想定内の『予想外』
一方、北条は解放された人質三人の背後を、影のように追っていた。
(ここまで探しても、大山さんは居なかった。だとしたら、考えられる可能性はただ一つ。油断した人質たちが「自由」を感じる、出口までの道筋だ!)
上層階へと向かっていた自身の推測を、北条は即座に修正した。
(彼は、五年もの間、静かに娘の帰りを信じ続けてきた忍耐強い人だ。短絡的な正面突破など選ぶはずがない。僕の読みが甘かった……!)
北条は自らの失策を苦く噛み締める。
大山新という男が抱える、静かすぎる怒りの深さを読み違えていた。
(絶望の淵で娘の死を知らされ、それでも今この瞬間まで姿を見せない大山さん。彼が、あいつらと対峙した時、何が起こる……?)
長年育て続けた「希望」を無惨に踏みにじられ、残ったのは黒く澱んだ「殺意」のみ。
北条は大山がどの地点で三人と接触するのか、神経を研ぎ澄ませて周囲を走査する。
三人は非常階段を駆け下り、二階の広いホールへと躍り出た。
(馬鹿な。正面玄関以外はすべて犯人グループが押さえている。戻らざるを得ないはずだ。そこを……狙う気か!)
北条が三人の引き返す軌跡を予測した、その時だった。
「娘を……返せッ!!」
空間を切り裂くような慟哭と共に、一人の男が躍り出た。
「大山さん!?」
北条は狼狽え、視線を走らせる。
そこにはメンテナンス業者用の、普段は人目に触れない点検口が無残に開け放たれていた。
「くっ、盲点だった! 大山さん、やめるんだ! あなたまで血に染まる必要はない!」
北条は必死に地を蹴った。
だが、その距離は、絶望に突き動かされた父親の執念に半歩届かなかった。
大山の振り下ろした千枚通しが、銀色の軌跡を描き、逃げ惑う男の一人をとらえる。
「ぎぃ、あぁぁぁ!!」
無慈悲な一撃が男の太腿を貫いた。
男は噴き出す鮮血と共に床を転げ回り、無様に悲鳴を上げる。
「なんてことを……!」
北条はすぐさま大山に取り押さえにかかる。
しかし、大山の身体からは、普段の物静かな印象からは想像もつかないような、獣じみた怪力が噴き出していた。
北条は激しく振り払われる。
「返せ! 娘を返せぇぇーー!!」
千枚通しを奪い取ろうにも、大山の握力は鋼鉄のように固く、手から離れない。
(くっ……虎なら一瞬で組み伏せられるんだろうけど……僕の筋力じゃ厳しいな!)
負傷者が出た。
状況は「救出」から「惨劇」へと変貌しつつある。
北条の端正な顔に、珍しく焦りの色が濃く滲んだ。
北条を振り払い、凄まじい執念で男たちへと一歩ずつ迫る大山。
その姿はもはや温厚な都庁職員ではなく、地獄から這い出した修羅のようだった。
「大山さん、落ち着くんだ! 今、感情に任せて彼らを傷つけても、あなたのためにならない!」
「みさきが……娘が帰ってこないなら、もう私に失うものなどない! それなら、いっそこの三人の息の根を止めてやる……! 娘がどれほど苦しみ、絶望したか、その命をもって味わうがいい……!」
食いしばった歯が欠け、口端からは紅い血が滴り落ちる。
それでも大山は、三人の罪人に向かっていった。
「ひぃぃ……やめろ! 来るな!」
「許してくれ、金ならいくらでも払うから!」
口々に無様な命乞いを繰り返す男たち。
しかし、大山の歩みは止まらない。
「お前たちも、嫌がるみさきを辱めたんだろう! 『やめて』というあの子を……!」
「頼む! なんでも言うことを聞くから……!」
男の一人が放ったその言葉に、不意に大山の動きが止まった。
「なんでも……?」
「ああ! なんでも言ってくれ! それで罪滅ぼしになるなら!」
「わかった……」
大山の身体から、ふっと力が抜ける。
北条はそれを見て、ようやく理性が戻ったのかと一瞬の安堵を覚えた。
しかし――。
「じゃあ、あの世で三人、みさきに土下座して謝ってくれ」
冷酷な宣告と共に、大山は再び獣となって躍り出た。
二度、三度と鋭い千枚通しが空を切り、銀色の閃光が走る。
「ぎゃあああ!!」
「やめて! 痛い、痛いぃぃ!!」
急所を狙い振り下ろされる刃。
それを防ごうとした男の腕を、掌を、容赦なく鋼鉄の針が貫いていく。
血飛沫がホールを汚し、男たちの悲鳴が反響した。
(これじゃあ、時間の問題だ……!)
言葉での制止はもはや不可能。
そう直感した北条は、大山の懐に深く踏み込むと、全体重を乗せた背負い投げで彼を床に沈め、そのまま完璧な関節技で拘束した。
「大山さん、落ち着いて! あなたまで殺人に手を染める必要はない! みさきさんは、そんな血塗られた結末を望んではいないはずだ!!」
耳元で諭すように、北条は魂を込めて叫んだ。
その慟哭に近い声が届いたのか、大山の身体から、ついに完全に力が抜けた。
「……あの日……」
沈黙が数秒、ホールを支配した。
大山は溢れる涙を拭おうともせず、床を見つめたまま当時の記憶を絞り出した。
「あの日は……私の誕生日だったんです。みさきは『夕食は豪華なものを作るね』と言って、買い物に出かけて……そのまま……。怖かっただろう、辛かっただろう……!」
ついにその場に突っ伏し、男泣きに声を上げて泣き崩れる大山。
一方、九死に一生を得た三人の男たちは、醜く安堵の息を漏らした。
「う、うぅ……助かった……!」
「刑事さん、早く、救急車を……!」
「早く帰りたいよ……!」
そんな三人に、北条は氷点下の眼差しを向けた。
「救急車は必要ない。これから君たちには警視庁に来てもらう。……全員、逮捕だ」
「そ、そんな……」
「君たちのやったことは、決して許されることではない。絶対に逃がさないよ。残りの人生をすべて使ってでも、償ってもらう」
項垂れる男たちを見下ろしながら、北条の胸の内には黒い怒りが渦巻いていた。
(こんなやるせない気持ちは久しぶりだ。……許さないよ、F……!)
人の親の心を弄び、悲劇をエンターテインメントに仕立て上げた悪魔。
こんな下らないゲームは、今この瞬間、僕が即刻終わらせてやる。
北条は通信機のスイッチを入れ、冷徹なプロの顔に戻った。
「司さん、突入の準備を。……ターゲットをF、そして狙撃手に絞る。これより、特務課の反撃を開始する」




