本宮 和也
本宮和也は、決して贅を尽くした環境に生まれたわけではなかった。
だが、そこには人並みの生活と、それを守る確かな幸せが根付いていた。
父は堅実な中小企業の課長。
母は専業主婦として、陽だまりのような温かさで家を守っていた。
一人っ子として育った和也にとって、真面目に働く父の背中は憧れそのものだった。
自分もいつか父のようになりたい――少年時代の彼は、一点の曇りもなくそう信じていた。
母は絵画や写真を愛する人で、学校が休みのたびに和也を美術館へ連れて行った。
のんびりと過ぎていく贅沢な沈黙。
色鮮やかな名画の数々。
母と一緒に過ごすその時間は、和也の心を豊かに育んでいった。
「和也、美しいものをたくさん見なさい。美しいものはね、人の荒んだ心を洗ってくれるのよ」
母はいつも、和也の頭を優しく撫でながら言い聞かせた。
「どんなに気持ちが滅入ってしまっても、綺麗な景色、美しいもの、気高い人……。それらに触れれば、心はまた綺麗になれる。美しいものを美しいと素直に思える、そんな真っ直ぐな心を持ちなさいね」
母の言葉は、和也の血肉となった。
彼は母を信じ、世界に溢れる「美」を探した。
彼が写真家を志したのも、母が教えてくれたその美しさを、永遠に留めておきたいと願ったからに他ならなかった。
「紹介するよ。お父さんの会社の部下のみどりさんだ。いつも仕事を手伝ってもらっていてね」
ある日、父が自宅に一人の女性を連れてきた。
部下だというその女性は、言葉を失うほどに美しかった。
物腰は穏やかで、男性なら誰もが目を奪われるであろう、魔性とも言える魅力に満ちていた。
母も、本能的にその危機感を感じ取ったのだろう。
「よろしくお願いしますね。妻です」
母のその言葉には、この家には愛する家族がいるのだという、切実な拒絶が滲んでいるように見えた。
「お話はいつも課長から伺っています。素敵な奥様で、課長が羨ましいですわ」
当初、みどりは家庭に踏み込まない良識ある女性を完璧に演じていた。
だから和也も、彼女がリビングに座っていることに、決定的な違和感を持てなかった。
――それが、すべての破滅の始まりだったとも知らずに。
父は、みどりを自宅に招いた時点で、既に彼女と深い仲にあった。
では、なぜわざわざ「部下」として家に入れたのか。
それは、父が母をこの家から追い出し、みどりと入れ替えるための『下見』だったのだ。
そもそも、それはすべてみどりの入れ知恵だった。
ローン完済を間近に控えた、課長職の男が持つ堅実なマイホーム。
そこへ転がり込むことで、彼女は自らの将来の安泰を、他人の幸せを犠牲にして手に入れようとしたのだ。
父とみどりの、醜悪で勝手な計画。
母も、そして何より「美」を信じていた和也も、その奈落の底へと続く階段に、まだ気づいていなかった。
本宮の母は、夫を信じようとした。
夫が『部下』だと言うのなら、そうなのだろう。
……そう思わなければ、自分の立っている場所が崩れてしまいそうだったからだ。
だが、そんな母の微かな祈りは、音を立てて裏切られていく。
一度本宮宅へ上がり込んだのを機に、みどりは我が物顔で家に出入りするようになった。
名目は『課長の仕事の補佐』。
だが、彼女は徐々に、そして確実に本宮家の生活そのものを侵食し始めた。
母が不在の隙を狙って入り込み、いつしかリビングのソファも、キッチンも、本宮家の日常には常に「みどり」という毒々しい異分子が紛れ込むようになった。
母が、父の不貞に気づくまでに時間はかからなかった。
だが、専業主婦として経済的に父に依存していた母には、家を飛び出す勇気も、夫を糾弾する術もなかった。
ただ、夫は疲れているのだ、一時的な気の迷いに過ぎないと、独り夜の底で涙を呑んだ。
それでも、二人の情事は終わらなかった。 みどりは連日のように本宮邸に居座り、深夜になると父を連れ出して夜の街へ消える。戻るのはいつも早朝。
母は、耐えた。
それでもなお、父の中にあるはずの「家族への情」を信じて。
だが――ある日、父はみどりと共に出て行ったきり、二度と帰ってくることはなかった。
「あの女さえいなければ、僕たち家族はいつまでも幸せだったんだ。それなのに……。父は、あの女の『美しさ』に負けた。積み上げてきた何十年もの幸せをなげうって、女の魔力に屈したんだ!!」
コンテナの中で叫ぶ本宮の瞳には、ドロドロとした暗い憎悪が渦巻いている。
残されたのは、母と幼い和也だけだった。
それでも母は、前を向こうとした。
裏切られた悲しみに暮れる暇などない。
息子を守れるのは自分しかいないのだと。
母は、それまで家事しか知らなかったその身に鞭を打ち、遮二無二仕事を探した。
父の給料というライフラインは既に断たれている。
家計を預かっていたからこそ、母は分かっていた。
自分と和也が生き延びるために必要な「血の代償」を。
母は、パートを二つ掛け持ちした。
体力的には限界を超え、それでも収入は雀の涙。
ボロボロになりながら、それでも和也の前では決して弱音を吐かず、虚勢を張ってみせた。
「大丈夫よ。お父さんが貯金を残してくれたの。数年は何もしなくても暮らしていけるわ。だから和也、あなたは何も心配しなくていいのよ」
『あの日、あの言葉の裏側にある絶望に、どうして気づけなかったんだ』
本宮は、今も自分を呪い続けている。
貯金など、最初から一円も残されていなかったのだ。
「……母は、必死だった。でも、女一人で稼げる金なんてたかが知れていた。そんな母の窮状につけ込んで、甘い顔で近づいてきた男がいた。元・父の部下だった男……『あの女』の共犯者さ」
経済的に行き止まりに達していた母。
そんな母に差し出された「救いの手」。
だが、それこそが地獄への招待状だった。
「最初から、すべては仕組まれていたんだよ。あの女は父と一緒になるつもりなんて、端からなかった。父の役職を妬み、家を奪い、金を巻き上げて、家族をバラバラに破壊して楽しむ……。父があの女と出会ったその瞬間から、奴らはグルだったんだ」
母に近づいた男は、みどりの恋人だった。
地獄から救い上げる振りをしながら、彼女をさらに深い奈落へと引きずり込んでいく。
本宮和也の心から「美」という概念を、完膚なきまでに叩き潰した真実が、今、赤裸々に明かされた。
母は言われるがまま、夜の街へと身を投じた。
生活はそれまでと比べて幾分か楽にはなったが、比例するように母の身体は目に見えてやつれていった。
「今日はいいお肉を買ってきちゃった。和也、たくさん食べなさい。今まであまり、ちゃんとしたものを食べさせてあげられなかったものね」
母はいつも、和也が寝静まった後に仕事へ向かい、朝食の前に帰ってきた。
和也は母の「仕事場」での姿を知らない。
彼が見る母は、父がいた頃と変わらない、優しい微笑みを浮かべる母のままだった。
――しかし、限界は音もなく訪れた。
「……ごめんね、和也……」
母は、ついに力尽きるように倒れた。
二人分の生活費を、女手一つで、それも慣れない環境で賄おうとした無理が祟ったのだ。
母が入院すると同時に、職場の上司は、使い捨ての道具を放るように母を見限った。
綱渡りのような貯金で数年はやりくりできた。
けれど、母の心はもう、身体より先に死んでいたのかもしれない。
母は入院中、病室で自らの命を絶った。
遺書ともとれる書き置きには、自分が最初から騙されていたこと。
みどりと店のオーナーが裏で繋がっていたこと。
そして、父が既に消息不明となっていることが、震える文字で綴られていた。
すべてを知り、耐えられなくなった――。
その絶望の果てに、母は逃げ場のない死を選んだ。
そして、母を奈落へ突き落としたみどりもまた、霧のように消息を絶った。
「……母は、あの女に復讐したかったに違いない。けれど、それも叶わず、一人で逝った。だからさ……」
その日からだ。
本宮の心の中に、黒く澱んだ『狂気』が産声を上げたのは。
「僕は、写真家を目指すという名目で日本各地を回った。本当の目的は、父と、あの女を探し出すことだ。……そして見つけたよ。あの二人は、何もなかったかのように、幸せそうに二人仲良く暮らしていた。……かえって好都合だったよ」
本宮の表情に、昏い邪気が宿る。
「貴方……まさか……」
ずっと静かに耳を傾けていた司の背筋に、戦慄が走った。
「あぁ。そんなに仲がいいなら、地獄で一緒にやってろってね」
「殺したのね……」
それが、本宮和也にとっての「最初の作品」だったのだ。
「何度も、何度も……地に頭を擦りつけて、父も、あの女も僕に詫びていたよ。『命だけは助けてくれ』って。……笑わせる。身勝手にも程がある。母は必死に僕と生きようとした。それでも死んだんだ。理不尽な悪意に曝されてね。だから……」
本宮は倉庫の隅から、一本の重厚な鉈を引きずり出した。
その鉈は、一体どれだけの血を吸い、どれだけの肉を断ってきたのか。
刀身はどす黒く変色し、不気味な鈍光を放っている。
「二人の『許してください』という声が聞こえなくなるまで、切り刻んでやったよ。少しずつ、少しずつ……。次第に、謝罪の言葉は『死にたくない』に変わり、最後には『殺してくれ』になった。……人間なんて、罪悪感よりも保身、保身よりも痛みが勝るんだよ。結局、それだけのことだ」
「狂ってる……」
「あぁ。僕はもしかしたら、あの日、母が死んだあの時から……ずっと狂っていたのかもしれない」
鉈を握る本宮の手が、歓喜か憎悪か、微かに震える。
彼は、獲物を狩る獣の瞳で、動けない司へとじりじりと距離を詰めた。
――鉈が、ゆっくりと振り上げられる。
「この人形、どうして顔が無いかわかるかい?」
本宮が、鉈の先端で自身の『作品』を無機質に指し示した。
「集めたパーツ以外は、所詮『偽物』だからさ。僕は『本物の美』だけが欲しいんだ。だから、弄られていない純粋な部分だけを蒐集してきた。……だけど、誰も彼もが顔を作り替えていた。顔の本物だけは、なかなか見つからなかったんだよ」
じり、じりと、死神のような足取りで本宮が司へ歩み寄る。
司は、肌を刺すような死の予感に抗うように、グッと奥歯を噛み締めた。
「どうして……綾さんだけは、身体に傷をつけなかったの?」
「…………」
振り絞るように放たれた問いに、本宮の動きが一瞬止まった。
「愛していたから……でしょう? いかに怒りに震えたとはいえ、一度人生を共にしようとした女性を、残酷に解体することには躊躇いがあった。……違う?」
司の言葉に、本宮の眉間に深い亀裂が走る。
「あぁ、そうさ……。この鉈を叩き込んでやろうと思ったよ。けれど、これまでの綾との思い出が、どうしても頭をよぎって消えなかった。……だから、せめて、出来るだけ傷つけずに安らかに逝かせてやろうと思ったんだ」
「そんな気遣いができるなら……殺さなければよかったじゃない……!」
「うるさい……! 結果的に、綾は僕を騙していたんだ! 浄化するには、殺すしかなかったんだよ!!」
本宮が司の眼前に覆いかぶさる。
「さぁ、お喋りは終わりにしよう。その顔……どこも弄られていない、気高く、純粋で、美しいその顔を――僕に、頂戴」
「……っ!!」
司が絶望に瞳を閉じた、その瞬間。
「テメェこそ、お喋りは終わりだ。観念してお縄につけや、この狂い野郎!」
「いやいや……全部聞いたよ、本宮くん。君の悲しい独り言も、何もかもね」
夜の静寂を切り裂き、コンテナの入り口から二つの影が躍り出た。
「北条さん……! 虎太郎くん!!」
司の瞳に、希望の光が宿る。
そこには、息を切らしながらも鋭い眼光を放つ北条と、今にも本宮に飛びかからんとする虎太郎の姿があった。
「お前ら……っ。どうしてここが分かった……!」
この場所は自分だけの聖域、辿り着けるはずがない――本宮の顔に、初めて動揺の色が走る。
「犯行を隠したいなら、部屋の中にもう少し気を遣うべきだったね。申し訳ないけれど、君の部屋は……僕たちにとっては証拠とヒントの『宝箱』だったよ。現場をありのままに残すのが警察の仕事なら、それを暴くのが僕たちの仕事だ」
北条は、軽薄な笑みの奥に冷徹な勝利を滲ませて告げた。
「ただの風景写真が趣味なら、あそこまでプロ仕様の機材は揃えない。あのレンズのセット、ライティングの機材……あれは趣味の域を越えた『本職』の道具だ。プロのカメラマンとしてデータベースを洗えば、君の名前に辿り着くのは時間の問題だった」
北条は、手に持ったスマホを掲げて見せる。
「人物、経歴、かつての受賞歴、今の職業、交際関係……。ネットの海を漂うあらゆる断片が、悠真くんの手にかかれば一瞬で真実の絵を描き出す。それが……特務課の力さ」




