F
以前の銀行立て籠もり事件の主犯・Fによる、都庁ジャック。
特務課が対応に追われるうちに、空は茜色から濃紺へと沈み、新宿のビル群が冷たい光を放ち始めた。
「まずいわね……。人質にとっては、夜という時間帯が一番精神的な負担が大きいのよ」
窓から暮れゆく街を見つめ、あさみが低く呟く。
「夜なんだから、みんな眠るんじゃないの? 朝が来れば事件解決!……ってなれば、人質にはむしろいいことなんじゃ?」
悠真が、険しい表情のあさみに無邪気な問いを投げかける。
「馬鹿ねあんた……。いつ自分が殺されるかわからない状況で、枕を高くして眠れるわけないでしょ? 普段なら夕食や入浴でリラックスしている時間、常に銃口を意識しなきゃならない。そのストレス、想像してみなさいよ」
「う……それはやっぱり、キツいかも……」
「そうでしょ。だから、夜間の立て籠もりは早期解決が急務なの。暗闇は恐怖を増幅させるから」
「でもさ、それは犯人側も同じでしょ? いつ突入されるか判らない緊張感を、暗闇の中で保ち続けなきゃいけないんだから」
「ええ。だからこそ、互いに下手な手は打てない。夜の立て籠りは、神経を削り合う最高難度のチェスなのよ……」
あさみが夜間作戦のリスクを説明していた、その時だった。
「皆さん!」
志乃が、モニターの端に「何か」を捉え、鋭い声を上げた。
「どうしたの?」
「都庁前の、あの人影……見てください!」
志乃が指し示した先――。
街灯の下、一台のタクシーから降り立ち、大きなシルバーのスーツケースを引いて歩く男がいた。
北条だ。
「北条さん……」
虎太郎が固唾を呑んで、その孤独な背中を見守る。
「おい悠真、中の様子は見られねぇのかよ!」
「そう簡単に言ってくれるけどさー、相手は都庁だよ? 簡単にハッキングさせてくれるわけないじゃん!」
文句を言いながらも、悠真の指は鍵盤の上を音速で踊っていた。
彼はすでに都庁のインフラへと深く潜入していた。
「……まぁ、一筋縄じゃいかなかったけどね。骨を折りながら潜り込んだよ、僕は」
小気味良い音を立てて、悠真がエンターキーを弾くように叩いた。
すると、ノイズ混じりの音声が司令室に流れ出す。
『……おいおい、本当に来たぜ、あの刑事』
『中に入ったら、すぐに消すか?』
『いや、「F」さんの意向だ。執務室に連れていって、知事と一緒に監禁しろ』
画像こそ映らないが、犯人たちの生々しい会話がスピーカーを通じて響いてくる。
「……どうやったの、これ?」
「日本はクリーンな国だと思われてるけど、その水面下じゃ真っ黒な争いが起きてるんだよ。警備がどれだけ厳重でも、気づかれずに盗聴器を仕掛ける……それがスパイの実力ってやつさ」
悠真は、都庁内部に仕掛けられていた「古い盗聴器」の周波数を逆探知し、傍受することに成功していた。
「北条さん……あんた、そのスーツケースに何を仕込んでやがるんだ……」
虎太郎は、モニターの中で都庁の巨大なゲートに飲み込まれていく相棒の姿を、祈るような目で見つめ続けた。
「……ここだ、入れ」
「はいはい。……そんな物騒なもの、あんまり見せびらかさないでよ。怖いなぁ」
両手を軽く上げたまま、北条は促されるように執務室へと足を踏み入れた。 室内には主犯のFと、今回の都庁ジャックを前線で指揮していると思わしき幹部数名が、冷ややかな視線で彼を待ち構えていた。
「これはこれは。ご到着を首を長くしてお待ちしていましたよ、北条さん」
Fが、まるで旧友を邸宅に招く主人のように、両手を広げて北条を迎え入れる。
「まるで自分の部屋のようなもてなし方だねぇ。ねぇ都知事、酷いと思いませんか……?」
北条の軽口に、一色は驚愕と困惑が混ざり合った表情を見せた。
「北条さんが、どうして……?」
かつて、警視監の高橋と北条のコンビは、東京の治安を守る双璧として数多の難事件を解決してきた。
弁護士として駆け出しだった頃の一色にとって、彼らは「正義」を体現する憧れの存在でもあったのだ。
その北条が、なぜ自ら敵の軍門に降るような真似を――。
一色の瞳に、言いようのない不安がよぎる。
「おっと、新都知事とお会いするのは今回が初めてでしたかね。……こんな形での初対面になってしまって、本当に申し訳ない」
「い、いえ……」
周囲を銃器で武装した集団に包囲されてもなお、北条の態度は変わらず飄々としたものだった。
「この絶望的な状況でそこまで余裕を保てる刑事は、貴方くらいだ。さすがですよ」
「お世辞はいいからさ。さっさと本題に入ったらどうだい? 僕はもう、自分なりの結論を出してここに来てるんだからさぁ」
北条とF。
銀行立て籠もり事件の際、北条は交渉人としてFと対峙した。
Fにとっては計画を狂わされた因縁の相手であり、北条にとっても唯一、逮捕の手をすり抜けて逃走を許した不覚の相手である。
「……我々『神の国』は貴方の能力を高く評価しています。その類まれなる頭脳、我が組織の再構築のために捧げませんか?」
「それはそれは。高く買われたものだね。でも、死刑囚の釈放に僕の勧誘……ちょっと欲張りすぎやしないかい?」
「ふふ……正直なところ、死刑囚など我々にはどうでもいいのですよ。そう言えば貴方は必ず私の元へやってくる。そう確信して投げた釣り針でしたからね……」
「…………」
不敵な笑みを浮かべるFに対し、北条はただ静かに、眼鏡の奥の瞳を細めた。
「……さぁ。そろそろ日が落ちる。我々も『世を明かす準備』を始めましょうか……」
Fが傍らの仲間に目配せをする。
男が短く頷いて室外へ消えると、数分もしないうちに重低音が鳴り響き、都庁の全てのシャッターが物理的に閉鎖された。
完全なる密室の完成。
「こんなことしたって、うちのSITは優秀だよ? 鉄の壁くらいじゃ止まらない」
「分かっています。だからこそのシャッターなんですよ。彼らの『正義』を挫くためのね」
Fは、うっすらと笑みを浮かべたまま、もう一人の工作員に視線を送った。
男はスマートフォンで短く指示を飛ばす。
「都庁内に残っている人間を全員、展望台に集めろ。一人残らずだ」
新宿の夜景を一望できる、あの地上202メートルの空間。
そこが、これから始まる凄惨な劇の「舞台」になろうとしていた。




