アイギス
「そろそろ、頃合いね……」
長期戦を覚悟した都庁ジャック事件。
自身も最前線で指揮を執りながら、あえてFの掌の上で踊っているように見せかけ、その実、一撃で喉元を食い破る反撃のチャンスを静かに、そして鋭くうかがっていた者がいた。
「志乃さん、そろそろ仕掛けるわ。『彼ら』に合図を」
「了解しました。……発信します」
特務課司令・司。
彼女の瞳には、勝利を確信した冷徹な光が宿っていた。
「スパイの存在……それがあなたたちの専売特許だと思ったら大間違いよ。警察には古来より、伝統的な『潜入捜査』という技術があるのよ……」
「都庁内のSIT各員に通達。『合図』が出ました。至急、退路の確保と制圧を開始せよ!」
この『隠された作戦』を事前に共有されていたのは、志乃ただ一人。
「都庁解放作戦を決行します。各自、自身の身の安全確保を最優先に! 古橋隊長は中の隊員と即座に合流、現場指揮を執ってください!」
志乃の指がキーボードを叩き、暗号化された信号が都庁内部へと飛ぶ。
「都庁……解放作戦だって?」
「なにそれ、私聞いてない……!」
「僕もだ。そんな作戦が水面下で動いていたなんて……」
無線越しに、虎太郎、あさみ、悠真が驚愕の声を上げる。
司は志乃以外の誰にも、このカードを明かしていなかった。
北条が独断で都庁に乗り込んだのは誤算だったが、それでも、この作戦を完遂するための好材料へと変えてみせたのだ。
「あまり多くの人に共有すると、何かの拍子に情報が漏れる懸念があったの。ごめんなさいね。あなたたちを信じていないわけではないのだけれど」
司が申し訳なさそうに、しかし凛とした声でメンバーに告げる。
「ま、確かに。犯人グループにハッカーがいる以上、無線を傍受されるリスクは常にあったからね。納得だよ」
「……で、司令。この作戦、どこまで準備が進んでるんだ?」
虎太郎が身を乗り出す。
気になるのは、司がいつ、どこに『棘』を仕込んだのかだ。
「犯人グループは総勢15人ほど。意外と少なかったわ。徹底的に支配下に置くために、Fの性格ならそのくらいの人数が扱いやすいはずよ。……その中の5人を、事前に『すり替えた』わ」
「すり替えた……!?」
「先日のバスジャック事件、人質の受け渡し場所は都庁だった。あの時、Fは下見を兼ねていたはず。本体がいつ来るかまでは予見できなかったけれど、念のため、5人体制でSITの精鋭に『犯人グループの予備軍』として潜り込ませ、周辺で待機させていたの。案の定、Fの組織が都庁をジャックする直前の人員増強のタイミングで、彼らが潜り込むことに成功したわ」
「すげぇ……」
「そこまで読んでいたのか、司さんは……」
圧倒的な先読み。
だが、あさみがふと、核心を突く疑問を呈した。
「……でも、それなら都庁ジャック自体を未然に防ぐこともできたんじゃない?」
その問いに、司は一瞬だけ表情を曇らせ、それから静かに首を振った。
「いいえ。未然に防げば、Fという『毒の根源』は再び闇に逃げ、次の犠牲者を生むだけ。……彼を一網打尽にし、組織の全容を暴くためには、この都庁という巨大な密室に彼をおびき寄せ、すべての罪を確定させる必要があったの。……残酷な選択だったかもしれないけれど」
司令室に、重く、しかし熱い沈黙が流れる。
「さあ、反撃よ。北条さん、あさみ、虎太郎くん。内側から扉は開くわ。……『掃除』を始めなさい!」
「さすがに、そこまでは予見できなかったわ。『狙撃手』はおそらく現れるだろうとは思っていたけれど。一度位置関係を把握したこの場所は、プロにとって絶好の狙撃ポイントだから。でも、私の予見はそこまで。具体的な日時や、主導者が誰なのかまでは分からなかったの」
司は落ち着いた口調で、メンバーたちの問いに応えていく。
「Fが現れることも……」
「ええ。正直、想定外だったわ。同じ立て籠もり事件で一度失敗しているFを、組織が再び使うとは思っていなかった。それに、プライドの高い彼のことだから、失敗を責められる屈辱を味わうくらいなら、二度と表舞台には出てこないだろうとも踏んでいたのだけれど」
司の言葉を聞きながら、メンバーたちの胸には共通の想いが去来していた。
「それにしても、そこまで想定して動いていたことがすげぇよ。5人もスパイを潜り込ませてるなら、今すぐ都庁を解放できるじゃないか……!」
「ええ、最小限の被害で済むはずよ!」
司の分析能力、そして常に二手三手先を読む予見の力。
特務課が警視庁内で異彩を放ち、一目置かれている理由は、この司令塔の徹底した準備と覚悟にあるのだ。
「でも……それではダメなのよ」
司の声が、ふっと重みを増した。
「そこまで根回しをしても、ですか?」
「そう。『必要最小限』の被害では、私たちは負けなの。特務課が目指すべきは、人質を一人残らず無傷で救い出す『被害ゼロ』。それ以外に成功はないわ」
「……ひゅぅ♪」
無線越しに、北条が感心したように小さく口笛を吹いた。
「でも、司ちゃんはそれだけでは納得しない。……だよね?」
「ええ。人質だけじゃない。捜査にあたるあなたたちも、全員無傷で、生きて帰らなければならない。それが私の絶対条件よ」
司が作戦決行のタイミングを慎重に見計らっていた真の理由。
それは、人質の安全だけでなく、部下であるメンバー一人一人の命を、確実につなぎ止めるための算段を固めていたからだった。
「ま、我が特務課の司令がそう言ってるんだ。部下の僕らは、死ぬ気で『死なない』任務に当たらないといけないねぇ。まずは各自、生存を最優先に動こうじゃないか」
北条の言葉を皮切りに、力強い返答が重なっていく。
「了解!」
「了解」
「はいよ!」
「オッケー!」
「同時突入の合図は私が出します。潜入している5人の捜査官たちとも同期は取れているわ。それぞれ、指定の突入口へ向かって」
「じゃ、俺は正面玄関から行かせてもらうかね」
辰川がどっしりと構え、爆弾処理キットを肩にかけ直す。
「あたしはこのまま、外壁を伝って執務室へ潜入するわ。窓の隙間、見逃さないから」
あさみの声には、獲物を狙う豹のような鋭さが戻っていた。
「俺は山を下りる分、少し遅れそうだが……正面玄関で辰さんと合流するぜ!」
虎太郎がバイクのエンジンを再び唸らせる。
特務課の全戦力が、都庁という巨大な城塞を包囲し、内と外から牙を剥こうとしていた。
司の指先が、突入のボタンにかかる。
「作戦名……『アイギス』。全員、生きて会いましょう。――突入開始!」
「じゃ、僕はまた単独行動をさせて貰うことにするよ。」
人質三人を無事に外へ送り出し、彼らが待ち構えていた刑事に無様に逮捕される様を見送り、そして魂の抜け殻のようになった大山部長を安全な場所まで連れ出した北条が、静かに、だが鋼のような決意を込めて無線を飛ばす。
「おい北条さん、大丈夫だろうな?」
あまり聞き慣れない「単独行動」という言葉に、山を下りる虎太郎が不安げに問い返す。
「勿論さ。僕は必ず、Fとその仲間たちを今夜のうちに逮捕するよ。その前に……Fには教えておかなければならない。人間の命を弄ぶということが、どれほど恐ろしいことなのかをね」
北条の声は、微かに、だが確かに怒りに震えていた。
目の前で、善良な市民が殺人未遂を犯してしまうほどに心を壊される様を見せつけられた。
人の些細な罪悪感や出来心を巧みに操り、人質たちが社会的に二度と戻ってこれないような状況を作り出したFの邪悪さ。
さらに死刑囚の釈放を要求し、無関係な市民に再び恐怖と混乱を撒き散らそうとしている。
「思う存分、味わってもらうと思うよ。こっちだって、ただ時間を無駄に過ごした訳じゃない。言ったよね? 『僕は、納得の行かない事件のことは徹底的に調べる』って」
大山の事件も、かつての連続暴行事件が完全に解決していないという違和感から独自に調査を続けていた。
その執念が、皮肉にも今回の巨大な事件の核心へと繋がり、最悪の形ではあったが大山を「娘」の元へ導くことになった。
そして、北条が納得していない事件はこれだけではない。
事件を解決させたかのように偽装し、自らの仲間さえも切り捨てたあの銀行立て籠もり事件。
あの時から、北条の視線はずっとFの影を追い続けていたのだ。
「さて……どうすれば僕、虎みたいな迫力のある交渉が出来るだろうか。いや、この際、交渉なんて必要ないのかもしれないけれど」
ふっと自嘲気味に笑い、北条が必死に言葉を探す。
「お、おい……やっぱり、俺たちがちゃんと突入するまで待ってろよ!」
「虎、決め台詞とか、無いの?」
「あるか、そんなもん!」
「残念だなぁ。じゃあ、僕なりのやり方を一生懸命考えることにするよ」
北条が通話を切ろうとした、その時。
「……北条さん」
司の声が、まるですべてを見透かしているかのように、静かに北条を呼び止めた。
「……ん?」
「『あのとき』とは違います。私たちは今、上司と部下ではなく……『同僚』ですから」
傍目には何のことか分からない、断片的な言葉。
しかし、その一言は北条の胸に温かく、そして深く届いた。
かつての事件で、司が部下として彼を支えきれなかったという後悔。
そして今は、共に背中を預け合う対等なパートナーであるという信頼。
「……うん。ありがとう司ちゃん。大丈夫さ。僕だって『あのとき』と比べたら、十分歳を取ったからね。無茶はしないと約束するよ」
「わかりました」
年の離れた二人が、なぜこの僅かな言葉で通じ合えたのか。
特務課の面々には分からずとも、司の言葉が北条の心に「余裕」という名の最強の武装を施したのは間違いなかった。
北条は通信を切ると、スタイリッシュなコートの襟を立て、防火シャッターの向こう側――Fが待ち構える闇の深淵へと、優雅に、だが確実に踏み出した。
「……ふん、なるほどね」
北条は物陰で小さく、だが確信に満ちた笑みを漏らした。
今、目の前で行われたやり取り。そして自分を制止したあの鮮やかな仕草――。
(「専門」か。……司ちゃん、君の仕込みは完璧だよ)
あの5人だ。
司が事前に送り込んだという、SITの潜入捜査官たち。
彼らはさりげなく仲間割れや疲労を装いながら、他の犯人グループから銃を預かり、弾を「補充」すると言った。
その実、彼らの手によって銃器は一時的に無力化されるか、あるいは肝心な時に不発となるよう細工されるだろう。
「サムアップとはね……。古橋さんの部下も、なかなか粋なことをする」
北条はエントランスの状況を再確認した。
一色知事は、冷たい床に座り込む職員たちに声をかけ、自分は一歩も動かずに「盾」となってそこに立っている。
(知事、あなたのその気高さが、僕らに勇気をくれる。……さて、主役が動く前に、僕も僕の「交渉」の準備を整えるとしようか)
北条は気配を殺し、Fが去っていった奥の階段へと視線を向けた。
あさみは執務室の外壁で牙を研ぎ、虎太郎と辰川は正面玄関で嵐の前の静けさを守っている。
そして内側には、信頼すべき5人の「影」がいる。
「志乃ちゃん、聞こえるかい。エントランスの5人は『当たり』だ。彼らが武器の無力化を開始した。突入のタイミング、最高のものを選んでくれ」
『了解です、北条さん。全フロアのセンサーを同期させました。……司さん、いつでも行けます』
司令室の司が、モニター越しに深く頷くのが見えた気がした。
「……F。君は『最後の晩餐』と言ったけれど、残念ながらデザートを食べる時間はなさそうだ。この都庁を覆う鉄のカーテンを、今から僕たちが引きちぎってあげるよ」
北条は、犯人グループが去ったばかりの広大な空間を、音もなく横切った。 彼の向かう先には、自分を天才だと信じて疑わない、孤独な独裁者が待っている。
特務課の反撃――作戦「アイギス」が、音もなく、しかし致命的な速度でその爪を立て始めた。




