表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

2/11

第2話_十年越しの帳簿

 日向坂商店街の裏手、かつて「井筒文具店」が営業していた木造二階建ての建物は、雨上がりの空気に包まれながらも、静かにその時を待っていた。

  拓実はえまの手配で借りた鍵を使い、錆びついたシャッターを音を立てて引き上げた。軋む音と共に、薄暗い店内が現れる。かつて子どもたちの笑い声が響いていたであろう空間には、今やほこりと沈黙だけが残されていた。

 「うわ……これは想像以上にそのままですね」

  えまが後ろから中を覗き込む。拓実は棚に積まれた箱を丁寧にどけ、奥の引き出しを開けていった。目当ては――帳簿だった。

  古びた帳簿を一冊一冊、拓実は黙って手に取り、ページを繰る。日付、商品名、金額、時に走り書きされたメモ。

 「……生きてる」

 「え?」

 「この店、単なる文具屋じゃない。子どもに合わせた仕入れと、お年寄り向けの筆記具。それに……消しゴムが毎週土曜にだけ跳ねてる」

  えまが目を瞬く。

 「……どういう意味ですか?」

 「つまり、“塾帰りの中学生が立ち寄っていた”という証拠。仕入れ日と販売数の増減で、行動パターンまで読める」

  拓実の目は細かく帳簿の流れを追っていた。まるでコードを読み解く技術者のように。

 「この店が潰れたのは、需要の枯渇じゃない。継承者不在と、周囲の流れに取り残されたことが原因。……だが、この需要、まだ街に残ってる」

 「そんなことまで、数字で分かるんですね……」

 「いや、“数字だけじゃ”無理なんです」

  拓実は帳簿を閉じ、棚の奥から一枚の古い紙を取り出した。そこには、丁寧な手書きの地図と、商品別の売れ筋リストが綴られていた。

 「このメモは――おそらく、店主が次の世代に引き継ぐために残したもの。だが、継がれることはなかった。悔しかっただろうな……」

  彼の指先が、地図の端を静かに撫でる。その手は銀行員時代に幾多の資産を査定してきた、確かな経験に裏打ちされていた。

 「これ、持ち帰っても?」

  えまが聞くと、拓実は首を横に振った。

 「ここに置いておく。“現地資料”は現地に。これも、尊重すべき文化です」

  えまは静かにうなずいた。そこには、机上のデータでは得られない“記憶”が刻まれている。



 「この帳簿とメモをもとに、“今でも必要とされている商材”を拾っていきます。えまさん、誰か信頼できる数字のプロはいませんか? 会計の視点で一緒に精査してくれるような」

  拓実の問いかけに、えまはすぐに名を挙げた。

 「咲です。会計士で、市との契約業務も何度かやっていて。ちょっと冷たい印象を持たれやすいけど、実務は確かです」

 「冷たいのは歓迎です。感情で帳簿を読む者よりずっといい」

  その日の午後、えまが呼び出した咲が姿を現した。アイスグレーのジャケットに白のインナー、眼鏡越しの視線は鋭く、表情一つ変えずに「どうも」と一言だけ告げた。

  元文具店の棚に腰かけるようにして、咲は帳簿と売上メモに目を走らせる。

 「……十年前のものにしては、記録が丁寧。ページの破損も少ない。よく残ってましたね」

 「それが、この店の“真面目さ”です。真面目な帳簿は、必ず活きる」

  拓実の言葉に、咲は「まあ」とだけ返し、ノートPCを開いた。

 「売上構成比と曜日ごとの販売傾向を照らします。週ごとの変動幅が低ければ、需要は“習慣化”されていた可能性が高い」

 「面白いな……思ったよりも分析好きですね、咲さんは」

 「好きとかじゃない。こういうのは“答えが出るから”やる価値がある」

  無表情なまま、咲の指はキーボードを淡々と打ち続ける。横から覗き込んでいたえまが、「本当に冷たい……」と小声でつぶやくと、咲は即座に反応した。

 「聞こえてる」

  えまは慌てて口を手で押さえたが、拓実はむしろ楽しげに微笑む。

 「それで……どうです?」

  数分後、咲は画面を見ながら言った。

 「夏と秋に売上が上がってる。“学校のイベント”が影響してる可能性が高い。文化祭前後の仕入れ増加、絵の具や模造紙が集中して売れてます」

 「つまり、“学校と連携できれば、一定の需要を回収できる”ということですね」

  拓実は、咲の分析を元に思考を巡らせる。

 「えまさん、市内の中学校と高校、今年の文化祭予定を教えてもらえますか?」

 「はい、すぐ調べます」

 「……そして、可能なら、“地域限定のイベント連携”という建付けで、仮設販売を仕掛ける準備を。場所は――そうだな、まずは空き地のある西口公園前あたりがいい。導線が生きてる」

  その名を聞いた咲がわずかに目を上げた。

 「そこ、うちの父がやってる印刷所の裏です」

 「ほう……ということは、協力は?」

 「……父次第ですけど、私が説得してみます。利益が見えれば、あの人は動きます」

 「それで充分です」

  拓実は、今にも動き出しそうな微笑みを浮かべ、古びた帳簿をもう一度丁寧に閉じた。

  十年前に終わったと思われていた記録が、今また息を吹き返す。

  そのとき、えまがふと口にした。

 「ねえ拓実さん……あなた、何者なんですか?」

  拓実は肩をすくめて、笑った。

 「ただの、失敗済み中年です。でもまあ、“少しだけ、数字を読む目”があるだけです」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ