第22話_えまの試算
日向坂市役所、第二会議室。冷房の効きすぎた室内に、えまのタイピング音が乾いた音を立てて響いていた。窓の外では蝉が鳴いている。夏本番だ。
「……市税収入の推移は、仮に観光客の年間流入数が初年度二十万人に届けば……次年度の地方交付税は……」
えまの目は、ディスプレイの数字を睨みつけたまま動かない。十年分の財政シミュレーション。法人税、宿泊税、市民税、波及効果――全てを織り込んだ。結果は――市側には一応の“黒字”が出る。
だが、それは“あくまで紙の上”だった。
えまは椅子にもたれ、深く息を吐いた。
「これじゃ、納得されないわよね……特に、拓実さんには」
資料をプリントアウトし、彼女は静かに立ち上がる。目的地は市長室。その途中で――
「えまさん!」
呼び止めたのは海翔だった。手には冷えたペットボトルと、紙袋。
「これ、差し入れっす。クーラーの中って、逆に体調崩すでしょ。あと……例の計算、できました?」
えまは一瞬、驚いた顔を見せた。
「あなた、ちゃんと計算のことを気にしてたの?」
「当たり前っすよ。俺、カフェやってるとはいえ、数字も無視してるわけじゃないっす。感覚だけじゃやってけないの、最近やっと分かってきました」
少しだけ笑って、えまは頷いた。
「ありがとう。じゃあ、これ一緒に市長に持っていって、どう伝えるか考えましょ」
市長室。机に向かう市長の前に、えまと海翔が並ぶ。えまは静かに資料を差し出し、そして語った。
「これが、リゾート開発後の十年分の税収試算です。ただし、これは最良のシナリオに基づくもの。実際には、観光客数の頭打ち、地元商店の売上減少、人口流出の加速といったリスクが現実的に存在します」
市長は無言でページをめくり、しばらくして顔を上げた。
「……君たちは、このリゾート計画に反対なのかね?」
えまは言葉を選びながら答える。
「完全に反対というわけではありません。ただ、リスクを市民に見せないまま、“夢のような未来”だけを押し出すのは、誠実な行政とは言えません」
市長の目が細められた。その表情には、苦渋と、責任の重みが滲んでいる。
「……ならば、代案は?」
その瞬間、海翔が口を開いた。
「あります。“俺たちの街”を売るんじゃなく、“俺たちで作る観光”にすればいいんです。一発ドカンより、地元の人が毎日働いて、地元の味を出して、地元で笑える。そんな道もあるんすよ」
静まり返った空気の中、えまは頷いた。
「そのための具体案を、拓実さんがまとめています。市民を軸にした“日向坂型パブリックリゾート構想”です」
市長の目が、じわりと熱を帯びた。
翌日、拓実はえまから手渡された資料を眺めながら、商店街の空きベンチで缶コーヒーを開けた。朝の陽差しはまだ柔らかく、遠くから鳥の鳴き声が聞こえる。
「思ってたより、ずっと整理されてるな」
隣には咲。帳簿をめくるような手つきで、えまの資料に目を通していた。
「地元への影響もちゃんと書いてある。珍しいわね、役所の資料でここまでリスクを明示するのって」
拓実は笑った。
「えまは、理屈だけの人間じゃないんだよ。足で集めて、頭で組んで、心で伝える。……いい意味で変わってきたな」
咲は口元をわずかに緩めた。
「で、あんたは? この計画、どうまとめるつもりなのよ。そろそろ“おっさんの出番”じゃない?」
「もちろん」
拓実は膝の上に書類を広げながら、静かに語り出した。
「市民を“お客”じゃなく、“担い手”に変える仕組みを入れる。例えば、民泊運営に地元の主婦たちを組み込む。食事は商店街の持ち回り。観光案内には高校生ボランティア。日向坂市が“迎える側”として自立する構造を、最初から仕掛けるんだ」
咲は目を丸くする。
「それ、観光っていうより“まちぐるみの接待”ね」
「そう。“暮らすように旅する”じゃなくて、“旅人を巻き込んで暮らす”。その逆発想だ」
彼の言葉に、通りすがりの海翔が「面白いじゃん、それ」と声をあげた。彼の手には、小さなモフモフが一匹。新たに拾ってきた猫らしい。
「この子、名まえ“チャイ”でどうすか? ウチのカフェに置いといたら、子どもが勝手に名付けてて」
「いい名前だな」
拓実は微笑んで、チャイの頭を撫でた。
「お前も、日向坂の住人だな」
そのとき、えまが小走りでやってきた。
「拓実さん、市長が“あなたの案を詳しく聞きたい”って」
「なら、行こうか。俺たちの、日向坂を売らないリゾート――語ってくるよ」
彼は立ち上がり、ゆっくりと歩き出した。ベンチに残された缶コーヒーの残り香が、風に溶けた。
チャイが小さく「にゃあ」と鳴いた。




