第34話_薫の実務革命
日向坂市役所の一角。午前八時の執務室はまだ人影もまばらで、キーボードのタイピング音だけが響いていた。
その中心で、薫は静かに資料をめくっていた。市役所勤務歴十年、今や財政部門でも随一の“実務派”として知られている彼女だが、今、彼女の視線の先にあるのは、行政の帳簿ではない。
それは、商店街運営を担う民間団体との共有台帳だった。
「……これだけ情報が分断されていれば、資金も労力も重複して当然ね」
ページを一枚めくり、薫はため息をついた。行政と民間の間に横たわる“壁”――紙の束、慣例、そして役所の縦割り意識。それを、彼女は現場の立場から突き崩そうとしていた。
きっかけは、拓実の一言だった。
「どんなに現場が動いても、管理が変わらなければ、町の歯車はすぐに噛み合わなくなる。君が鍵だ、薫さん」
以来、彼女は市と商店街組合、さらにはボランティア団体との間に“業務交換台帳”というデータベースを立ち上げた。行政の調達ルールに沿いながら、民間でも使える簡便さを備えた設計。それは、これまでタブー視されてきた“二足のわらじ”の実験だった。
* * *
その午後、商店街の会議室では、薫が自らスライドを操作しながら、各団体に新しい業務フローを説明していた。
「物品調達やイベント資金の交付申請を、これからはリアルタイムで確認できます。重複作業が減り、スケジュール調整の無駄も大幅にカットできます」
ざわめきが起きた。これまで、申請一つにも三往復の書類が必要だったのだ。ある高齢の商店主が不安げに手を上げた。
「そんなに便利な仕組みなら……役所の人間が一緒に動く必要は、ないんじゃないか?」
その言葉に、薫は真っ直ぐに答えた。
「“便利”で終わる仕組みは、いずれ腐ります。行政の責任と現場の実行力を結ぶのが私の役目。これからも、二つの立場で町の歯車を磨いていきます」
静まり返った会議室に、ふっと小さな拍手が広がった。最初に手を打ったのは、海翔だった。
「……かっけぇな、薫さん」
その呟きに照れたように眉をひそめると、薫は資料を畳んだ。
「私はただ、やるべきことをやっているだけよ」
* * *
その夜、拓実はいつもの居酒屋「井戸端亭」で薫と杯を交わしていた。
「まさか“公務員×実務屋”のハイブリッドがここまで機能するとはね」
そう言って笑う拓実に、薫は苦笑で返す。
「中間に立つのは、案外孤独なんですよ」
「それを選べるのが強さだよ。……昔の俺にはできなかった」
焼酎のグラスを傾けながら、二人はしばし無言になる。
やがて薫が口を開いた。
「私、いつか本気でこの町の“しくみ”を変えてみたいと思ってるんです。ただの管理じゃなく、“運営”する側として」
「その時は、俺が書類持ちでもなんでもするさ」
拓実の言葉に、薫の表情がわずかに緩んだ。
「じゃあ、その時まで……もう少し、付き合ってくださいね」
夜の商店街に、静かな風が吹いていた。誰にも気づかれぬ革命が、確かに動き始めていた。




