第3話_路地裏のコーヒー
文具店跡地での帳簿分析から三日後。拓実は、日向坂駅前から少し離れた裏通りを歩いていた。午後の陽射しはすでに夏の気配を帯び、路地に差し込む光が壁のポスターを照らしている。
かすかにコーヒーの香りが漂ってきた。香ばしく、それでいてどこか気まぐれな香り。拓実はその匂いを辿るようにして、ひとつの空き地にたどり着いた。
そこには銀色の小さなキッチンカーが停まっていた。
側面を跳ね上げたその車のカウンターには、小さな黒板に「Café うみかぜ」と書かれている。シンプルなロゴ、手書きのメニュー、そして無造作に置かれた木のスツール。
「おっちゃん、コーヒー飲んでく?」
声の主は、カウンターの奥でポータブルエスプレッソマシンを操作していた青年だった。浅黒い肌、くしゃっと笑う顔、Tシャツ姿で、肘には絆創膏が貼られている。
「……この辺じゃ珍しい、移動カフェか」
「そうっすね。固定店なんてリスク高すぎて。オレは、いい場所にちゃちゃっと来て、売って、引き上げる。今が良ければ、それでいいって思ってるんで」
拓実は「ふむ」と小さくうなずいた。
「コーヒー、ください。苦めで。……それと、名前は?」
「はいよ。コロンビア豆の深煎りね。俺、海翔です」
彼はスチームの音を立てながら、手際よくカップを用意した。
紙カップに注がれたコーヒーから、ふわりとした湯気が立つ。拓実は一口啜り、舌先で味を確かめた。
「……思ったより、丁寧だな」
「ん? ああ、見た目ちゃらんぽらんってよく言われますけど、コーヒーは“ごまかせない”って思ってるんで」
「なるほど。味は誠実、営業は刹那主義か」
拓実は、どこか楽しそうに目を細める。
海翔はコインを受け取りながら、首を傾げた。
「おっちゃん、何者? 銀行マンって感じじゃないし、でも商売っ気あるし、なんか“見る目”ありそう」
「無職です。ただ、少しだけ、人の流れと金の匂いには鼻が利く」
海翔が笑いながら言った。
「じゃあ……この場所、どう思います?」
「正直に言うと、通行量は少ない。でも、“若者が息抜きできる余白”がある。音も光も程よく抜けていて、居心地が悪くない。……つまり、“立地じゃなくて、居場所としての価値”がある」
「おっちゃん、やば……なんでそんなことわかんの?」
拓実は指でカップの縁をなぞった。
「君みたいな“今だけ”で生きてる若者が、実は一番鋭い需要を拾ってる。気まぐれに見えるけど、その場で“何が求められてるか”に敏感だ。ビジネスってのは、そこから始めればいい」
「……え、つまり、オレのこのノリ、アリってことっすか?」
海翔は驚いたように目を見開いた。今まで何人にも「そんなの続かない」と笑われてきた彼にとって、“中年の肯定”は思った以上に重たかった。
「ただし」
拓実は言葉を切る。
「“今だけ”をやるなら、それを“仕組み”にしろ。今日だけ当たっても意味はない。“当たる条件”を記録して、再現性を作る。そうすれば、君の気まぐれは、“戦略”になる」
「……なんか、ビジネス書みたいだな……でも、めちゃくちゃ刺さる」
海翔は頭をかいて、照れくさそうに笑った。
「この街、若者向けの居場所が極端に少ない。君のカフェ、イベント的に活かすなら仮設マーケットの導入にも使える。営業許可の関係で市との調整は必要だが……」
「おっちゃん、それマジでやるの?」
「動いてる。俺の条件はひとつだけ。“数字だけじゃなく、人の感覚も拾う”こと」
その言葉に、海翔は急に真顔になった。
「……だったら、オレ、協力します。たぶん、理屈よりも“感覚”の方が、早いときもあるんで」
「そのセンス、借りますよ。あと、君のSNS、更新頻度高いね?」
「あ、見たんすか? 一応インスタで毎日カフェ情報アップしてます。動画もたまに。自己流ですけど」
「だったら、仮設テストマーケットの“動向観測”に使わせてほしい。ユーザーの反応を数字と感覚の両方で拾える」
「なにそれ……急にビジネスっぽくなってきたな」
笑いながらも、海翔の顔にはどこか緊張感が混じっていた。
「やるなら、本気でやってくださいね。オレ、適当な大人には手貸さないんで」
その言葉に、拓実は深くうなずいた。
「……安心しろ。俺は、もう“軽い約束で人を巻き込む”年齢じゃない」
静かに、しかし確かに二人の間に信頼が芽生え始めていた。
その場を離れようとした拓実の目に、道路の向こう、アーケードの入口に佇むひとりの女性が映った。
すらりとした立ち姿。黒髪を後ろに束ね、控えめながらも芯のある雰囲気。拓実が視線を向けると、彼女――薫は、深く一礼した。
「……瀧本さん、お話、聞いてもいいですか。商店街事務局として」
拓実は足を止め、わずかに口元を緩めた。
「もちろん。現場の声、待ってました」
コーヒーの香りがまだ残る路地で、再生の芽は静かに、しかし確かに根を張りはじめていた。