追跡劇
「次の路地を右。ホシとの距離、約八百」
ヘッドセットから流れる志乃の澄んだ声。その冷静な響きが、深夜の裏路地に不気味なほど鮮やかに溶け込む。
「了解!……八百か。目と鼻の先じゃねぇか。待ってろよクソ野郎、ボッコボコにしてやる!」
無線を叩き返すのは、虎太郎。既に四十分、全力疾走を続けている男の呼吸とは思えないほど、その声には獰猛なエネルギーが宿っていた。
「ねぇ……志乃ちゃん……。どうしても、これ……走らなきゃ……ダメ、かな……?」
後方五百メートル。肺を焼くような喘鳴とともに、北条が無線に縋りつく。
「北条さん……。走らなければ、逃げられます。ホシも必死ですから」
志乃の返答は、薄氷のような冷たさを孕んだため息混じり。
「そうだよねぇ……。でもさ、もう四十分だよ? 五十を過ぎたオジサマには、ちょいと……、いや、かなりキツイんだけど……」
街灯の影を縫うように、千鳥足で蛇行しながら、それでも北条は足を止めない。その姿は、泥臭くも執念深い「猟犬」そのものだった。
「おい北条さん! 死ぬ気で走れよ、犯人逃げちまうだろうが!」
遥か先を走る虎太郎の怒声が、無線越しに鼓膜を震わせる。
「虎君まで……。ほら、もう君が先に行ってよ。ささっと捕まえちゃって。その頃には……きっと、追いつくからさ……」
言葉を継ぐごとに、肺胞が悲鳴を上げる。北条の視界は、既に酸欠で白く滲み始めていた。
「北条さん、二百先を左。道は狭いけど近道だ。最短で行けるよん」
その時、本部から軽薄だが頼りになる「天の声」が舞い込んだ。悠真だ。
「悠真ぁ……! 君は本当に、神様みたいな……良い奴だ!」
地獄に仏。北条は最後の力を振り絞り、左の路地へと折れる。
「北条さん、これで七分の短縮。虎太郎さんとの合流地点までショートカットです」
志乃の補足に、虎太郎が噛みついた。
「んだよ! 近道があるなら先に言え、悠真!」
「えー。虎さんは体力バカなんだから、結局追いつくでしょ?」
「逮捕は一秒でも早い方がいいに決まってんだろ!」
無線の向こうで火花が散る。そのノイズを切り裂くように、一際凛とした、そして冷徹な声が響いた。
「……遊ぶのは、そのくらいにしなさい」
特務課司令官、新堂司。 その一言で、無線の空気は一瞬で氷点下まで引き締まった。
「虎太郎、大通りに出る前に確保。北条さん、虎太郎が無茶をしないようサポートを」
「必死にやってるよ! 了解、大通りには行かせねぇ!」
「司ちゃん、もっと年寄りを労わってほしいなぁ……。了解、間に合えばサポートするよ」
返答と同時に、二人の加速音が無線に乗り、闇の中に消えていく。 特務課の夜は、ここからが本番だった。
「おら、観念しろや!」
虎太郎の怒声が、逃走経路の壁に反響する。
犯人との距離は、もはや数メートル。
だが、追い詰められた鼠は、なおも泥にまみれた牙を剥く。
「観念してたまるか! こちとら人生かかってんだよ!」
「バァカ! 俺たちに追われてる時点で、お前の人生は詰んでんだよ!」
「見逃せ、頼む!」
「アホか!」
罵り合いながら、二人の影が夜の街を疾走する。
「こうなったら、タイマンだ! 一対一なら、まだ望みはある!」
「あ? 舐めんなよコラァ!」
無線の向こう、そのやり取りを聴いていた悠真が、呆れたように肩をすくめた。
「はぁ……なんか警察官って感じじゃないですよね、虎さん……」
「志乃ちゃん、そんな分かりきったことで落ち込まないでよ。あ、ほら、もうすぐ北条さんが到着する」
悠真のナビゲート通り、路地の出口を塞ぐようにして、一人の男が滑り込んできた。 北条だ。
「タイマンじゃ……なかったら、どう……なるかなぁ……はぁ、はぁ……」
しかし、その姿はあまりに無様だった。
膝を突き、肩を揺らし、酸欠で顔は土気色。
犯人の口元に、嘲笑が浮かぶ。
「そんなフラフラなオッサンが来たところで、大して怖くねぇよ!」
「……うんうん、ごもっとも」
「……悠真くん!」
司令部では志乃と悠真が漫才のような会話を交わしているが、司令官・司の声が、その弛緩した空気を一瞬で凍りつかせた。
「ここまでの逃走劇で、犯人の精神は極限状態にある。何をするか分からないわ。二人とも、気を引き締めなさい」
一瞬で場を支配する、凛とした号令。
彼女という「核」があるからこそ、この癖の強いエキスパートたちは、一つの凶器として機能する。
「……じゃあさ。昇った血の気を、一気に下げちゃえばいいんでしょ? 司ちゃん……」
その時だった。
ようやく息を整えた北条が、顔を上げる。
その瞳には、先ほどまでの「冴えない中年」の影は微塵もなかった。
冷酷なまでの「狩人」の笑み。
「……えぇ。任せます」
司は、彼が何をするのかを問わなかった。
その判断こそが、北条という男の「真の恐ろしさ」を知っている証拠だった。
北条はジャケットの内ポケットにゆっくりと手を差し入れ、虎太郎に声をかける。
「ねぇ虎ぁ。このホシ、ちょっと抵抗が過ぎるよねぇ……。いっそ、ここで殺しちゃわない?」
「……え?」
虎太郎の足が止まる。
同時に、犯人の全身に戦慄が走った。
視線は釘付けになる。
北条のジャケットの、膨らんだ内ポケットに。
「オッサン……まさか……」
「そ。そのまさかだよ」
北条は一歩、また一歩と犯人に近づく。
内ポケットの中で、カチッ、カチッと、何か金属質な音が鳴り響く。
それは、命を奪う機械が作動する不吉な足音のようだった。
「刑事が犯人を追うんだ。それも、何をしでかすか分からない凶悪犯だ。……となれば、刑事は『万が一』のための装備をしていなきゃならない。それが『何か』、君なら分かるよね?」
犯人の喉が鳴る。
声が震え、足が後退を始める。
「そんなことして……いいと思ってんのか!」
「……良いんじゃない? ここには僕たちのほかに、誰もいないんだし」
北条の唇が、三日月のように吊り上がった。
「正当防衛。……それで済む話だよ」
北条はそう囁くと、内ポケットから、ゆっくりとその『何か』を引き抜き始めた――。
「お、おい……マジかよ……」
懐に手を滑り込ませた北条を前に、犯人の声が震える。
「刑事は市民を殺さない」――その安っぽい常識に胡坐をかいていた男が、ようやく理解した。
目の前の男は、己の身分など、命の重さの前では何の枷にもならないと。
――この男は、殺る。
犯人は震える手で、ポケットに隠したナイフを握りしめる。
北条はその無駄な足掻きを、嘲笑うような冷徹な眼差しで見抜いた。
「……いいのかい? そんなナイフで『これ』に勝てるとでも」
懐の中で、カチャリ、と重厚な音が鳴る。
「……おい、話し合うなら今のうちだぞ?」
犯人の声は上ずり、呼吸は浅くなる。
そんな死線を、虎太郎がニヤニヤと眺めながら野次を飛ばした。
「北条さん、やめとけよ。民間人を殺せば、たとえ正当防衛でも始末書の山だぜ?」
「……始末書なんて書き慣れているよ。いくらでも書いてやる。だがね……」
北条が、一歩、また一歩と死を運び込むように距離を詰める。
「こいつは強盗致傷犯だ。無抵抗の老婦人を殴りつけ、金品を奪った。下手をすれば死なせていたかもしれない。このまま野放しにすれば、また次の被害者が出る」
その瞳は、もはや無機質なガラス玉のようだった。
「だったら、正当防衛を言い訳にここで処分しておいた方が、世の中のためだ。一人の悪を消して、大勢の善人を救う。……僕は、そっちの方が合理的だと思うね」
手が届く距離。
犯人はもはや抵抗の意志すら喪失し、迫りくる「死」の気配に釘付けになっていた。
「……そういうことだから。バイバイ、若き犯罪者君」
「頼む……許してくれ……!」
ついに、犯人が膝を折って命乞いを始めた。
だが、北条の眉ひとつ動かない。
「その老婦人も、同じように許しを請わなかったか? 君はそれを笑って殴ったんだろう」
「頼む……殺さないでくれ……!」
真っ青になった犯人の足が、激しく石畳を叩く。
「……今世の悔いは、来世で晴らしてくれたまえ」
北条が、ゆっくりと、しかし確実に懐のものを引き抜き――。
「――BANG!」
静寂を切り裂く、乾いた叫び声。
「ひぃぃぃぃっ!」
犯人は悲鳴を上げ、腰を抜かしたままその場に崩れ落ちた。
「……はい虎。確保」
「あいよ」
先ほどまでの殺気が嘘のように、北条が深く溜息を吐く。
その瞬間、犯人の背後に潜んでいた虎太郎が、獲物を捕らえる猛獣の如くその腕を捻り上げた。
冷たい金属の音が、二度、響く。
「……え?」
状況が飲み込めない犯人を、北条は冷めた目で見下ろした。
「強盗犯を射殺なんて、後味が悪くてかなわないよ。それに……」
北条が、懐から出していたものを犯人の鼻先に突きつける。
月光を浴びて鈍く光ったのは、無骨な銃身ではなく、一本の使い古された「道具」だった。
「……ボールペンじゃあ、人は殺せないよ」




