第5話_えまの理論武装
日向坂市役所、第四会議室。朝9時5分。照明が白々と灯る室内には、えまを含めた5名の課職員と、都市整備課の課長二人、そして副市長が着席していた。
会議の議題は「商店街再活性化案の再評価」――だが、実質的には、えまの“提案”を潰すための場であることは誰の目にも明らかだった。
「山城くん、再開発案を“棚上げ”にするという発想自体が、市の方針と相反しているよ」
「ええ。ですが“現行案では失敗が見えている”と判断しました。その根拠は、現場調査によるものです」
えまは、白いA4資料をスライドのように並べた。手書きのマーケット導線図、十年前の売上帳簿の写し、そして拓実がまとめた“潜在需要の仮説”一覧。
「これは……なんだね?」
都市整備課の渡辺課長が、渋い顔をして眉間に皺を寄せる。
「観察と記録に基づいた現場分析です。帳簿から抽出した需要傾向、現在の歩行者導線、仮設マーケット実施可能エリアの重なりを示したものです」
「君は学者じゃない。理屈ばかりでは現実は動かんよ」
えまの指が、ぴたりと資料の中央を示した。
「……ではこの“動かない現実”とは、なんでしょうか」
静かな声だった。けれど、その声には張りがあった。
「計画は十年動いていない。整備だけが進み、空き店舗率は増え続けている。どこが“動いている”のか、説明してください」
ざわめきが起きかけた空気を、誰かが制した。
「……山城くん。では君の案の実行主体は誰になるんだ?」
副市長だった。長年教育畑を歩んできた男は、えまをじっと見つめていた。
えまは資料を裏返し、新たな一枚を差し出した。
「民間です。民間の知恵を仮設ベースで借り、行政はそれを“支援”する立場を取る。費用は最低限。失敗すれば撤収、成功すれば再現性を測る。失うものは少なく、得る知見は大きい」
「具体的な協力者は?」
「元銀行員、瀧本拓実氏。現地調査済み、店舗主たちへのヒアリングも進行中。実務を担う人材も揃いつつあります」
数秒の静寂。誰もがその名前に反応した。拓実の名は、この市役所でも“知る人ぞ知る”存在だ。かつて地方再編に向けた融資で辣腕を振るったが、突然銀行を辞した男。
「……君は、瀧本と組むというのか」
渡辺課長の声には、どこか色の混じった驚きがあった。
えまは一拍置いて、言った。
「私は“現場を知る人”と組みたいんです。私にないものを持っている人と」
沈黙の会議室。だがその重みのある空気の中、えまの資料の上に、ひとつの手が伸びた。
副市長だった。
副市長は静かに資料に目を通しながら、ポツリと呟いた。
「……山城くん。君の言う“失敗してもいい案”という考え方、それは、我々行政にとっては大きな挑戦なんだよ」
えまは頷いた。
「承知しています。でも、“挑戦しないままの十年”を、あと十年繰り返すわけにはいきません」
副市長の目が、彼女をじっと見据えた。やがて、わずかに頬を緩める。
「……ならば、一つだけ条件をつけよう。“進捗は週次で報告”し、“撤収ラインを明確化”すること。行政は失敗に対する説明責任を問われる立場だ。そこに対する備えがあれば、君の案を“試す価値あり”と認めよう」
えまは、ふっと小さく息をついた。
「ありがとうございます。必ず、示します。“数字”と“現場の声”、両方を」
渡辺課長は何か言いかけたが、副市長の視線を受けて黙り込んだ。
会議が終わり、えまが資料をまとめて部屋を出たところで、廊下の窓際に立つ背の高い男が目に入った。拓実だった。
「……いたんですね。傍聴も申請してませんでしたよ?」
「見たかったんだ、君の戦い方を」
えまは苦笑した。
「私は、あなたみたいに現場で汗かけるタイプじゃない。でも、せめて机の上の言葉に、意味を持たせたかった」
「君の言葉には、意味があった。むしろ俺の方が、学ばされたくらいだ」
えまは肩の力を抜いて、笑った。
「さて、じゃあこれで……ようやく“現場側の戦い”ができますね」
「いや、これからが本番だ。俺たちがやろうとしているのは、“遊びじゃない仮設”だ。小さくて、でも確かな火を灯す」
拓実は歩き出しながら、横目でえまを見た。
「君は、ちゃんと“言葉で戦える人間”だったよ」
その一言が、えまの胸に小さな灯をともした。
ビルの隙間から、まぶしい昼の光が差し込んでいた。