第32話_えま、決断のとき
市役所の一角、静まり返った夜の会議室に、えまはひとりで残っていた。机の上には、拓実が遺していったプロジェクト資料が散乱している。背後のホワイトボードには、手書きのままのフローチャートがまだ残されていた。
「……託された、ってことよね」
えまは、小さく息を吐いた。拓実の入院は突如だった。激務の中での体調不良。本人は「少し休めば治る」と笑っていたが、医師は「しばらく安静にすべき」と告げた。
――拓実さんが倒れた今、この町の流れを止めてはいけない。
その責任感が、えまの背中を静かに押していた。
「決めなきゃいけないことが多すぎる……」
机に並んだ三枚の書類。どれも今後の運営方針を左右する重要な提案書だった。ひとつは外部委託による運営効率化、もうひとつは町内業者との提携維持、最後は市が直接関与するリスクを伴う案。
すべてにメリットとデメリットがあった。しかし、拓実がいたときのように、最善の一手を誰かが“決めてくれる”ことはもうない。
「……理屈だけじゃないのよね、こういうのって」
自席に戻り、椅子に身を沈める。えまの視線は、壁にかかった一枚の写真に向けられた。それは先日の夏祭りで撮られた集合写真だった。笑顔の拓実、海翔の派手な法被、薫の渋い浴衣姿、そして自分自身が、自然に笑っていた。
“人を信じる勇気が、地域を動かす”
――拓実が祭りの打ち上げで言った言葉を、えまは今、思い出していた。
――
翌朝、えまは会議室に仲間たちを集めた。
「みんな、突然だけど……今日から私がこのプロジェクトのリーダーを引き継ぐわ」
えまの言葉に、全員の視線が集まる。遼平は驚いたように眉を上げ、薫は静かに頷いた。海翔は「マジかよ」と呟いたが、すぐに口を閉じた。
「拓実さんがいない間、私たちで回すしかないの。でも、今までのやり方を全部そのまま続ける必要はないと思う」
えまはホワイトボードに歩み寄り、赤いマーカーを手に取る。
「私の提案はこれ――“現場の声を即時反映できる柔軟な体制”。要するに、チーム制で回すの」
「チーム制?」
咲が目を細めた。
「はい。役割分担を固定するんじゃなく、タスクごとに責任者を替える。必要に応じて交代もできるようにするわ」
「なんでそんな面倒なことを?」
海翔が口を尖らせる。
「面倒に見えるけど、逆よ。個々の負担を軽くするためなの。私たち、もう疲弊してる。拓実さんのようなバケモノじゃないんだから」
沈黙が流れたあと、遼平がぽつりと言った。
「……バケモノ、か。確かに、あの人は何でもひとりで抱えてた」
薫が静かに付け加えた。
「それでも回っていたのは、私たちが無意識に彼に頼ってたからよ」
えまは一歩前に出た。
「その構造を、今、変えたい。みんなで考え、みんなで判断できる体制に。私はその土台を作る。だから、力を貸して」
深い静けさの中、やがて咲がふっと息をつき、手を挙げた。
「いいわよ。責任の所在が明確なら、反対はしない」
次に薫が頷き、遼平もゆっくりと手を挙げた。
最後に、海翔が大きく肩をすくめて笑った。
「もう、えまさんに逆らうの怖くなってきたわ。乗った!」
その瞬間、会議室に柔らかな空気が流れた。
拓実がいない穴を埋めるのではなく、新しいやり方を生み出す。えまの静かな覚悟が、チームをまた一歩、前に進めていた。
午後、えまは一人、市庁舎の上階にある予算管理課を訪れた。資金の一部が凍結されるという通達を受けたのだ。窓口にいたのは、かつての上司である課長・渡辺だった。
「久しぶりだな、えま君。で、今日は何の用件だ?」
渡辺の声には、どこか試すような響きがあった。
「予算第4号案の一部、仮設施設に関する予備費が凍結されたと聞きました。理由を伺いに来ました」
「ふむ、率直だな。理由はひとつ。拓実君が抜けたからだよ。彼は特別な存在だった。だが……今は?」
えまは一瞬、言葉に詰まった。
しかしすぐに、視線をまっすぐに戻した。
「今は、チームで回す体制に切り替えています。私が責任をもって、遂行します。なので――予算凍結を解除していただけますか?」
「君に、できるのか?」
その言葉に、えまは一歩前に出た。
「私には、拓実さんほどの経験も胆力もありません。でも、彼から学びました。“現場を見ること”。“人を信じること”。“まず動くこと”。私はもう、書類の中にだけ答えを探すような仕事には戻りません」
渡辺は数秒黙っていたが、やがて椅子を引いて立ち上がると、窓の外を見た。
「……市民からの支持率、上がってるらしいな。特に、若者層から。あの“湯屋”が効いたか?」
「はい、あれは拓実さんの知恵です。でも、それを動かしたのはチームです」
「なるほど。――よし、凍結は解除しよう。だが一つ条件がある」
「条件?」
「来月の中間報告を、君が単独で行うこと。市長と経済部長を前にプレゼンしてもらう。言い訳は一切なし。どうだ?」
えまは緊張で喉が渇いた。しかし、それでもはっきりとうなずいた。
「受けます」
「……フフ、言ったな。君も変わった」
えまは深く頭を下げ、その場を後にした。背後で渡辺が「……面白くなってきた」と呟いたのが、はっきりと聞こえた。
――
その夜、えまは仮設会議室で仲間に報告した。
「凍結は解除されました。でも来月、私が中間報告に立たなきゃいけなくなったの」
「単独で? 市長の前で?」と遼平が驚きの声をあげる。
「うわあ……胃に穴空きそう」と海翔が頭を抱える。
えまは肩をすくめた。
「私もそう思う。でも、逃げない。これを乗り越えて、ようやく“拓実さんの背中”が見える気がするの」
その言葉に、全員が黙ってうなずいた。
夜風が窓を鳴らす。外の商店街には、灯りがひとつ、またひとつと戻りつつある。
えまの中で、覚悟が確かな形になり始めていた。




