第1話_雨上がりのアーケード
雨上がりの朝、日向坂市の駅前商店街は静寂に包まれていた。濡れたアスファルトが鈍く光り、シャッターの並ぶアーケードに、水滴を弾く音が微かに響く。かつては人通りで賑わったこの通りも、今では開いている店を探す方が難しい。
瀧本拓実は、濃いグレーのスーツに濡れた革靴を引きずるようにして歩いていた。背筋は伸びているが、その表情には疲労と諦めが漂っている。つい先月まで都市銀行の支店長だった男が、今はどこへ向かうでもない足取りで商店街をさまよっていた。
立ち止まったのは、かつて文具屋だった一軒の前。薄く汚れた看板に「井筒文具店」の文字がうっすらと残っている。かすかに開いたシャッターの隙間から、古びた木製の陳列棚が見えた。
そのとき、後ろから控えめな足音がした。
「……おはようございます」
振り返ると、スーツ姿の若い女性が、折りたたみ傘を畳みながらこちらを見ていた。ベージュのパンツスーツに身を包み、控えめな笑顔を浮かべている。名札には「市役所財政課 山城えま」とあった。
「あなたも、ここが気になって?」
拓実はわずかに眉を上げた。「この時間に、役所の人間が商店街にいるとは珍しいですね」
「課長に黙って抜け出してきました。あ、もちろん、業務の一環ということで……」
えまは慌ててそう付け加えると、傘を軽く振って水を払った。
「閉まったままの店ばかりですが、ここ、本当は可能性があると思ってるんです。地図にない導線、古いながらも人の流れがつながる形をしている」
拓実は無言で彼女の言葉を聞いていたが、ふと目を細める。
「……あなた、理論で動くタイプですね。でも、理屈だけじゃ、この通りは動かない」
「……分かってます。でも理論がないと、動かしたくても信用されないでしょう?」
その返しに、拓実の唇がわずかに動いた。笑ったのか、ため息か――。
「名前は?」
「山城えまです」
「俺は瀧本拓実。……元、銀行員。今は無職です」
えまの表情がわずかに曇る。
「もしかして……」
「ええ、日向坂支店の、最後の支店長でしたよ」
気まずい沈黙が落ちた。しかし、それを破ったのは拓実だった。
「こんな朝に、理論武装した市役所職員がシャッター街を歩いているなんて……」
そう言って、小さく息をついた。
「面白い。タダでいい。調査だけなら協力しましょうか。無職には時間だけはあるのでね」
えまが目を見開いた。すぐに眉を寄せ、「本気で?」と尋ねる。
拓実は、濡れた革靴のつま先で、アーケードの縁に溜まった雨水をわずかに蹴った。
「ただの散歩じゃ、時間がもったいない」
拓実のその一言で、二人の足は自然と並んだ。
「じゃあ、まずは現状を……」と、えまが市役所のタブレットを取り出しかけた瞬間、拓実が手を軽く上げて止めた。
「現状分析は、まずこの目で見る。書類の数字より、風の流れと埃の溜まり具合を見たほうが早い」
えまが驚いた顔をした。そこにあったのは、単なる元銀行員ではない、現場の勘と積み重ねた経験から出る静かな確信だった。
二人は、シャッターが下りた店々をゆっくり歩いた。ある店の前では、ポスターが色褪せて風に揺れ、別の店舗のガラスには、貼られた「貸店舗」の文字が斜めに剥がれかけている。
「ここ、以前は靴屋だった。高齢夫婦がやってたが、三年前に店じまいした。店内レイアウトは古いが、奥の倉庫は意外と広い。使い道はあるかもしれません」
「どうしてそんなことを……?」
「融資の下見で何度も来た。商店街の店主連中とは、一応の顔見知りですから」
えまが口を閉じる。拓実の言葉の端々から、かつての責任感と、失ったものへの痛みが感じ取れる。彼はただ歩いているだけでなく、この商店街の記憶と共に歩いていた。
「気づきましたか?」
拓実が突然立ち止まった。
「え?」
「あの雑貨屋跡。シャッターは下りてるのに、足跡が新しい。雨上がりなのに、乾いた箇所がある」
えまは、あわてて目を凝らす。確かに、地面の一部が不自然に乾いていた。
「誰か、定期的に入ってる。個人か、もしくは貸し出しを検討してる所有者かもしれませんね。そういう場所を拾っていけば、まだ芽はある」
「まるで探偵ですね」
「いや、観察するのが癖になってるだけです。失敗した人間は、周囲の変化に敏感にならざるを得ない」
その言葉に、えまは沈黙した。
歩きながら、拓実は時折、メモも写真も撮らず、ただ視線と記憶で情報を蓄積していった。えまが市役所の人間として培ってきた知識とは違う、「肌感覚の情報収集」だった。
「山城さん、質問です」
「はい」
「この商店街に、再開発計画があったと聞いてます。進んでない理由は?」
えまは、しばし言葉を探した。
「……官民連携の齟齬、地権者の分散、予算の優先度、いろいろです。でも一番は、“決定者が現場を見てない”ことです」
「なるほど。それが一番の病巣かもしれませんね」
拓実は立ち止まり、アーケードの柱に手を添えた。
「この構造物は三十年前に補修された痕跡がある。鉄骨がまだ健在なら、あと十年は保つ。だったら、急ぐべきは壊すことじゃなく、“使いながら考える”ことです」
「仮説と実地、両立するプランを……」
「可能ですよ。もしあなたが、本気でこの通りを変えたいのなら、俺は動きます」
その言葉に、えまは静かにうなずいた。
「では、お願いできますか。無償とは言いません。市としても、必ず正式に……」
「タダでいいと言ったでしょう。……ただし、条件が一つある」
「……条件?」
拓実は、にやりと笑った。
「現場の邪魔はしない。数字の世界と現場は、見ているものが違う。あなたがそれを理解するなら、俺も全力で動く」
その笑みは、銀行員としての威圧感ではなく、“かつて信頼を背負って動いてきた男”の静かな自負だった。
アーケードの上空を、一羽のカラスが横切った。雨上がりの曇天の向こう、わずかに光が射していた。