組織の闇
逃げ去っていくFの背中を見送りながら、北条はあえて足を止めていた。
(まずは足元を固めることだ。黒幕一人を追って、残された爆弾や狂信的な部下たちに後ろを突かれるわけにはいかないからね)
北条は冷静だった。
Fのような劇場型犯罪者が最も好むのは、土壇場での「道連れ」だ。
周囲の安全が確保されない限り、深追いは最大の毒となる。
1階エントランスは、解放された人質と突入した警察部隊が入り乱れ、怒号と歓喜が混ざり合うカオスと化していた。
「捜査一課は避難誘導を最優先! 犯人グループの制圧はSITを中心に。敵は残り10名ほど、確実に仕留めなさい!」
司令室の司から、澱みのない指示が飛ぶ。
「了解!」
「オッケー!」
「俺も今着いた、加勢するぜ!」
古橋、あさみ、そしてバイクを飛ばして駆けつけた虎太郎の声が重なる。
だが、Fの息がかかった犯人グループもまた、ただの素人ではない。
SITの重装備を前にしても狼狽えず、標的を定めて格闘の構えをとる。
「へぇ……格闘であたしたちを圧倒して、その隙に逃走するつもり? ……ナメられたものね」
あさみが不敵に笑い、ポニーテールを揺らして地を蹴る。
「うっしゃぁ現着! お前ら全員、まとめてぶっ飛ばしてやる!」
虎太郎もまた、エントランスの喧騒の中に拳を突き出した。
「SIT各員、落ち着いてかかれ。――『各個制圧』だ!」
古橋の鋭い号令が飛ぶ。
それは単なる個人戦の推奨ではない。
二人がかり、三人がかりでも構わない、確実に、迅速に、一人ずつ自由を奪い、包囲網を狭めていくという、警察組織としての徹底した「効率」の追求。
「フェアじゃないなんて、あとで裁判所にでも言ってちょうだい。これが『警察』なのよ」 あさみが一人の男の腕を鮮やかに極め、床に叩き伏せる。
基本に忠実、かつ冷徹なまでの徹底。
SIT隊長・古橋の指揮は、都庁という巨大な城塞を確実に警察の手に取り戻していく。
「……さすがは古橋隊長ね。これで1階は詰んだわ」
司令室で戦況を見守っていた司が、短く息を吐き、鋭く命じた。
「北条さん、1階の安全は確保されました。Fの追跡を開始して! 虎太郎くんも後に続いて!」
「一人でも構わないんだけどね……了解」
「了解! おらっ、邪魔だ退けッ!」
北条は非常階段の重い扉を蹴破り、Fが消えた上層階へと足を踏み出す。
その後ろからは、格闘を終えたばかりの虎太郎が、アドレナリンを全開にして階段を一段飛ばしで駆け上がってきた。
逃亡者F。
彼が辿り着く最果ての地には、もはや救いの手などどこにもない。
「ひぃ、ひぃ……なんだって非常階段を『上る』羽目になるのか……。こういうのは普通、下に降りるために用意されてるものだろう?」
「知らねーよ、しょうがないだろ。Fの野郎が上に向かってんだから!」
非常階段を駆け上がる、北条と虎太郎。
ここで残酷なまでに響いてくるのが、北条のフィジカルの限界だ。
「虎……急いで行くから、先に行ってくれ。……心臓が止まりそうだ」
「そんなことだろうと思ったぜ。司令が俺を付けた意味が今分かったわ。早く来いよ、置いてくぞ!」
だいぶ疲れの溜まってきた北条を軽々と追い越し、虎太郎は重力など存在しないかのような速度で階段を蹴り上げていく。
「虎って……警察官じゃなくても、野生で活躍できたんじゃないかな……」
苦笑いを浮かべ、北条は自分なりの限界速度で、手すりを支えに階段を上がっていった。
「くっそ……どこまで逃げやがった、あの野郎……!」
北条を離してから数分、猛追を続けた虎太郎。
ついに、月明かりが差し込む最上階の展望台、その扉を蹴破った。
「……いたぞ!」
広大な展望台の最果て。
ガラス窓の向こうに広がる眠らない街・東京を背に、Fが立っていた。
「……はぁ、はぁ……。貴方は、北条さんの……」
「オヤジにしちゃ頑張ったじゃねーか。逃げ場はねぇぞ、F」
じりじりと距離を詰める虎太郎。
Fもそれに合わせて後ずさるが、その背中が冷たい強化ガラスに当たる。
もう、この場に逃げ道はない。
「北条さんは来ないのですか? だいぶ私に対してお怒りのご様子でしたが」
「北条さんは後から来る。察しろよ、同世代だろ?」
虎太郎は鋭い眼光でFを射抜く。
「……テメェら、いい加減にしろよ。人の命をなんだと思ってやがる」
「おぉ、怖い。まるで名前通り、虎のような視線だ。牙を剥き出しにした野獣そのものですね」
「はぐらかしてんじゃねぇ……ッ!」
虎太郎の足が、一歩、また一歩と床を鳴らす。
「人の命……そもそも、人間に等しく価値などあるのでしょうか? 世の中には、明確に『仕分ける』べき部類がいるとは思いませんか?」
Fの瞳には、虎太郎の熱い怒りとは正反対の、底知れない狂気が宿っていた。
「……なんだと?」
「貴方も見たでしょう? 私が仕掛けた『ゲーム』の結果を。許されるべき小さな罪を重ねる馬鹿者もいれば、己の欲求のためだけに取り返しのつかない大罪を犯す屑もいる。価値のない人間を、生かしておく理由はどこにあるのですか?」
「……テメェも、その屑の一人じゃねぇか!」
「私は……『仕分ける側』の人間なのですよ。いずれ訪れる『神の国』という選ばれし者の領域に、招くべき人間と、そうでない人間を振り分ける……いわば審判者だ」
両手を広げ、陶酔したように語るF。
「……で、そうじゃない人間を、ゴミみたいに殺してるってわけだな?」
「……簡単に言えば、そうです」
Fが、奈美が命を落としたあの銀行事件を「清掃」の一部であったかのように肯定した。
その瞬間、虎太郎の脳裏に、もう二度と見ることのできない奈美の笑顔が鮮明に浮かび、そして砕け散った。
「殺してやる……!!」
虎太郎の理性が、怒りの熱量で焼き切れた。
彼は人間であることを捨てた猛獣のごとき跳躍で、Fへと飛びかかった。
Fに掴みかかり、背後の強化ガラスへ叩きつけるように押し付ける虎太郎。
その腕は、怒りのあまり岩のように硬く強張っている。
「虎太郎くん! 抑えて!」
「おい脳筋! すぐにあたしが行くから、取り押さえるだけにしなさいよ!」
「虎太郎くん、冷静になって!」
無線越しに飛ぶ司、あさみ、志乃の制止。
しかし、猛獣と化した虎太郎の耳には届かない。
「勝手に『仕分け』だなんだと言ってるがな……。何の罪もない、何も知らない人たちだって死んでるんだ。これから先、もっと幸せになれるはずだった人たちまで、お前らは……!」
Fのシャツの襟を捻り上げ、首を絞めるように絞り上げる。
Fは小さく呻き声を漏らしながらも、陶酔したような笑みを消さない。
「……仕方のないことです。偉業を成すには、犠牲はつきもの。その犠牲を見て、人は己の生活を改め、心を入れ替え、生きるに相応しい人間へと成長していくのですよ」
「テメェらは……生きるに相応しい人間なのか?」
「……左様。この腐りきった日本を粛清し、新しく正しい国を作り直す。それを行うのは、新しい日本に相応しい我々という人間なのです」
Fはどこまでも、自らの狂気を正義と信じて疑わない。
「それが、『神の国』のやり方なんだな……?」
「少なくとも私はそう解釈しております。腐った国を壊す。それは『盟主』も仰っていたことですから」
「テメェらみたいなのがいるから……日本が腐っていくんじゃねぇか!!」
飄々と、まるで他人事のように語り続けるFに、虎太郎の怒りが沸点を超えた。
力一杯右拳を握り込み、Fの顎めがけて、渾身の力で振り下ろそうとしたその時。
「虎! 待つんだ!」
「……っ!?」
横から伸びた手が、虎太郎の腕を制した。
「ふぅ……ひぃ。全く疲れたよ。オジサンはもうヘトヘトなんだから、あんまり急がせないでほしいねぇ……」
ようやく展望台に辿り着いた北条だった。
肩で激しく息をしながらも、その眼差しには理性の色が灯っている。
「……おせぇよ、北条さん」
「ごめんごめん。全く、歳は取りたくないもんだよ」
北条は苦笑いを浮かべ、虎太郎の腕を掴むと、優しくFのシャツからその手を離すよう促した。
「なんだよ、一発くらい殴らせろよ」
「ほらー、またそうやってヤクザみたいなことを言う。僕が『はい、どうぞ』なんて言うわけないでしょ。ほら、離して」
「ちっ……」
北条に強く諌められ、虎太郎は不承不承ながら、掴んでいた手を離した。
「ゴホッ……ゴホッ。……賢明な判断です、北条刑事」
Fは首を押さえて数度咳き込んだが、すぐに襟元を整え、不敵な余裕を取り戻す。
「どうせ追い詰めるなら、徹底的に。暴力だけじゃなくてね、犯罪を起こしたことを心の底から『後悔』させてから逮捕しようじゃないか」
北条は虎太郎の肩を、励ますように、そして静めるように強めに叩くと、Fの正面に悠然と立った。月明かりに照らされた北条の眼鏡が、冷たく、知的な光を放つ。
ここから先は、武力ではなく、北条の真骨頂である「論理」による処刑が始まろうとしていた。
「F……あんた、もう手詰まりなんだよ。どこにも逃げ場はないし、これ以上愚かなことを続けたら、あんたが守ろうとした家族まで苦しむことになる。」
北条は声を荒らげることなく、静かに、諭すように告げた。
「今更、家族など……」
「いいや、あんたは家族にだけは迷惑をかけたくなかったはずだ。だからこそ徹底的に素性を隠し、自宅から遠く離れた東京に拠点を構え、さもこちらに根を張っているように見せかけた。……すべては、東北に残した家族へ火の粉が飛ばないための配慮だろう?」
「…………」
「そんな家族思いのあんたが、なぜこんな歪んだ組織に魂を売ったんだい?」
北条の瞳が、レンズ越しにFの心の奥底を射抜く。
Fの素性は、前回の事件以来、北条の手によって微細な破片まで繋ぎ合わされていた。
大手商社のエリート役職者。
模範的な市民。
だが、その仮面の裏側にあったのは、救いようのない虚無だった。
「警察は無能だと思っていましたが……。やれやれ、私の負けですね」
Fが大きく溜息を吐き、憑き物が落ちたように肩の力を抜いた。
「そう……私には、どこにも居場所がなかったのです」
夜風が展望台を吹き抜け、Fの独白が静かに始まった。
「役職者としての私には、相応の収入がありました。だから家族が物理的に離れていくことはなかった。しかし、心はすでに死んでいたのです。私は家庭という檻の中で、ただ金を運んでくるだけの『空気』に過ぎなかった。会話はなく、子供たちは汚物を見るように私を避け、妻は私の稼ぎで贅沢を貪りながら、私への感謝など欠片も持っていなかった」
「それでも……それが犯罪を犯していい理由にはならないよ」
「……それだけでは、ないのです」
Fは眼下に広がる都庁前広場を見下ろした。
赤色灯がうごめき、かつての同志たちが無様に連行されていく。
救急車に乗り込む人質たちの姿は、Fの「壮大な劇」がいかに無力だったかを物語っていた。
「会社でも同じでした。私の企画は同僚や部下に掠め取られ、私はただの『お飾り』として席に座らされていた。意見を言おうにも、組織全体が私の存在を疎んでいる……そんな冷たい空気の中で、私は呼吸の仕方も忘れてしまった。公私ともに、私は生きる意味を見失っていたのです。そんなある日……私はあの『神の国』のサイトに辿り着いた」
これまでの実行犯たちと同じ。
疎外感という名の闇に、甘い毒が注がれたのだ。
「そこには、私とは縁遠いと思っていた、眩いばかりの新しい世界が広がっていました。……『私が世界を変える』。『私だって人に影響を与えることができる』。……私にだって、誰かに必要とされ、尊敬される可能性があるのだと。もう、迷いはありませんでした」
悲痛な表情で語るF。
その姿は、冷酷なテロリストではなく、ただ「自分」を認めてほしかった一人の哀れな男の残骸だった。
「テメェの勝手で、平穏に暮らしてる人間が殺されてたまるか! ふざけるなよ!!」
怒りに震える虎太郎が再び詰め寄る。
だが、北条はその肩を強く、重く制した。
「今ここで彼に手を出したら……虎、君も同じ側に堕ちる。感情に任せて他人に危害を加えるのは、プロの仕事じゃない。ただの愚の骨頂だ」
「けどよ……ッ!」
「確かに、君は奈美ちゃんを奪われた。その恨みは計り知れないだろう。でもね、復讐に身を任せるのは、これまでに無慈悲な犯罪を重ねてきた『神の国』の連中と同じだ。君と奴らの決定的な違いは何だ? 君は刑事だ、虎。正義を守るのが、君の矜持だろう」
「くっ……!」
北条の言葉に、虎太郎は行き場を失った拳を空へと叩きつけた。
激しい風切り音が展望台に虚しく響く。
「……さて、F。君の話は十分に聞いたよ。だが、君の孤独がどんなに深くとも、犯した罪が消えるわけじゃない。君がすべきは、静かに罪を償うことだ。ここで……君を逮捕する」
北条は腰のホルダーから、銀色に光る手錠を取り出した。
だが、Fは冷たい月光を浴びながら、小さく首を振った。
「……それは、無理な話ですよ、北条刑事」
その声には、敗北者とは思えない不気味な響きがあった。
「ここで大人しく逮捕されたら、これまで捕まった情けない実行犯たちと同類になってしまう。私はまだ、終わっていない。要求も呑ませておらず、警察に致命的な打撃も与えていない。幕引きには、まだ早い」
Fが素早くスーツの懐に手を滑り込ませた。
「北条さん、危ない!!」
野性的な直感で動いた虎太郎が、力任せに北条を自分の方へと引き寄せた。 次の瞬間、Fの手から霧状の液体が噴霧される。
「催涙スプレーか!?」
「あいたた……」
虎太郎の迅速な判断により、噴霧された液体は空を切り、二人の横を通り過ぎた。
しかし、Fの狙いは目潰しそのものではなかった。
一瞬の隙。
北条が目の前から退いたことで、展望台の奥へと続く唯一の道が開いた。
Fは迷うことなく走り出す。
「野郎……! 逃がすか! でもそっちは行き止まりだぜ!」
虎太郎が叫ぶ。
Fが逃げ込んだのは、メンテナンス用の狭い足場。
突き当たりは地上200メートル以上の断崖絶壁だ。
「私はこんなところで、終わるわけにはいかない……招かれるべき場所へ行くのです!」
必死に、狂気すら感じさせる足取りで突き当たりへ向かうF。
その時、志乃の緊迫した無線が飛び込んできた。
『虎太郎くん! 展望台に向かって、未確認のヘリが一機急接近してる!!』
その言葉と同時に、夜の静寂を切り裂くローター音が鼓膜を震わせた。
展望台のすぐ外でホバリングを開始したヘリ。
そこには、漆黒の装備に身を包んだ二人の男が乗っていた。
「くそ……仲間の迎えかよ……!」
だが、虎太郎は目を見開いた。
ヘリに乗った男の一人が、救助のロープではなく、巨大な銃器を構えたからだ。
銃口は、逃げるFではなく、展望台に立つ北条と虎太郎に向けられている。
「まさか……『狙撃手』か……!?」
虎太郎の背筋に、凍りつくような悪寒が走った。
Fの逃亡を助けるためではない。
彼らは、ここで全てを「抹消」するつもりなのだ。
「虎、物陰に隠れろ!……あの男が、あの時の狙撃手だ!」
背後にいた北条の声が、無線のノイズを突き抜けて虎太郎の鼓膜を叩く。
北条の脳裏には、執務室の冷たい空気の中で見た、あの無口な男の姿が焼き付いていた。
「やっぱり、彼が……」
バスジャック事件の際、香川を瞬時に「消した」死神。
元特殊部隊のあさみですら驚愕した、物理法則を無視するかのような超長距離狙撃スキル。
その銃口が今、月明かりの下、遮蔽物の乏しい展望台の虎太郎を正確に捉えている。
「虎、この際Fの確保は諦めていい! 完全に物陰に隠れた状態を維持して、中に避難するんだ! ヘリの旋回に合わせて死角が変わる、動きに注意しろ!」
北条は瞬時に切り替えた。
執着していたFの逮捕よりも、今この場にいる仲間の命。
それが彼にとっての「正義」だった。
「くっそー! あと少しなのに……!」
Fまでは20メートル足らず。
だが、身を隠せる柱まではわずか2メートル。
たった3歩の距離が、地獄の入口へと続く無限の荒野のように感じられた。
「北条さん! 筋肉バカ!」
その時、後方からあさみが滑り込んできた。
彼女は遮蔽物の影から、ホバリングするヘリに乗った男を視認した。
(ヘリの振動を受けているのに、狙撃姿勢が微塵もぶれない……。化け物ね……!)
あさみは一瞬で悟った。
これは「技術」の次元を超えた何かだと。
「……北条さんの指示通りに動いて。あたしたちが全員無事に帰る唯一の方法は、あいつの射線に指先一本入れないことよ」
「お前まで……!」
あさみの言葉が、虎太郎の焦りに冷水を浴びせた。
この状況は、根性や格闘センスでどうにかなる相手ではない。
「って言っても……扉を開けるときは、どうしても体が晒される……」
どんな小さな的でも逃さない狙撃手だ。
扉のレバーを掴もうとするその瞬間、虎太郎の手首は撃ち抜かれるだろう。
「北条さん、あさみ……先に逃げろ。俺がここで囮になって引きつける。奴らがFを回収して撤収するまで、俺が物陰でやり過ごして時間を稼ぐ」
「何を言ってるの、危険よ!」
「どのみち全員詰んでるんだ。それなら、3人やられるより、2人が確実に生き残る方法を選ぶのが特務課のやり方だろ」
虎太郎の瞳から、直情的な怒りが消え、静かな覚悟が宿る。
自分が狙撃手の視線を釘付けにしている間に、射程外にいる二人が避難する。それは自己犠牲ではなく、最善の戦術だった。
ヘリのローター音が、死のカウントダウンのように響く。
「俺が合図したら……迷わず走れ」
虎太郎が膝に力を溜める。
月光の下、銀色の弾丸が放たれるまでの、あまりにも短い、静寂の時間。
「3、2、1……」
虎太郎は、背後の二人にだけ見えるよう指を折り、極限まで研ぎ澄まされた集中力で周囲を走査する。
幸運だった。
ここはメンテナンス用の外通路だ。
従業員の使い勝手を優先し、無造作に置かれた用具が点在している。
「……0!!」
叫びと同時に、虎太郎は隅の脚立を力任せに蹴り立てた。
ガシャンと派手な音を立てて倒れる脚立。
ヘリの狙撃手の銃口が、一瞬だけそちらへブレた。
「今だ!」
合図を受け、北条とあさみが非常階段の重い扉へと脱兎のごとく駆け出す。
だが、狙撃手は即座に獲物を捕捉し直そうとし――。
「……え?」
あさみの足が止まった。
プロとしての直感が、不可解な「違和感」を捉えたからだ。
「おい! 隠れろってんだよ!」
虎太郎が喉を引き裂かんばかりに叫ぶ。
しかし、あさみは動かない。
「あたしたち……狙われてない……?」
その言葉通り、狙撃手のライフルが描く殺意の軌跡は、北条でも、あさみでも、虎太郎でもなかった。その銃口が向く先は――。
ーーータンッーーー
乾いた、あまりにも無機質な一撃。
次の瞬間、通路の最果てでヘリを待っていたFが、言葉すら遺す暇もなく仰向けに倒れ伏した。
「仲間が……狙いだと……!?」
信じがたい光景に、三人は言葉を失う。
助けに来たはずのヘリ。
信じていたはずの組織。
それがFという「駒」を、いとも容易く切り捨てた。
『……みんな、まだ終わってないわ! 全員、即座に身を隠して!』
呆然とする三人の耳に、司の峻烈な号令が響く。
弾かれたように、それぞれが柱の陰へと身を沈めた。
(…………ん?)
物陰からヘリを睨みつけた虎太郎は、異様な光景に気づく。
機内にいるのは、操縦士と狙撃手だけではない。
狙撃手の後方。
漆黒のスーツを纏った男が、まるで劇場の特等席にでもいるかのように優雅に足を組み、座っていた。
「悠真……ヘリの中、映せるか?」
『え……? やってみる!』
悠真の操作により、特務課のモニターにヘリ内部の不鮮明な画像が映し出される。
男は去り際、展望台を見下ろして何かを口にしていた。
「あいつ……何か言ってたぞ……」
ゆっくりと旋回し、夜の闇へと溶けていくヘリコプター。
Fの「物語」は組織の手によって完結させられた。
結局、あの狙撃手も、その背後にいる者たちも、指一本触れられないまま消え去ったのだ。
「……行ったみたいだな」
虎太郎が大きく息を吐き出すと、扉付近から北条とあさみが駆け寄ってきた。
「虎、怪我はないかい?」
「全く、無茶するんだから!」
「ああ、俺は何ともねぇ。でも……」
虎太郎の視線が、通路の先に釘付けになる。
そこには、月光に照らされて無造作に横たわるFの死体があった。
三人が歩み寄り、その顔を覗き込む。
「……即死だね」
「一発かよ……冗談じゃねえ」
「揺れるヘリから、こうも的確に眉間を撃ち抜くなんて。神業というより、もはや呪いの類よ……」
つい数分前まで、壮大な計画を誇らしげに語っていた男。
そのプライドごと一瞬で無に帰した組織の冷酷さに、特務課の面々は言葉を失い、ただ夜風に吹かれて立ち尽くしていた。
「こちら北条。一階エントランスの犯人グループは全員逮捕。首謀者Fこと藤井義彦は、組織の構成員により射殺……。都庁ジャック事件、これにて解決だね」
ヘリの轟音が遠ざかり、都庁上空には冷ややかな静寂が戻ってきた。
閉ざされていた入口からは、赤色灯の光と共に刑事たちが次々と雪崩れ込み、各階で慌ただしく現場検証が始まる。
「こちら辰川。執務室で爆弾を見つけたぜ。なかなかの破壊力を持つプラスチック爆弾だ。造りは単純だが、電波受信装置が組み込まれてる。リモコン式だな」
辰川が爆弾の解除を完了した報告を入れる。
「了解。爆弾処理班を急行させます。各員、起爆用のリモコンを捜索……」
「……あったぜ。リモコンはFのスーツの内ポケットだ」
志乃の指示を遮るように、虎太郎が無線で答えた。
横たわるFの傍らには、すでに鑑識が到着している。
「死因は眉間を貫通した銃弾一発。間違いなく即死です」
鑑識の淡々とした報告が、先ほどの神業じみた狙撃を裏付ける。
「あぁ……目の前で見た俺でも、まだ信じられねぇけどな」
「Fはどのタイミングで爆弾を起爆させるつもりだったのかしら」
虎太郎とあさみが、顔を見合わせる。
「彼のことだ。ヘリに乗り込み、去り際にスイッチを押して高みの見物を決め込むつもりだったんだろうね。まさか、自分がそのヘリに消されるなんて、夢にも思っていなかっただろう……」
都庁を、そして人々の運命を完全に掌握していたと信じていたF。
彼の壮大な「三文芝居」は、たった一つの綻び――信じていた組織からの切り捨てによって、あまりにも呆気なく幕を閉じた。
「……でもよ、この事件。決め手は何だったんだ?」
不意に虎太郎が呟いた。
「北条さんが乗り込んだことか? それとも俺たちが突入して追い詰めたことか? ……なんつーか、しっくり来ねぇんだよな。俺たちの力で勝ったっていう実感がさ」
現場で泥を啜り、犯人を力でねじ伏せる捜査を信条とする虎太郎にとって、今回の事件に漂う違和感は拭い去れなかった。
「お膳立てされたっつーか、誰かの台本通りに動かされたような……」
「何わけわかんないこと言ってるの。……確かにスピード解決だったけどさ」
首を傾げる二人に対し、北条は柔らかな笑みを浮かべた。
「うん、その答えは……きっと司ちゃんと志乃ちゃんだね」
「え?」
「あらかじめこの事態を予見して潜入捜査官を配置していた司ちゃんと、的確に情報を処理して無駄のない突入と避難を指示した志乃ちゃん。あの二人が、今回はFよりも数段上手だったということさ。結局、Fは彼女たちの掌の上で踊らされていたんだよ」
「マジか……」
この事件に最初から存在した、Fすら気づかなかった「小さな穴」。
司はいち早くそれを見つけて網を張り、志乃はその網を確実に、そして冷徹に絞り上げた。
「全く……うちの課には、恐ろしい子がたくさんいるよ。オジサンはついていくのが精一杯だ」
北条はそう言って、夜明けが近い空を見上げた。
事件は終わった。だが、ヘリの中にいた「黒いスーツの男」の影、そしてFを葬ったあの狙撃手。
特務課の戦いは、まだ始まったばかりであることを、彼らは予感していた。




