第37話_ヘイデンのラテアート
朝霧のなか、かつては通行人すらまばらだった商店街の一角で、香ばしい珈琲の香りが漂っていた。
「……いい香りだね。つい、足を止めたくなる」
そう呟いたのは、通りがかりの高校生。彼の目の前には、古い文具店を改装した小さなカフェがあった。店名は《TOMO no COFFEE》。扉を開けると、奥のカウンターでラテアートを施す長身の男――ヘイデンが笑顔で迎えた。
「Good morning! 今日の気分は、ハート? それとも……トトロ?」
冗談めかした彼の言葉に、少年は目を輝かせて頷いた。
「……トトロ! できるの?」
「もちろんだよ。ここは魔法の国だからね」
湯気の立つカップに、ヘイデンの手が素早く動く。まるで筆で絵を描くように、泡立てたミルクが黒い液面の上で形を成していく。あっという間に、ふっくらした白いトトロが現れた。
「すっげ……」
少年は感嘆の声を漏らした。
その様子を、入口の柱の陰から静かに見つめていたのが拓実だった。
「やっぱり、人を惹きつける技術ってあるんだな……」
拓実はそっと中に入り、ヘイデンと目を合わせた。ヘイデンはカップを出すと、ウインクしながら言った。
「タクミ。いい時間に来たね。ちょうど今、彼らに“魅せて”るところだったよ」
「いや、完敗だよ。俺じゃ、あんな一杯は作れない」
二人は目線で通じ合い、互いの役割を再確認するように頷き合った。
ここ数ヶ月で、商店街は仮設マーケットから恒常的な店構えへと進化を遂げていた。《TOMO no COFFEE》はその象徴的存在であり、ヘイデンのカフェは市内の若者だけでなく、観光客や学生にも人気のスポットとなりつつあった。
「ところでヘイデン。例の“カフェスクール”の件、準備進んでるか?」
「もちろん。来週には第一回、開けそうさ。バリスタの基礎と、おもてなしの心を教えるんだ」
「いいね。観光と教育、両方の導線になる」
拓実は商店街の再興には、文化の“根”を作る必要があると考えていた。そして、ヘイデンのカフェスクールはそれを象徴する動きの一つだった。
「でも……講師は俺だけじゃ足りないんだ」
「ん?」
「誰か、“聞き役”が必要なんだよ。若者の悩みを吸い上げて、上手に伝え返してくれる人間。たとえば……君だよ、タクミ」
「俺が? いや、俺は別にバリスタじゃ……」
「違うよ。君は“観察する人”だろう? それに、君のアドバイスはいつも的確だ」
拓実は口元を引き結び、しばし考えた後、小さく頷いた。
「……まあ、できる範囲なら」
「ありがと。じゃあ、“名誉助講師”ってことで、Tシャツ用意しとくね」
「いらん。暑いし、似合わん」
二人の笑い声が店内に弾けた。
やがて、その日初めてのスクール見学者が現れた。市内の観光学科の女子大生二人組だ。カウンターに座ると、彼女たちは緊張気味に挨拶した。
「私たち、見学させてもらってもいいですか?」
「もちろん、Welcome!」
ヘイデンが示したのは、店内の一角に設けられた“体験スペース”。古い焙煎機の前には、拓実が座っていた。
「君たちが、次の一歩を踏み出す場所になるかもしれない。遠慮せず、何でも聞いてくれ」
そう語る中年の男の瞳には、まるで若者たちの未来を預かる教師のような静かな情熱があった。




