第35話_海翔、未来へ跳ぶ
風が心地よい春の朝。仮設マーケットの一角で、青いワゴン車の移動カフェが準備を始めていた。
スチームの音、コーヒー豆の香り。海翔はいつものようにラテを抽出しながら、ふと目の前の風景に目をやった。
老夫婦が手をつないでパンを選び、近くの中学生がドーナツをかじりながら談笑している。その光景を見ながら、彼は小さく息を吐いた。
「……今が良ければ、それでいいって思ってたけどさ」
その言葉に返事をしたのは、車の窓から顔を出したハナだった。耳をぴくりと動かしながら、海翔の膝にちょこんと乗る。
「なあ、ハナ。俺さ、この町に根を張るの、悪くないかもしれないって思ってきた」
そこへ、薫が帳簿を手に現れた。
「今月の売上報告書、提出してくれる? あと、次のイベント出店の申し込み、来週までだから」
「おお、了解っす。でも薫さん、ちょっとだけ聞いてもらっていいですか」
海翔は身を乗り出して続ける。
「俺、仮設じゃなくて常設のカフェ、やってみたいんす。ほら、ほかの移動販売の連中も居場所探してて……。だったら、俺が旗振ってさ、“若いもんで作る商店街の横丁”みたいな空間、ありじゃないっすか?」
その勢いに、薫は一瞬きょとんとしたが、すぐに眼鏡を押し上げた。
「……それは、きちんと事業計画を立ててからの話ね。夢で終わらせたくないなら」
「うっす、それはもちろん!」
晴れやかな海翔の笑顔に、薫も口元をわずかに緩めた。
「なら、企画書。あと、初期費用の見積もり。補助金対象になる可能性、探ってみるわ」
「まじで!? ありがとうございますっ!」
海翔は深々と頭を下げた。
午後、えまと拓実もその話を聞きつけ、現場に顔を出した。
「常設店舗か……若いエネルギーが町を変えるには、悪くない流れだな」と拓実が感心すると、
えまも頷きながら言った。「ただし、持続性と安全性が担保されることが前提です。思いつきでは通せませんよ?」
「もちろん! 俺、今回は本気ですから。気持ちだけで動いてた過去と違って、今の俺には仲間がいます。町の人たちに育ててもらったから、ちゃんと返したいんすよ」
そう言った海翔の目に、一瞬だけ迷いが走った。
「……ただひとつ、引っかかってることがあって」
「何?」えまが問い返すと、海翔は少し視線を落とした。
「親父っす。あの人、昔から“フラフラするな”ってよく言ってて。今回も、ちゃんと認めてくれるかな……」
それを聞いた拓実は、静かにコーヒーを受け取ったあと、こんな言葉を返した。
「人に認められるかどうかより、自分が納得できるかどうかが、人生の節目になる。特に、“おっさん”になってからはな」
海翔は思わず笑った。
「それ、俺が言うにはまだ早いっすけど……」
「でも、そろそろ言える歳になってるんじゃないか?」
その言葉に、海翔は目を見開いたまま頷いた。
数日後、海翔は早朝の駅前にいた。
列車の到着を告げるベルが鳴り、降り立ったのは、スーツ姿の初老の男だった。目元が自分とそっくりなその人こそ、海翔の父・信吾だった。
「……よお」
その声に、信吾はちらりとこちらを見たが、すぐに視線を逸らす。
「駅前で待つなんて、ずいぶん殊勝なこったな」
「はは、まあ。たまには、ね」
二人は町の通りを歩いた。沈黙が重かったが、それでも海翔は口を開く。
「俺さ、この町でカフェやろうと思ってる。移動販売だけじゃなく、ちゃんと建物構えて、仲間と一緒にさ」
「……そうか」
信吾は歩きながら、看板が修復された商店街や、子どもたちが駆け回る広場に目をやった。
「ずいぶん、変わったな。いや、お前もか」
「……だといいけど」
昼下がり。拓実たちが立ち会うなか、海翔はプレゼンを行った。
「この場所に、小規模だけど居心地の良いカフェスペースを作ります。内装はDIYで、地元の家具屋と協力。厨房器具も中古で揃えます。初期費用は約五十万。うち自己資金が三十。残りはクラファンで調達予定っす!」
咲が即座に手元の電卓を叩く。薫がスケジュール表を確認し、えまが資料に目を通す。
「無理はないけど、ギリギリね。運転資金は?」
「営業開始後、一ヶ月で黒字ラインに乗せるつもりっす。最低でも三ヶ月は持つ資金繰りで設計してます!」
えまが厳しい口調で言った。
「情熱と勢いは買います。でも、町の信用を背負う以上、あなた一人の夢では済みません。わかってますか?」
海翔は、息を整えて、深く頭を下げた。
「はい。だから、お願いします。俺にこの町で、ちゃんと“生きる場所”を作らせてください」
沈黙のあと、拓実が言った。
「……提案、承認しよう。ただし、条件付きでな」
「え?」
「半年間、試験営業。結果を見て、常設認可に切り替える。その間、町と協力体制を維持すること。それが“大人の責任”だ」
その言葉に、海翔は一瞬、戸惑った表情を浮かべたが、すぐに笑顔で返した。
「了解っす!」
その夜。
駅に戻る信吾の背中に、海翔は声をかけた。
「親父!」
振り返った父に向かって、彼は真っ直ぐな声で言った。
「俺、ちゃんとやるから。フラフラしてた自分、卒業するから」
信吾は一瞬目を伏せ、そして、そっけなくこう言った。
「……そうか。じゃあ、頑張れ」
それだけ言って、列車に乗り込んだ。その扉が閉まったあと、海翔はしばらくホームに立ち尽くしていた。
だがその顔には、寂しさよりも、不思議な安堵が浮かんでいた。
「やっと、言えたな……」
春風が、青い空の下を走っていく。彼の未来を祝福するかのように。




