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45歳、静かな観察者は商店街を救う――地域再生コンサルタント拓実の逆転劇  作者: 乾為天女


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第36話_咲の暖簾

 商店街の片隅に、ひっそりと開いた新たな暖簾。それは飲食店でも雑貨店でもなく、“監査法人のサテライトオフィス”という異色の存在だった。

  暖簾に記された文字は、「咲会計監査室」。控えめながらも芯の通った筆致は、書道教室に通う咲の母の手によるものだという。

  その日、拓実はふらりと立ち寄った。

 「珍しいもんだな。町の監査事務所なんて」

  奥で帳簿を睨んでいた咲が、眼鏡越しにちらりとこちらを見る。

 「珍しいからこそ、やる意味があります。……座りますか?」

 「じゃあ、お言葉に甘えて」

  店の内装は、白木の机に藍染の布。余計な飾り気はないが、数字を扱う場に相応しい清潔感と凛とした空気があった。

 「ここ、ただの会計事務所じゃないんだろ?」

  拓実の問いに、咲は少しだけ口元を緩めた。

 「そうですね。“誰にでも開かれた監査”がテーマです。帳簿や契約の確認だけじゃなく、相談事や、ちょっとした心配ごとにも応じるつもりです」

 「それってつまり、商店街の“裏の番人”か」

 「……表の番人が見逃すこともありますから」

  かつて、夏祭りの予算管理で起きた不正疑惑。そのときの冷静な対応と精査がなければ、今の信頼は築けていなかった。

  拓実は、そのときの咲の毅然たる姿を思い出す。

 「でも、金のことって、どうしても角が立つだろ。怖がる人もいる」

 「怖がられますよ、今でも。開店初日は、誰も来ませんでした」

  咲は肩をすくめる。

 「でも二日目から、少しずつ。帳簿の見直しを頼まれたり、補助金の申請が通らないって泣きつかれたり」

 「なるほどな……数字に関わる悩みって、放置すればするほど根が深くなる」

 「ええ。だからこそ、早いうちに“話せる場所”が必要なんです。――そのために、私はここにいます」

  その声音には、淡々とした響きのなかに、強い決意が込められていた。

  ちょうどそのとき、暖簾がそっと揺れた。

  入ってきたのは、若い女性の八百屋店主。拓実も見覚えがある、いつも軽トラックで配達している娘だ。

 「咲さん……あの、ちょっとだけ、売掛金の回収について相談が……」

 「もちろん。どうぞ、お掛けください」

  咲の声は柔らかい。まるで、冷たい帳簿の数字にも体温を与えるような優しさがあった。

 「おい、俺は邪魔しちゃ悪いな」

 「いえ、構いませんよ。拓実さんの存在そのものが、町の信頼になってるんですから」

 「そりゃあ、言い過ぎだ」

  そう言いながらも、拓実は少しだけ背筋を伸ばした。

  咲が机の引き出しから取り出したのは、一枚のシンプルなフォーマット。取引履歴や請求スケジュールを整理できるように設計された“未回収チェックシート”だった。

  八百屋の娘がそれを受け取り、目を丸くする。

 「わ、すごい見やすい……これなら、うちの母でも理解できるかも」

 「お母様の世代でも“数字が読める”ことは、大きな力になりますよ」

  言葉に嘘はない。ただし、必要な分だけの理論と、必要な分だけのやさしさ。それが、咲という人物だった。

  ――町の通りに“暖簾”は数あれど、“信頼”を掲げて風に揺れるものは、そう多くはない。

  その日以来、「咲会計監査室」は少しずつ話題になっていった。

  町の帳簿が“自分ごと”として考えられるようになる――その第一歩が、確かに踏み出された。



 夕方。商店街を行き交う人々のあいだに、「あそこ、相談できるってよ」という小さな噂が広がっていた。

  補助金の書類を見てほしい。仕入れ先との契約内容が不安。帳簿の付け方がわからない。――理由は人それぞれだが、「数字で困ったら咲のところへ行け」という空気が生まれつつあった。

  そのきっかけの一つは、ある日、咲がふと思いつきで掲げた張り紙だった。

 《お金の話、怖くなくなるお手伝いします。お気軽にどうぞ。》

  商店街の掲示板にその一文が貼られると、意外な反響があった。最初に現れたのは、長年仕出し弁当を営んでいた老夫婦だった。

 「実はなあ、うち、いつの間にか赤字続きで……帳簿、見てくれんかの」

  そう言って持ち込まれた帳簿は、驚くほど丁寧に付けられていたが、仕入れ価格の高騰と、請求漏れが重なり、じわじわと赤字が積もっていた。

 「これは……お二人の努力が記録としてちゃんと残ってます。あとは、その“見える努力”を活かすだけです」

  咲は余計なことを言わない。ただ事実を、丁寧に、優しく伝える。そして対策案を三つにまとめて提示するのが、いつものやり方だ。

 「帳簿って、こんなに“味方”になってくれるもんなんじゃなあ……」

  老夫婦の目に涙がにじむのを見て、咲は黙って手を添えた。

  その夜、拓実は家路につく咲に声をかけた。

 「……すげぇな、お前さん」

 「何がですか」

 「“冷たい数字”に、町の温度を与えるってのは、簡単じゃない。俺は銀行時代、そこに苦しんでばかりだった」

 「でも、私は拓実さんの背中を見てきましたよ。祭りの時も、外資との交渉の時も」

 「俺のは……ただのごまかしと場数だよ」

 「場数が生む信頼って、あると思いますよ」

  咲は穏やかに微笑む。

 「“暖簾”って、のれんに腕押しの“のれん”でもあるけど、実は“のれん分け”ののれんでもあるんです。私、将来はこの監査室を誰かに“暖簾分け”できるくらいに育てたい」

 「町のあちこちに、透明な小さな番人たちが立つってわけか」

 「ええ。数字を通して、町に“信頼の回路”を増やしたいんです」

  その言葉に、拓実は深く頷いた。

 「そうか。――それなら、俺も一肌脱ごう。……うちに眠ってる古い町の帳簿資料、貸すよ。昭和の終わりから平成初期のまで揃ってる。資金の流れも文化だ。咲なら活かせる」

  その提案に、咲の目がわずかに潤んだ。

 「……拓実さんは、いつもそう。さりげなく、未来を指し示す」

  冷たい風が吹いた夕暮れに、咲の暖簾がやさしく揺れた。

  その風が、数字に弱い町の人々の心へと、確かに届きつつあるのだった。

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