第33話_遼平の新印刷所
朝霧に包まれた日向坂市の一角、旧市街地のはずれに、かつては製本機の唸りが響いていた一軒の古びた印刷所があった。今、その建物の前に、遼平が立っていた。
鉄扉に鍵を差し込み、ぎいと音を立てて開ける。埃の匂いが鼻をついたが、彼は気にする様子もなく、中へと足を踏み入れる。
「父さん……ようやく、腹が決まったよ」
遼平はそう呟くと、奥にしまわれた古い活版印刷機の前に腰を下ろした。
かつての遼平は“守り”に徹していた。父親から受け継いだ印刷所を、可能な限り現状維持で保とうとしていた。しかし、それは同時に、時間の流れに抗う姿勢でもあった。
だが、あの巨大リゾート企業による買収騒動、そして拓実の言葉が、遼平の胸に火を点けた。
「時代に合わせろとは言わん。ただ、時代に目を背けるな――そうだろ?」
拓実の言葉が、幾度となく耳の奥にこだました。
その日以来、遼平は眠れぬ夜を重ね、紙と格闘していた。資金計画、新機材導入案、クラウドベースの注文受付システム――。どれも初めての挑戦だったが、逃げる気はなかった。
「拓実さん、約束通り、やってみるよ」
そう口にすると、彼はスマートフォンを取り出し、えまに連絡を入れた。
「再開、今月末。補助金の書類も手配済み。あとは……自分の覚悟だけです」
* * *
一方、町の中央図書館では、えまと拓実が資金援助の審査委員会に臨んでいた。
「新印刷所の目玉は“体験型ワークショップ”です。子どもからお年寄りまで、実際に印刷を体験できる場を設け、地域と歴史をつなげます」
えまの言葉に、審査員の一人が腕を組む。
「印刷所に観光要素を加えるということか?」
「正確には、“地域文化の記録と再生”です。紙という媒体が持つ、記憶の強度と柔軟さを生かし、イベントや記念品制作も担います」
拓実は横で静かに頷きながら、最後に一言だけ付け加えた。
「遼平は、印刷機の音で育った職人です。だからこそ、伝統を“見せる”ことで次代に渡す覚悟がある。私が保証します」
審査室には静けさが流れ、やがて一人の女性審査員が笑みを浮かべた。
「面白いわね。地域活性の視点がある。……可決でいいと思います」
* * *
数日後、新装された印刷所の内覧会には、町の人々が集まっていた。
「おお、これが遼平の……」
商店街の古株たちが唸る横で、子どもたちが紙をセットし、レバーを押して楽しげに声を上げる。
奥では、咲が出納帳を見つめながら、小さく頷いていた。
「予算通り。しかも仮設ワークショップで黒字とは……やるわね、あの人」
遼平は、すこし汗をかいた額をタオルで拭いながら、照れくさそうに拓実のほうを見た。
「まあ……これで、少しは時代についていけるでしょうかね」
「いや、むしろ君が時代を引っ張り始めているんじゃないか?」
拓実の言葉に、遼平は無言で首を振る。
「まだまだです。けど……今なら、怖くはない」
そのとき、印刷所の奥から、一枚の紙がふわりと舞い上がり、風に乗って外へ出ていった。
それは、再出発の象徴のように、青空の下へと溶けていった。




