第7話_一枚のフローチャート
夜の市役所第三別館。庁舎本館より古びた建物の一室で、蛍光灯が静かに唸りを上げていた。
会議室の長机には、広げた模造紙とコーヒーの紙カップ、ノートPCが散乱している。時計の針は23時を回っていた。
「……これでようやく、“全体の見取り図”が形になったかと」
えまが、眼鏡を外して軽く目元を押さえる。その指先には疲労の色があったが、表情には確かな充実が浮かんでいる。
模造紙の中央には、太い矢印と囲み文字で〈仮設マーケット(実地試験)〉と書かれていた。そこから放射状に伸びた矢印が、「空き店舗貸出試験」「若者向け移動販売」「高齢者向け移動支援」「商店主インタビュー記録化」などへと枝分かれしている。
「……この“中心軸”を誤らなければ、後の枝葉は臨機応変でいい」
拓実がそう呟き、えまも静かに頷いた。
「机上のプランだけでは“現場の息遣い”が抜け落ちる。でも、現場だけでは構造が崩れる。“構造と感覚”を両立する、そのバランスこそ……今の私たちの役割ですね」
拓実は無言でボールペンを取り、模造紙の片隅に一行を書き加えた。
《観察から行動へ》
「スローガンですか?」
「いや、これは“原点”だ。この再生計画は、全部ここから始まっている」
えまは、その文字をしばらく見つめた後、ふっと笑った。
「拓実さん、コンサルタントって名乗ってないのに、完全にやってますよ」
「名乗るより、動く方が早い。“資格”や“立場”より、“影響力”の方が後に残る」
その時、静かに扉がノックされた。
「こんばんは、遅くまで頑張ってるね」
顔を出したのは、薫だった。片手にはスケジュール帳、もう片手には差し入れのペットボトルが2本。
「お疲れ様です」
「今、工程表を立ててるんですね。なら、現実的な日程を重ねましょうか」
彼女は当たり前のように隣に腰を下ろし、淡々と工程の調整に入りはじめた。
「空き地の仮設許可は最短で20日後。ただし、消防との協議が必要。音楽系の屋台イベントなら“騒音許容範囲”を事前に出しておくこと。保健所も、食品取扱業者の一覧提出が必要になります」
えまが目を丸くする。
「……すごい、既に全部頭に入ってるんですね」
「仕事なので。“できるかできないか”じゃない。“できるように調整する”のが私の役目ですから」
冷静なその言葉に、拓実は一度ペンを止め、言った。
「現場の動き方は、もう固まりつつある。残るは、“街の空気”を動かすきっかけだな」
「それなら、私から提案があります」
その声とともに、新たな人物が部屋に顔を出した。
――海翔だった。
「失礼しまーす。夜更かしチームって聞いて来たんですけど、まだ働いてます?」
ラフなパーカー姿で現れた海翔は、片手に持ったタブレットを掲げて笑った。
「なんで君がここに……」
えまが目を丸くする一方で、拓実はどこか納得したように軽く笑った。
「……気づいたんだな。動き始めた“風”に」
「はいっす。てか、“風”っていうか、街がちょっとだけザワつき始めてて。なんか変だなーって思ってたら、案の定おっちゃんたちが原因で」
海翔は部屋のホワイトボードの端を勝手に使いながら、端的に言った。
「俺のカフェアカウント、ここ数日で“日向坂”タグ付きのリプが急増してるんす。あと、同じくテントイベントとか空き店舗使ってる地方の事例動画がバズってて」
彼はタブレットを操作し、数枚の画面キャプチャを見せる。移動販売、仮設市、古民家カフェ、地域回遊型イベント――すべて“まちの動き”に敏感な人々が好む事例だった。
「これ、やった方がいいですよ。現場テストの時、“インスタライブ”で現地実況します。“準備風景”から撮って、何が起きるかを、毎日5分だけ配信する」
薫がやや驚いたように言う。
「でも……そんな非公式な告知、トラブルの元じゃ……」
「逆です。全部“準備段階”を出すことで、“大ごとじゃない”って見せる。肩肘張らないほうが、みんな足を運びやすい。やる側も、見る側も、緩くつながる」
えまは息を飲み、拓実は静かに頷いた。
「……確かに、“完成したもの”より、“未完成の途中”の方が、人は関われる余地を感じる」
海翔はふふんと鼻を鳴らした。
「そう、今の時代、“完璧”って逆に壁になる。雑でも動いてる方が、人の目を引くんす」
彼の言葉に、誰よりも薫が反応した。
「……“実務”として、それをどう運用するか、私が整備します。記録管理、日報形式で残します。市の担当に確認しますが……拡散戦略としては“あり”です」
「おお、頼もし……」
「ただし、無断撮影は禁止。参加者の許諾確認は徹底して。配信時間と範囲を事前に書面で届け出ること」
「……へー、やっぱお役所の人ってこわ……いや、合理的っすね」
海翔が苦笑しつつ、すぐに返す。空気はすでに柔らかい熱を帯びていた。
拓実は模造紙を一度見直し、全体を眺めた。
「この図の意味が、やっと“絵空事”から“動線”に変わった気がする」
その一言に、全員が少しだけ目を細めた。
夜の市庁舎の片隅で、一枚の紙に書かれた未来図が、確かな輪郭を帯び始めていた。