第30話 決裂か、共存か
市庁舎五階、議会用応接室。午前九時。拓実はぴたりと秒針が重なるのを見届け、そっと腕時計を外した。
これから始まるのは、戦いだ。
白を基調とした室内には、既に関係者が勢揃いしていた。リゾート開発を進める外資系企業「パシフィック・フロンティア」側には、幹部のダニエル・ラフマンを筆頭に三名。対する日向坂市側は、市長とえま、咲、そして拓実。ほかに都市計画課、議会事務局、報道関係者までが後列に控えていた。
「おはようございます。本日は――」
冒頭の市長挨拶が終わると、すぐさまダニエルが開口一番に切り出した。
「われわれはすでに、提示可能な条件を出し尽くしています。これ以上の譲歩は、残念ながら……」
拓実はその言葉を制すように、ゆったりと片手を上げた。
「それでもなお、本日は話し合いの場を持っていただいた。そこに感謝します」
無駄な圧は掛けない。それが彼の流儀だった。
えまが用意していたスライド資料を起動し、咲がプロジェクタの操作を担った。画面に映ったのは、これまでの経緯、提出された修正案、そして地元住民から寄せられたおびただしい意見書。
そしてその中心に、一枚の画像が表示された。
「……これは?」
ダニエルの声がわずかに揺れる。
画面には、開発予定地に立つ大樹――通称『日向の大樫』が夕焼けに染まりながら佇む写真が映し出されていた。その根元には、子どもたちと老人たちが輪になって座っている。
「この木を、残せない理由はありますか?」
拓実の声が、静かに室内を貫く。
「開発にとって大きな障害だと、以前ご説明したはずです」
「ええ。ですから、技術的代替案をいくつか提示しました。周辺道路の曲線調整、配管ルートの変更、建設スケジュールの見直し。それでも“できない”と仰るのであれば、それは感情ではなく、論理の問題ではありませんか?」
会議室に沈黙が訪れる。
えまがすかさずフォローを入れる。
「市としても、一方的な拒絶ではありません。ですが、文化的資産や住民感情を無視したままの開発に、我々は税収の増加という一点だけで賛同するわけにはいかないのです」
「文化と経済の両立など、現実には……」
ダニエルの言葉に、今度は咲が噛みつく。
「ではこれは? パシフィック・フロンティアが過去にアジア各地で進めた開発案件。住民訴訟、環境NGOの告発、未払い賠償。すべて公開記録です」
咲の提示したデータにより、空気が一変する。
拓実は立ち上がった。
「断言しましょう。我々は外資そのものを敵視しているのではない。共に歩む姿勢があるかどうかを問うているのです」
「……では、具体的にどうしろと?」
ダニエルがため息をつきながら尋ねる。
その問いに、拓実は用意していた“最後のカード”を出す。
「市と御社が共同出資する“地域型観光開発法人”を新設します。その代表は第三者の経営人材とし、ガバナンスは双方の合議。土地開発権については段階的に移行し、地元企業との業務提携比率を明文化すること」
息を呑む音が、そこかしこから聞こえた。
咲もえまも、まったく知らされていなかった案だ。しかし二人とも、反対しなかった。彼女たちもまた、拓実の“読み”を信じていたからだ。
「……条件次第ですが、検討には値します」
そう答えたダニエルの横顔に、初めて“交渉の余地”が見えた。
会議は休憩を挟んで、午後に持ち越された。
応接室の外で、えまが拓実をじっと見つめる。
「……あの案、なぜ今まで私たちに話してくれなかったんですか?」
拓実は自販機で買った缶コーヒーをえまに手渡した。
「驚かせて悪かった。でも、“その場で選択肢を出される側”の緊張感は、当事者にしかわからない。きみたちが当事者に変わった証拠だよ」
えまはコーヒーを受け取り、沈黙のまま缶の温かさを指先で感じていた。
「……拓実さんが、私たちを一人前として扱ってくれたって、ことですよね」
「そういうことだ」
午後の会議は、想像以上に穏やかだった。
パシフィック・フロンティア側は、市の提示した共同出資案を検討する意向を示した。さらに、開発予定地に残された『日向の大樫』についても、敷地内公園として保護する方向で調整可能と発言。
「多少の収益性は犠牲になりますが、社会的責任を果たすという点では、御提案は理にかなっています」
ダニエルのこの一言に、市長も深く頷いた。
「では、市議会と市民説明会での合意形成を前提に、正式契約に向けた協議を進めましょう」
ついに、握手の時が来た。
拍手が起こり、報道陣がフラッシュを焚いた。えまの表情は少し泣きそうだったが、懸命に笑顔を保っていた。咲は資料をまとめながら「ふん」と鼻を鳴らすようにしていたが、その頬は赤い。
拓実は窓の外を見た。
夕方の空に、柔らかな茜色が広がっている。
遠くに見えるのは、あの“大樫のある丘”だ。
――守れたな。
そう呟いた言葉に、誰も気づかなかった。
だが、その静かなひとことが、最も深くこの交渉を物語っていた。




