04. 婚約破棄のお値段
破られてからクシャっと丸められ、背後にポーンと放り投げられた、私とアンドローの婚約についての契約書。
紙くずとなったソレを見ながら、ピクリとも動かない私とセバスチャン。
それを見て、唇を片側だけ釣り上げ、顔から愉悦をとろりとしたたり落とすアンドロー。
「ククク、本当に笑えるな。こんな契約、意味はないんだ。契約を守らなくてはいけないのは、お前たち男爵家だけだ。うかつに契約書に署名などするからこうなる」
私はチラリと再度、捨てられた契約書に目をやる。なるほどねー。
たぶん、バーティス侯爵家とアンドローは、これまでも同じようなことを繰り返してきたのだろう。
自分たちより下位の貴族や商人を騙して契約を交わし、交わした後は爵位を盾にとって契約を蔑ろにし、自分たちの好きなように振る舞っていたのだろう。
その結果として、有力な貴族や商人からは相手にされなくなり、成り上がりと蔑むウチのような新興男爵家に頼るしかなくなったのだ。
進退きわまっている現状でも、まだ同じことを繰り返そうとしている。成功体験は忘れられないらしい。
一方、アンドローは捨てられた契約書を私が見やったのに気がつき、ニチャリと笑った。
「おいおい、グレース、まさか契約書が破かれたから、契約はなかったことになるとか思っていないよな?私は守らなくてもいい。だが、お前は守らないと駄目だ。ヤレヤレ、ここまで私が教えてやらないといけないとはな」
アンドローは歪な微笑みを浮かべたまま、私の方へと近づいてくる。
「なあ、グレース。この半年、私の婚約者となったことで色々学べただろう。例えば、そうだな――愛した男にまったく相手にされない辛さとかな」
キモー!私が愛した男って、誰のこと!?
「成り上がりには、いい勉強になったんじゃないか?半年もお前を私の婚約者として躾けたんだ。躾け代金をたっぷり払ってもらわないとな。だがお前も急な話で寂しいだろう?そうだな、婚約は破棄するが、私の愛人となることを許す」
私の眼の前まで来たアンドローは、私の頬に手を伸ばそうとして――
――ゴン!バタン!ゴロン~
私に足払いをされ、そのまま思いっきり床に転がった。
「痛っ!なにをする!」
足払いをされて、そのまま転がるなんて、日頃の訓練がなってないね、アンドロー君。
体幹訓練は大事よ?
床に転がったまま、罵詈雑言を吐き散らすアンドロー。私もセバスチャンも明後日の方向を向いて知らん顔。
ようやく立ち上がったアンドローを見て、セバスチャンはおもむろに上着の内ポケットから折りたたんだ書類を取り出す。
そして、その書類を丁寧に開き、ローテーブルの上に静かに置く。
あれ?丸めて捨てられた契約書は、コピーの方だったの?
「さて、アンドロー様、話を続けてもよろしいでしょうか?バーティス侯爵家が、この契約書の取り決めを破った場合の違約金は――」
「おい!しれっと新しい契約書を出すんじゃない!さっきのはなんだ?なぜ契約書がまだある!?」
セバスチャンの片眉が、わずかに持ち上がる。私には分かる。これは密かな得意満面ってやつ。
セバスチャン……分かりにくくて、分かりやすい。
「先程のアンドロー様が破り捨てられたものは、契約書の写しでございますが、なにか?」
「写しだとぉ!?なんだそれは!?そうか、偽造したんだな?まったく、これだから成り上がりはっ!」
アンドローがローテーブルの上に置かれた新しい?契約書を掴み取ると、セバスチャンの眼の前で縦、横、縦、さらに横と破り捨て、紙吹雪を巻き散らした。
セバスチャンはというと、すかさず袖口から書類を取り出し、そっとローテーブルの上に置く。
契約書、何枚あるのよ、これ。
まあ、アンドロー的には怒り狂うよね。
「ハッ!お前は契約書を何枚持っているんだ!?偽造された契約書など、何枚あっても意味などない!どちらにしろ、バーティス侯爵家は、いかなる契約にも縛られない!お前たちが守るべきことを取り決めただけだ!私達に逆らうとどうなるか、分かっているよな?分かったら大人しく、半年間の躾け代金を払え!」
いやいや、私たち、ヘルミル男爵家側が守るべきことなんて、ひとつもありませんが。
最初から婚約破棄を狙った、単なる時間稼ぎの婚約なので、契約の中に私たち側の義務はなにも記載されていないのだ。
それでも何も言わずに、こちら側の要求を飲んだのはアンドローとバーティス侯爵家だ。まあ、後でうやむやにしようという、彼らのいつものやり口なんだろうけど。
いったい、どれだけの人が騙されて、泣きを見たんだろう。
アンドロー、この罪は重いぞ?セバスチャン、やっておしまい!
私の指示をキャッチしたのか、セバスチャンのピンと張った背中が更にキュッと伸びる。
「さてアンドロー様、躾け代金と申されましても、そのようなものは契約の中に含まれておりません」
「なっ!まだ言うか!お前たちは言われたままに躾代金を払えばいいのだ!そうだな、半年もグレースを躾けたんだ。ヘルミル男爵家の事業の収益の半年分で良しとしよう」
おいおい、こいつ、ウチの半年分の稼ぎを掻っさらっていくつもりかよ。
これだから、いいとこの坊っちゃんは……。
「なるほど、アンドロー様は婚約時の契約を履行する気がないというわけですな。――それでしたら……」
セバスチャンは涼しい顔で、机の上の契約書を指し示す。
「アンドロー様、とりあえずお座りになって、契約書のこの部分を御覧ください」
「ふん!なぜ私がそのようなものを読まねばならぬのだ。私にとっては意味のないものだと何度言えば――」
「いえいえ、読むほどのものでもございません。こちらの署名の欄をご覧いただくだけでよろしいのです」
「署名?署名なら、ちゃんと私の父上の名が書かれているはずだが――こっ、これはっ!?」
セバスチャンが、にっこりと微笑む。いい笑顔。
「な、なぜ、ここに国王の御名が……!?」
「お分かり、いただけましたでしょうか?」
アンドローは、(彼の中では突然出てきた)国王の署名に驚き、顔を青くしている。
今回の私達の婚約は、某王家から話が来たものなので、某王家は仲介の労を取った形となっている。
どうせバーティス侯爵家はゴネるだろうと予想したヘルミル男爵家側は、当然、某王家を絡めて契約書を作った。
契約書に某王家が仲介した証明となる署名をしない限り、婚約話には乗らないとヘルミル男爵、つまり私の父さんが突っぱねたのだ。
やるときはやるんだよ、ウチの父さんは。
まあ、契約書くらい、ちゃんと読んでおけよという話。
「――う、嘘だ!こんな成金貴族との婚約に、王家が絡むはずがない!そうか!契約書も偽造なら、この国王の署名も偽造だな!」
アンドローの中では、契約書も国王の署名も偽造であると結論が出たようだ。また勢いが戻ってきた。
「クククッ、お前たち、終わったな。国王の署名を偽造するなんて、だいそれたことをしたもんだ。よし、分かった!ヘルミル男爵家の事業を、私にすべて譲ることで手を打とうじゃないか。そして婚約は破棄。グレースは私の愛人となることを許す。すべて解決だ。私が情け深くて助かったな。いや、礼はいらぬ」
ぽかーん。ほんと、ぽかーんだよ。
すごいな、こいつ。危険指定生物だよ。
私はアンドローの頭の中のなにかが感染しないように、そっと距離をとり、扇で口元を覆う。マスク替わりね。
その点、セバスチャンは立派だ。アンドローの近くにいても平気みたい。
「アンドロー様、こちらの契約書も国王の署名もホンモノでございます。こちらを御覧くださいませ。国王の印章が押されております。その下には数字が打たれております。この数字を出して、王宮のほうに問い合わせますと、いつ、どのような書類に国王が署名したかが分かるようになっております」
「な、なに!?つ、つまり……」
「つまり、ホンモノの国王の署名と印章だということでございます」
「――あ、あああああああああ!」
崩れ落ちるアンドロー。ようやく頭の中に意味が染み渡ったようですな。ホホホッ。
「さて、お話を戻しましょう。契約書に書かれている事前の取り決めをアンドロー様は、ひとつも守っておられません。ですので、違約金と慰謝料を払っていただかねばなりません。もし、払っていただけない場合は――」
「ど、どうなるというのだっ!?」
すがるような目でセバスチャンを見るアンドロー。だが、もう遅い!
「アンドロー様とバーティス侯爵家に代わりまして、王家の方に請求をまわすこととなります」
「そ、それは、それは不味いっ!」
「ちなみに、請求額は――こちらの金額となります。金額の算出方法も契約書に書かれた算式によって出されたものとなります」
サラサラと小さな紙切れに数字を書いて、アンドローに見せるセバスチャン。
震える手で紙切れを受け取り、一目見るなり、再度崩れ落ちて頭をかきむしるアンドロー。
「こ、こんな金額、冗談ではない!」
「はい、冗談ではございません。真面目な金額でございます」
アンドロー、終わったな。