第6話_シャッターの向こう側
朝のアーケードは湿り気を帯びた風に吹かれていた。梅雨の谷間、照りつける陽射しがまだ届かない時間帯――拓実が最も好きな時間だ。
えまとともに、今日から始まるのは「全商店ヒアリング」。閉まったシャッターの一軒一軒を回り、所有者や営業者の実情を確認する地道な作業だ。
「今日は16軒、連絡先が判明しているのがそのうち9軒。うち在店の可能性があるのは……3軒だけです」
えまが資料をめくりながら言う。
「無駄足になる確率の方が高いが……一軒でも“生きている声”が拾えれば十分だ」
拓実は、目の前の金物店跡のシャッターを見上げた。年季の入ったスチール板には、かすれたままの「営業中」の札がかかっていた。
その札が“裏返し”になっていたことに、拓実は目を留めた。
「……ここ、誰か入ってるな」
「え? でも連絡が――」
「人の気配は、電話帳には載らない」
軽くノックし、声をかけると、しばらくしてシャッターの奥から重たい鎖の音が響いた。
半分だけ上がったシャッターの隙間から顔を出したのは、年配の男性だった。無精ひげに白い作業服、顔には明らかに警戒心が浮かんでいる。
「なんだね?」
「お騒がせします。日向坂市の……いや、違いますね。“今のこの商店街が、どうしても気になっている者”です」
拓実のこの妙な自己紹介に、男の表情がわずかにほぐれた。
「言い方が妙だな。市の役人じゃないのか?」
「ええ。でも一応、昔はこの街に融資してた側の人間です。名前は瀧本拓実といいます」
「……拓実? ああ、聞いたことあるな。都市銀の……」
男の目が鋭くなった。
「じゃああんたに聞く。“未払のリサイクル費”、どうなってんだ?」
えまが驚いて顔を上げた。
「……それ、もしかして……」
「五年前の町内会費から引かれるはずだった古紙回収の分。うちの印刷所、三ヶ月分肩代わりしてたんだよ。それが“精算済”ってだけの書類で処理されててな。あれ以来、信用してねえ」
拓実は沈黙し、数秒だけ目を閉じた。そして――開いた目に、冷静な光が灯った。
「失礼ですが、その“印刷所”というのは、もしや――」
「村瀬印刷。息子が今、三代目継いでるが、俺はもう引退同然だよ」
「……遼平さんですね。先日少しだけ、お話しました」
その名を聞いた男は、目を丸くした。
「おい、あんた、うちの息子に何吹き込んだ?」
「“無理はするな。ただし逃げるな”と言っただけです」
その返しに、男は数秒沈黙したのち、シャッターをもう少し上げた。
「入って話そうか。どうせ誰も来やしねぇ」
金物店の奥は、かつての店舗スペースを改装した簡易作業場になっていた。古いオフセット印刷機が一台、ブルーシートをかけられたまま静かに眠っている。その隣の棚には、束ねられた紙の束や、もう読まれないカタログ類が詰め込まれていた。
店主――遼平の父は、ポットから湯を注ぎ、インスタントコーヒーを差し出してきた。
「まあ、商店街なんてのは、“いい時代の名残”みたいなもんだ。昔はよ、朝5時から搬入して、昼には印刷仕上げて、夜に納品。今じゃ全部ネットで済む」
拓実は黙って頷き、えまも真剣な顔で話を聞いていた。
「それでも、遼平さんはまだ“何か残せるものがある”と感じていらっしゃるようです」
「……あいつは、不器用だからな。意地だけで刷り機回してる」
コーヒーをひと口すすり、店主はぽつりと呟いた。
「けどな、あいつが小学生のころ、俺が徹夜続きでも一言も文句言わず、ずっと作業台の横に座っててさ……“手伝えることない?”って聞いてきた日があるんだ。刷ったばかりのインクの匂いが好きだったって」
えまが静かに顔を上げる。
「……今も、“誰かに求められてる印刷”をしたいとおっしゃっていました」
「そうか……あいつ、まだそんなこと……」
拓実がゆっくりと言葉を継いだ。
「この街の再生を考えるなら、“失われかけた誇り”を見直す必要がある。地味でも、意味があるもの。遼平さんの印刷所は、その一つです。俺たちはそれを“無理やり再利用”するつもりはありません。けれど、“活かせる場所”があるなら、きちんと橋を架けたい」
男はしばらく無言だった。そして、机の引き出しから何かを取り出して差し出した。
古びた領収書綴りと、リサイクル業者とのやりとりを記録したメモ用紙だった。
「これが、未払金の証拠だ。証拠を見せても信じない奴らに、何度も無駄足踏まされた。だが……あんたなら、ちゃんと見るかと思った」
拓実は、両手でその綴りを受け取った。
「もちろん。紙の重みは、数字の信頼ですから」
店を出たとき、えまが小さくつぶやいた。
「……拓実さん、本当にすごいです。“見つける”力がある」
「観察しているだけだよ。“怒りが長引く人”は、“捨てきれない思い”がある人なんだ。諦めた人は、そもそも口を開かない」
シャッターの向こう――そこには、まだ“閉じきっていない心”があった。