第8話_遠雷と提案書
日向坂市役所・本庁舎三階、第一応接室。壁の時計が午前10時を指していた。
分厚い木製のドアを挟んで、えまは深呼吸を三回繰り返していた。手元の書類には「日向坂市・商店街再活性モデル提案書」と記されている。横に立つ拓実は、ネクタイを少し緩めながら壁の向こうの空を見上げた。
空は灰色に曇り、時折ごろごろと低い音が聞こえてくる。
「雷……嫌な前兆ですね」
えまが苦笑交じりに言う。
「嵐の前に通す話なら、むしろ好都合さ。“天気と同じくらい混沌とした現状”の比喩にもなる」
「どこか達観してませんか?」
「無職の特権だよ。焦る必要がない」
そのやりとりに、えまの緊張がわずかに和らいだ。
その瞬間、職員がドアをノックし、静かに告げた。
「市長が応接室でお待ちです」
二人は資料を抱え、部屋へと足を踏み入れた。
応接室には市長のほか、財政課長、都市整備課長、秘書官らが揃っていた。市長は五十代半ば、小柄ながら目に強い光を宿している。
「……今日は、特例の“直説プレゼン”とのこと。期待しているよ、山城くん、瀧本くん」
椅子に座るやいなや、市長はそう告げた。
えまが立ち上がり、丁寧に一礼。手元のタブレットを起動しようとした、その時だった。
――バチン、と音がして、部屋の照明が落ちた。
同時に、空が割れたような雷鳴。建物全体の電源が一斉にダウンした。
「停電……? まさか……!」
課長たちがざわめき、秘書官が走り出す。非常灯が仄かに室内を照らすが、プロジェクターは沈黙したままだ。
「……どうしますか?」えまが問いかける。
拓実は、迷わなかった。
「紙でやる。読めばいい。暗い中でも、言葉は届く」
静かに、手元の資料を取り出した。やや分厚く綴じた提案書の表紙を開き、拓実は立ち上がる。
「お聞き苦しい状況ではありますが、“この暗さこそ、現状の象徴”と捉えてください」
拓実の声は、照明を失った応接室に不思議な落ち着きをもたらした。
「現状の商店街は、“通り抜けられるだけの空間”になっています。かつての買い物客が、“移動距離”としてしか通らなくなった。店舗の灯は減り、記憶の場所となりかけている」
ページをめくる音が静かに響く。拓実の手元にあるのは、あの模造紙をもとに再構成した“再生フロー”と“動線分析”。
「我々が提案するのは、再開発でも大型予算でもありません。“まず動くこと”――たったそれだけです」
市長の顔が、非常灯に照らされながらわずかに動いた。耳を傾けている。その確信が、拓実の声にさらに力を与える。
「仮設マーケットの実施は、“街の現在地”を把握するための一手です。売れるものが何か、誰が来るのか、何が滞るのか。それを“現地で試し、記録する”。行政と民間が並走するこのモデルは、失敗があっても構造を壊しません」
えまは、隣で提案書の予備を配布し始めた。暗がりの中でも、要点を蛍光ペンでマークした紙は目に留まりやすいよう工夫されている。
「数字の裏付けは、咲という優秀な会計士が。空間の設計はヘイデンという現場観察者が。運営は商店街事務局、薫が。発信力には移動カフェ店主の海翔が。そして、行政との橋渡しは、山城さんが」
静かな口調。だがその言葉には、ひとつひとつ重みがあった。
そのとき――。
扉がゆっくりと開いた。
入ってきたのは、ヘイデンだった。右手には懐中電灯、左手には、白熱灯とバッテリー式ランタンが入った小さな箱。
「Heard you needed a bit of light. G'day, everyone!」
明かりがひとつ、またひとつ灯る。まるで、闇に小さな火種が点り始めるように。
「このタイミングで……?」
えまが目を見張る。ヘイデンはランタンを机の中央に置き、静かに頷いた。
「提案には“光”が必要だろ? タクミさんの声は通ってる。じゃあ、俺は光を足すだけだ」
その瞬間、部屋の空気が変わった。
拓実は一度深呼吸をし、最後のページをめくる。
「このモデルの狙いは、“全ての住民が主役になれる街”です。再開発のように、誰かに委ねるのではない。自分の手で、灯りをともせる構造を――我々は、それを提案します」
静寂の後、誰かが小さく咳払いをした。
そして、市長が、ゆっくりと手を伸ばし、提案書に目を落とした。
「……いい提案だ。派手さはないが、火の通りがいい。現場で鍛えた言葉は、届く」
その言葉に、えまの肩が小さく震えた。
外では、なおも雷が鳴り響いている。だが、この部屋の中には、もう別の光が灯っていた。