占拠事件
灰島は、一課で目の前の難事件と向き合いながら、たったひとりで「妹の事件」の灰をかき分け続けていた。
時効が成立し、もはや法では裁けない過去。
当時の捜査能力の限界だったのか、あるいは何らかの力が働いたのか。
証拠が何ひとつ出なかった不自然さに、彼の天才的な頭脳は警鐘を鳴らし続けていたのだ。
そして、北条と灰島がコンビを組んで一年が経とうとした、ある日のことだった。
「北条さん……。」
灰島が北条に声をかけた。
その顔は、まるで死人のように血の気が引いていた。
「どうした、ごはん食べてないの? 顔色が悪いよ」
北条は努めて明るく冗談を飛ばす。
だが、灰島は表情ひとつ変えず、ひどく冷めた声で言葉を紡いだ。
「やっと見つけたんです。犯人を……。」
「……妹さんの事件の、かい?」
「はい……。」
長年追い続けてきた執念が、ついに実を結んだ。
それは本来、彼にとっての救いになるはずだった。
しかし、目の前の灰島からは達成感など微塵も感じられない。
そこにあるのは、深淵を覗き込んだ者特有の絶望だった。
「ちょっと、場所を変えようか……。」
北条は察した。
灰島は、自分ひとりでは処理しきれない、恐ろしい事案に直面してしまったのだと。
北条は灰島の肩を支えるようにして歩き出そうとした。
しかし、無情にもその機会は奪われる。
『入電! 東京湾岸ビルで占拠事件発生! 犯人はビル最上階に立て籠もり、警察との交渉を要求。犯人グループは八人、武装している模様!』
事務所内に、現場への出動を促す怒号が響き渡った。
「……必ず話は聞くよ。僕も力になりたい。だから、今は切り替えてくれ」
「すみません……ありがとうございます。じゃあ、この事件が終わったら、僕の家に来ませんか? ゆっくり飲みながら話したいですし……司、あぁ、彼女のことも紹介したいので」
「お? ご馳走してくれるのかい。嬉しいねぇ! じゃあ尚更、さっさと事件を解決しないといけないね」
「……はい!」
この時のことを、北条は後に幾度となく後悔することになる。
もし、この瞬間に無理をしてでも話を聞いていたら。
もし、灰島の瞳の奥で揺らめいていた「決別」の光に気づけていたら……。
――――――――
到着した東京湾岸ビル周辺は、硝煙の匂いと重苦しい殺気に包まれていた。 壁を穿った弾痕。
粉々に砕け散った火炎瓶の残骸。
へし折られた角材。
そこには、法を超えた暴力の応酬があったことを物語る凄惨な風景が広がっていた。
「これはまた派手だねぇ……。それで、犯人は誰だい?」
北条は眉をひそめ、現場を封鎖していた警備担当に問う。
「はい、長らく潜伏していた麻薬密輸組織のようです。なんでも、取引中にこの界隈を仕切る極道組織とトラブルになり、そのまま抗争に発展したそうで……」
「となると、四課も合同だね?」
「はい、ビルの反対側に新堂刑事をはじめとする四課の精鋭が展開しています」
密輸組織と極道組織。
麻薬という欲望の果てに起きた血の抗争。
「一筋縄じゃ、いかなさそうだね……。」
北条の呟きに、灰島は答えなかった。
彼はただ、戦場となったビルの最上階を、獲物を狙う獣のような鋭い目で見つめていた。
その視線の先にあるのが「事件」なのか、それとも「別の何か」なのか、北条にはまだ知る由もなかった。
「……それで、警察との交渉って、犯人グループは何を要求しているんだろうね。」
「分かりません。ただ『警察と交渉させろ』の一点張りで……。我々が近づこうものなら、あのように火炎瓶や手榴弾で牽制してくるんです。」
「うーん、警察……。誰が出ていけば満足してくれるのか。君たちだって警察官だろう? でも、君たちではダメだという。じゃあ、僕が行ったところで同じことだよね。」
『警察と交渉する』
そのたった一言が、北条には解けないパズルのピースのように思えた。
目的が見えない。
ただ時間を稼いでいるのか、それとも特定の「誰か」を待っているのか。
「北条さん、相手の話に乗ってやる必要はねぇ! 奴らの死角から突入して、全員縛り上げてやればいいじゃねぇか!」
北条と灰島に同行していた稲取が、鼻息荒く北条に詰め寄る。
「まぁ、それも一理あるんだけどね……。でも、まずは犯人グループがどこの誰かをしっかりと見定めなければ。闇雲に突っ込んで火を吹かれるのは御免だ。」
北条のその言葉に、灰島の思考が鋭く反応する。
「確かに。通報では『抗争に発展した』と言っていました。しかし、その相手である暴力団組織はどうしたんです? 逃げた? いえ、極道が尻尾を巻いて逃げるのは最大の恥だ。メンツにかけても、ただ逃げる真似だけはしないはず……。」
「……100点だよ。戦うにしてもやられるにしても、この周辺に一人も暴力団関係者がいないのはおかしい。その捜索も同時に行うべきだね。」
消えた暴力団組織。
そして、ビルに立て籠もる犯人たちの不可解な沈黙。
北条と灰島は、現場に漂う異様な違和感に、目に見えない巨大な蜘蛛の巣を感じていた。
「とにかく、四課が合流したら両方の捜索を始めよう。あとは、ビルの中にいる犯人の特定だ。」
「……了解。」
「……おぅ、分かったよ。」
ほどなくして、現場に捜査四課が到着した。
「やぁ熊さん。相変わらず熊だねぇ……。」
「あぁん? 北条テメェ、喧嘩売ってんのか?」
パトカーから降りてきた、仕立てのいい派手なスーツに身を包んだ大男。
彼こそが捜査四課長、熊田 力。
暴力団関係者から死神のごとく恐れられ、『ヤクザ狩りの熊』の異名を持つ男だ。
「熊田さん、ここに来るまでに新たな情報は?」
稲取もまた、この男の実力を重々承知していた。
熊田は不確かな情報で現場を動かすような男ではない。
「……ねぇよ。だが、ここに『鬼神会』の奴らが絡んでるのは間違いねぇ。」
「……え」
熊田の放った言葉に、稲取が凍りつき、北条がゆっくりと振り返った。
「おやおや……まさかの鬼神会。だとしたら、警察官の数が足りないんじゃないかな?」
鬼神会。
それは関東の闇を牛耳る極道組織において、東の頂点に君臨する巨大勢力である。
他の組織が霞んで見えるほどの大団体が、このビル占拠事件の裏にいる。
北条の表情から余裕が消えた。
そして隣に立つ灰島の顔は、冷たい月光を浴びた石像のように、恐ろしいほどの静寂を湛えていた。




