなってから、事件が片付くたびに繰り返される、お決まりのやり取り。
北条がコーヒーを差し出し、虎太郎が火を灯す。
「このやり取り……本当は、できるだけやりたくないんだけどな」
「あぁ、全くだよ。事件解決は誇らしいが、事件が起きるのは決して嬉しくない。疲れるし、危ないし、何より――悲しいからね」
本宮を乗せたパトカーが、赤色灯を明滅させながら夜の闇へと消えていく。
その静かな後ろ姿を眺めながら、北条と虎太郎は、重く冷たい、けれどどこか温かい安堵の混じった溜息を、同時に夜空へと吐き出した。




