第2話_十年越しの帳簿
日向坂商店街の裏手、かつて「井筒文具店」が営業していた木造二階建ての建物は、雨上がりの空気に包まれながらも、静かにその時を待っていた。
拓実はえまの手配で借りた鍵を使い、錆びついたシャッターを音を立てて引き上げた。軋む音と共に、薄暗い店内が現れる。かつて子どもたちの笑い声が響いていたであろう空間には、今やほこりと沈黙だけが残されていた。
「うわ……これは想像以上にそのままですね」
えまが後ろから中を覗き込む。拓実は棚に積まれた箱を丁寧にどけ、奥の引き出しを開けていった。目当ては――帳簿だった。
古びた帳簿を一冊一冊、拓実は黙って手に取り、ページを繰る。日付、商品名、金額、時に走り書きされたメモ。
「……生きてる」
「え?」
「この店、単なる文具屋じゃない。子どもに合わせた仕入れと、お年寄り向けの筆記具。それに……消しゴムが毎週土曜にだけ跳ねてる」
えまが目を瞬く。
「……どういう意味ですか?」
「つまり、“塾帰りの中学生が立ち寄っていた”という証拠。仕入れ日と販売数の増減で、行動パターンまで読める」
拓実の目は細かく帳簿の流れを追っていた。まるでコードを読み解く技術者のように。
「この店が潰れたのは、需要の枯渇じゃない。継承者不在と、周囲の流れに取り残されたことが原因。……だが、この需要、まだ街に残ってる」
「そんなことまで、数字で分かるんですね……」
「いや、“数字だけじゃ”無理なんです」
拓実は帳簿を閉じ、棚の奥から一枚の古い紙を取り出した。そこには、丁寧な手書きの地図と、商品別の売れ筋リストが綴られていた。
「このメモは――おそらく、店主が次の世代に引き継ぐために残したもの。だが、継がれることはなかった。悔しかっただろうな……」
彼の指先が、地図の端を静かに撫でる。その手は銀行員時代に幾多の資産を査定してきた、確かな経験に裏打ちされていた。
「これ、持ち帰っても?」
えまが聞くと、拓実は首を横に振った。
「ここに置いておく。“現地資料”は現地に。これも、尊重すべき文化です」
えまは静かにうなずいた。そこには、机上のデータでは得られない“記憶”が刻まれている。
「この帳簿とメモをもとに、“今でも必要とされている商材”を拾っていきます。えまさん、誰か信頼できる数字のプロはいませんか? 会計の視点で一緒に精査してくれるような」
拓実の問いかけに、えまはすぐに名を挙げた。
「咲です。会計士で、市との契約業務も何度かやっていて。ちょっと冷たい印象を持たれやすいけど、実務は確かです」
「冷たいのは歓迎です。感情で帳簿を読む者よりずっといい」
その日の午後、えまが呼び出した咲が姿を現した。アイスグレーのジャケットに白のインナー、眼鏡越しの視線は鋭く、表情一つ変えずに「どうも」と一言だけ告げた。
元文具店の棚に腰かけるようにして、咲は帳簿と売上メモに目を走らせる。
「……十年前のものにしては、記録が丁寧。ページの破損も少ない。よく残ってましたね」
「それが、この店の“真面目さ”です。真面目な帳簿は、必ず活きる」
拓実の言葉に、咲は「まあ」とだけ返し、ノートPCを開いた。
「売上構成比と曜日ごとの販売傾向を照らします。週ごとの変動幅が低ければ、需要は“習慣化”されていた可能性が高い」
「面白いな……思ったよりも分析好きですね、咲さんは」
「好きとかじゃない。こういうのは“答えが出るから”やる価値がある」
無表情なまま、咲の指はキーボードを淡々と打ち続ける。横から覗き込んでいたえまが、「本当に冷たい……」と小声でつぶやくと、咲は即座に反応した。
「聞こえてる」
えまは慌てて口を手で押さえたが、拓実はむしろ楽しげに微笑む。
「それで……どうです?」
数分後、咲は画面を見ながら言った。
「夏と秋に売上が上がってる。“学校のイベント”が影響してる可能性が高い。文化祭前後の仕入れ増加、絵の具や模造紙が集中して売れてます」
「つまり、“学校と連携できれば、一定の需要を回収できる”ということですね」
拓実は、咲の分析を元に思考を巡らせる。
「えまさん、市内の中学校と高校、今年の文化祭予定を教えてもらえますか?」
「はい、すぐ調べます」
「……そして、可能なら、“地域限定のイベント連携”という建付けで、仮設販売を仕掛ける準備を。場所は――そうだな、まずは空き地のある西口公園前あたりがいい。導線が生きてる」
その名を聞いた咲がわずかに目を上げた。
「そこ、うちの父がやってる印刷所の裏です」
「ほう……ということは、協力は?」
「……父次第ですけど、私が説得してみます。利益が見えれば、あの人は動きます」
「それで充分です」
拓実は、今にも動き出しそうな微笑みを浮かべ、古びた帳簿をもう一度丁寧に閉じた。
十年前に終わったと思われていた記録が、今また息を吹き返す。
そのとき、えまがふと口にした。
「ねえ拓実さん……あなた、何者なんですか?」
拓実は肩をすくめて、笑った。
「ただの、失敗済み中年です。でもまあ、“少しだけ、数字を読む目”があるだけです」