ここで一句
田舎町の七月の午後。
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長いですが、散文詩な訳ではありません。強いていえば、スケッチ(但しフィクション)です。[2025.4.16:短編はあらすじが検索にしか出ないことに今更気付いたので、前書き追加しました。本文・後書きに変更はありません]
七月の午後の田舎町である。
片側一車線の立派な県道、ガードレールの内側の歩道を、二人の人物が、並んで歩いていた。
全く同じ濃灰色のズボンに、色は白と同じながら片方は開襟シャツ、片方はポロシャツという出で立ちである。
それを身に纏っている人物の齢を併せて推測した時、大体の第三者が、それは「制服」だと認識するだろうし、実際にそうだった。
同じ方向に家がある者同士が、地元の中学校から下校途中なのである。
都会の同世代から見れば、片側一車線しかない道路が「立派」とは片腹痛いかもしれないが、この二人の中学生は親や祖父母から、
「この道が拡がるまでは、大型車とすれ違うのが怖かった」
とか、
「ガードレールが無かったから、脱輪した車が田に落ちたことがあった」
とか聞いているので、大型車同士が車線を跨がずにすれ違えて、歩道と車道の間にガードレールがあり、もう「子供」の体型ではなくなった二人が並べる幅の歩道がある、この状態は立派と云っても良いだろうと、漠然とだが、納得している。
とは云え、その状態が三キロは続かない。――実際、さっき分かれた同級生は、今二人が歩いている方向と反対に歩いて行くことになるのだが、彼の家路はあと三百メートル程で歩道が無くなって、路側帯だけになることも知っている。
小学校・中学校・銀行・郵便局・診療所・役場、そういう、最低限「町」にあって欲しいものが集まっている中心的区域だから、ある程度の幅を持った道が通っている――ちなみに、この田舎町に鉄道駅は無い。
この区域から離れていくに従って、「県道」は「片側一車線」と云いきるのも苦しくなり、俗に云う「険道」の区間もある。
それでも、たった今の場合は、立派な県道と云って差し支えない。
何せ、二人の内、少し背の高い方は、自転車を押しながら歩いている。実際には、二人の間に自転車を挟んで並べているのだから、少なくとも、この歩道には何の文句も無い。
ガードレールの内側、つまり歩道の側に街路樹が等間隔で植わっている。
七月の昼間なのだ、二人とも、全く意識せず、街路樹の根元に落ちている葉影を狙いながら歩いている。
道幅は変わらないまま街路樹が植わっているから、流石に、その下に入っていくときは、少し背の低い方が、自転車の後ろに付くように縦に並ぶ。
よって、自転車を押している方は比較的真っ直ぐ歩いているが、もう片方は、足取りが蛇行しているように見える。
じわじわじわじわじ
二人が一本の木の傍を通過する瞬間、ずっと鳴っていた蝉の音が、ピタッと止まる。
その時に、「ああ、蝉がうるさい」と思うので、基本的に蝉は意識されてないデフォルトの夏の環境音ということだ。
実際には、恐らく二人が近づいた木に留まっていた蝉の音だけが止まっているのだろうから、別の街路樹の蝉はもう少し小さな音で
しゅわしゅわしゅわしゅわ
ずっと鳴っているし、背中側の山の方からも、今歩いている道の木のそれらとは比べものにならない音が固まって、ここまで届いてきている。
だから、音が止まったときに、「うるさい」と思うのである。
ちなみに、制服を着ているこの二人が並んで下校していることは、レギュラーではない。
期末試験中で部活動が無いから、だ。
二人は入っている部が違うので、下校時刻が異なることもある。よって、一緒に下校すること自体が毎日ではないし、一緒に帰る時でも、片方が制服で片方がジャージ、両方ともジャージのまま、ということの方が多い。
だから、今の状態の方が、「イレギュラー」である。
今歩いてきた県道とは違う、もう一本の古くて新しい県道との交差点にぶつかる。
「古くて新しい」の所以は、その道はもともと国道であったが、此処からもう少し離れたところにバイパスが出来、そちらが国道になったので、元からあった方は県道になった、という経緯に拠る。
道自体は、今歩いてきた道よりずっと昔からある。県道となったのが、今歩いてきた道より最近なのである。
歩行者信号が目の前で青の点滅から赤になったので、二人とも足を止める。
「あっちぃ…」
街路樹の列は、この交差点で一度絶える。
歩道が広い分、今立っている場所までは建物の庇の影も届かない――というより、田舎町なので三階以上高さがある建物など殆ど無いから、ただでさえ夏の昼間、建物の敷地の外まで落ちる影も無いのだ。
自転車を押していた方が、独り言にしては大きな声で呟いたが、もう一人は「暑いと口にしたらまだ暑くなる」と心頭滅却しながら額を掌で拭うだけにする。
相槌すら無いことに不満を云ってくるのでもなかったから、自転車を押していた方も、完全に独り言のつもりだったのだろう。
赤信号に足を止められている間、目の前を横切った車は、一台だけだ。
青になった瞬間に足を踏み出して横断歩道を渡り、示し合わせた訳ではないが二人ともが足早に、街路樹の葉影に向かって道を斜めに歩く。
横断歩道を渡るとしばらくは、真っ直ぐとした平坦な道である。
交差点までの道は、緩やかにカーブした緩やかな下り坂だった。
今歩いているこの県道は、新しい国道となったバイパスと元国道の県道を繋ぐ格好になっている。
もう少し歩いたら、道の駅がある。
どの道が出来たときに出来た道の駅なのか、まだ中学生の二人には分からない。二人にとっては、物心ついたときからある道の駅だ。
自転車の方の祖父母は、今の時期ならトマトやキュウリを、もう一人の祖父母と父は、通年で菊花を、この道の駅の産直コーナーに出している。
普段の下校時は、閉店間際の脇を通ることになるから雰囲気が暗くて、あまり意識していない。
今日は、まだ真っ昼間で明るいので、カラフルな路傍の幟や外壁の垂れ幕、ガラスに張られたポスターが、よく目に入った。
手書きらしいポスターの「夏季限定:地元野菜を使ったジェラート」という文字と、三本立っている「ソフトクリーム」の幟が、喉の渇きなのか空腹なのか分からないが、何にせよ本能的な口寂しさを刺激してきたので、二人は寄り道することにした。
父母の頃は、下校中の買い食いが校則で禁止されていたそうだが、それは、中学校の直ぐ近くの商店街がもう少し賑やかで、射幸心を煽るくじやメダルゲームなども置いていた駄菓子屋がまだ営業されていた時代の話だ。
その商店街の道は狭いので、県道を歩くより影は多いのだけど、それぞれの自宅までの道のりを考えたら、どっちかがとても遠回りになってしまうのだ。
ちなみにこの町には、中学生である二人が気軽に行ける、二十四時間営業のコンビニエンスストアなど無い。
道の駅は午後六時、その直ぐ傍のスーパーマーケットは夏期午後八時、冬期午後七時で閉店する。
一番近いコンビニエンスストアは、古くて新しい県道を車で十五分くらい走った先だ。だから、夜八時を過ぎて、「明日の美術の授業に必要なスケッチブックのページが終わっている」ことに気づいたりなどしたら、父か母に買ってきて貰うか車を運転して貰うか、になる。
ソフトクリームだったら、店内に入らなくても注文・精算・受け取りを出来る小窓が、自動ドアとは少し離れた場所にあるが、自転車を駐輪スペースに置いた後、二人とも迷うことなく両側に大きく開く自動ドアから店内に入った。
店内なら冷房が入っていることが明らかだからだ。冷たい物を食べたい、という口寂しさだけじゃなく、この暑さから逃れたい、という欲求とて、当然あった。
予想通りと云うのも変なくらいに、店内は涼しい。屋外との気温差で、一瞬、ぶるっと震えてしまったくらいである。
自動ドアから入ると直ぐに両側に産直品の並んだテーブルがあったが、二人は勿論、見向きしない。
当人達の意志に関係無く紐で引っ張られているかのように真っ直ぐ、冷蔵・冷凍のショーケースがある奥へ歩いて行った。
あんまり外が暑かったから、ジュースの冷蔵庫よりやはり、アイスの冷凍ショーケースに気が向く。
何処でも売っている全国メーカーのアイスがショーケースの半分くらいを埋めていたが、何の文字もイラストもない白いカップに品質表示シールを張って透明のプラスチック蓋を被せただけの素朴な品も、色とりどりのパッケージに負けじと、ケースのもう半分を埋めている。
「地元野菜を使ったジェラート」は、既存メーカーに製造を委託している訳じゃなく、地元で開発・製造をしているらしい。
「これ、じいちゃんのトマト、使ってんだって」
ケースを開けて、自転車を押していた方が、一角を指差す。透明の蓋に付いた霜からピンク色が覗いているカップである。
「へー」
ほんの微か、本当に微かなものであったが、声に誇らしげなものが混じっていたので、もう一人は、手に取ってみた。
曰くの「じいちゃんのトマト」そのものを、一度食べさせて貰ったことがある。トマトが嫌いな人間からしたら、「だからこそ嫌い」ということになるのだろうが、ちゃんとトマトの味が濃くて甘みがあってみずみずしくて、とてもおいしかった。
地元民は意外と、こういう機会でもなければ、地元のものを知らないままで終わる。
隣のメーカー品に比べたら圧倒的に高価なのだが、少なくとも、その隣の「ゴーヤ」と比べたら食欲を誘ったし、「あのトマト」で作ったジェラートの味を知りたくなったので、買うことにした。
ソフトクリームをスルーしたのは、店内で涼みたかっただけじゃなくて、「もろにミルク」の製品が選択肢に入らないくらいに暑かったからなのかもしれない。
紹介した当人はジェラートに、メーカー製アイスにすらそそられなかったらしく、冷蔵庫を振り返って、困ったように首を傾げた。
冷蔵庫にあるのも、味を想像した時に、今の気分に合わないものである。
百パーセント果汁のジュースとか、地元の牛乳を使った乳酸菌飲料とか……世界一有名なコーラも置いているが、今は違う。口の中が甘すぎる。
外に出たら自動販売機があるので、そっちで品定めする手もあるが、連れがジェラートを買う気で居るようだから、自分が冷やかしの付き添いになるのも何となく嫌だ。
どうしようかなあ、と何の気なしに店内を見渡すと、
「お」
レジカウンターの脇に、良いものを見つけた。
昔ながらの特徴的なガラス瓶に入ったラムネだ。
通年で冷蔵庫にも置かれているものだが、暑い今は、こんなのの方が販促になるのか、氷と水が張られた金盥の中で冷やされている。
見つけたらそれしかない気分になって、ずんずんと近づく。
それは、自然と精算用のレジに向かうのと同じことだから、ジェラートを手に取った方も、後を追った。
ジェラートを精算するときに、スプーンをどうするか尋ねられたので、連れに、これを食べたことはあるのかと訊いてみたら、まだ食べてないとのことだった。
食べてみるか訊いてみたら、今はいい、とのことだったので、スプーンは一つだけ貰って、袋は要らないと云った。
道の駅の敷地内には芝生の一角があって、そこにはパラソルのついた円形のテーブルと四脚のチェアで一組になったものが、三セットくらい置かれている。
いくら影を落とす役目を本人が担っているにしたって、攻撃的に眩しい白をこちらに照り返してくるパラソルには、とてもじゃないが、近づく気になれない。
建物に沿う形で、屋根の付いたウッドデッキがあるから、そちらを選んだ。
こちらは、道に向く形でベンチが三つ並んでいる。
道に向くと云っても、さっきまで歩いていた県道に向いている訳ではない。
道の駅の建物と公道である歩道の間には植え込みと駐車場があり、建物の前はロータリーになっていて、このウッドデッキとベンチは、バス停を兼ねている。
駄弁るつもりで寄り道したのではないから、ベンチに並んで座って直ぐ、それぞれ買い物した品の封を解く。
白いカップに満ち満ちに入ったジェラートへスプーンを立てると、まだ固い。
少し融かしてほぐすつもりで、指だけで摘まんでいたカップを掌に掴んで揉み、捻りを加えながらスプーンを何度か突き立てる。
「おうっ」
もう一人が、小さいながらに悲鳴のような声を上げた。
ラムネの瓶の口から、しゅわしゅわと白い泡が立っている。
ガラス玉を落とすのにしくじったらしい。
柔らかくなったジェラートの表面を掬った方は、特につっこむこともなく、スプーンを口に運ぶ。
勿体ないと、唇を尖らせて一先ず泡を吸い、飲むときにはちゃんと、瓶のくぼみにガラス玉を留めて、炭酸の刺激を喉で楽しむ。
視線を遠くに飛ばすと、田舎の山の向こうから、物凄く重量感のある巨大な入道雲が生えていた。
ここで一句
「すげぇ雲」君の右手のラムネの音
***
道の駅を離れて二百メートルくらい歩いたら、二人は分かれる。
まだ広い県道の、しかし信号機は無い交差点である。
押して歩いていたから気にしなくて良かったけども、分かれた後は自転車に乗るから、左側通行をしなくてはならない。
横断歩道の手前で、
「バイバイ」
と云いあった。
横断歩道を渡ってしまってから乗るつもりで道の左右を見ていた背中に、もう一人が、
「あ。じいちゃんに、ジェラート、めっちゃ美味しいって伝えてよ」
と声を掛けた。
すると、自転車の方は振り返り、
「そうなん? 云っとく」
と満面の笑みを浮かべた。
渡った道の向こうで、大きく手を振り、自転車をちゃんと漕いで離れていった。
歩きの方は、ズボンのポケットを探って、コードレスのイヤホンを取り出し、片耳に嵌めた。
家に着くまで、あと五分強は歩く。
明日の英語のヒアリング問題に備えて――何を云っているのか分からないながら耳を慣らすためにも――例題文を聞きながら歩く。
2024.12.25
2024年夏、車を運転しながら実際に見た入道雲が凄くて、句を思いついたんですが、普段俳句を嗜んでいる訳でもないので、どっかに投句というのも気恥ずかしく……。
頭に置いとくだけだと忘れそうだし短冊に書くなど尚気恥ずかしいので、句を取り敢えず残しておくべく、お話(散文)の方を添えた、という代物です。
それにしても季節外れですが(よりによってクリスマスて・笑)、散文の方が出てきたのが、このタイミングだったもので。