#3 ゲートの先へ
「別れの挨拶は済みましたか?」
東の門にて、クライスはエルシアを見るやポケットに手を入れたままそう訊ねた。
「済みましたよ。それより詳細を教えてください」
「まあ、そう慌てないで、こんな、誰が聞いているかわからないところで話せません。詳細は王都についてからです」
人差し指を鼻先に当て、不敵な笑みを浮かべるクライスを尻目に、エルシアは鼻を鳴らして馬車に乗り込んだ。御者の男と耳打ちしていた様子から、彼も軍の関係者だろうと推察する。王都へ向かう馬車が頻繁に多いおかげか、幌を被るこの馬車は完全に溶け込んでいた。
それにしても――。
エルシアはふと思い立ち、幌を少しめくって後ろの景色を見た。
「ここ最近馬車の往来が激しい気がするのですか。これも何か関係が?」
「まあ、関係あるかないかはさして重要ではないですかね」
片足を伸ばした体育座りでクライスは荷物の樽を見ながらぼんやりと答えた。どこか、質問が耳に届いていないような態度にエルシアは怪訝な表情で振り返ると、目の前の樽がボンと爆発した。
「なんだ!?」
エルシアは体を横にのけぞらせた。馬は驚きのあまり前足を高く上げ、荷台では荷物が宙に跳ねた。御者は馬をなだめて揺れが収まると、爆発を起こした樽の蓋がひとりでに開く。中から出てきたのは弱々しい光を明滅させている小さな聖霊と、クライスの聖霊。
「ちょっと! 何してるんですか」
「盗聴でしょうね。こんなことに聖霊を使うなんて、なんと哀れな」
「だからってこんなことしなくたって」
エルシアは両手で器を作り、今にも力尽きそうな聖霊をすくった。微かに感じる熱を大切に、消えてしまわないよう胸に手繰り寄せる。その前で、クラスはエルシアを一瞥して興味なさそうに天を仰いだ。スーッと音が聞こえる程鼻から息を吸い、思いつめた表情になる。
「ですが盗聴は盗聴。こんな異常事態、誰が味方で誰が敵かはわかりません。探りを入れてくる人間に協力する聖霊も危険視しなければならない」
しかしエルシアは話が呑み込めなかった。
「異常事態?」
聞き返し、クライスの反応を待つ。
「ええ、それはもう、異常事態ですよ。少し話しておきましょうか。向こうについたら忙しいですし、ゆっくり話せる今のうちに」
クライスは言いながらエルシアに体を向ける。緊迫したような真剣な表情に、どんな内容を告げられるのかとエルシアは息を呑んだ。
「王子が家出されました」
「…………なんだって?」
間が空いて、エルシアは目を丸くして驚いた。手の中にある聖霊も同じ気持ちか、消えかけていた光が強く灯る。エルシアは慌てて胸に手を押し当てクライスを見た。幸いにも彼はまだ気づいていない。
「噂ですが、勉強に嫌気がさしたのでしょうね。王などやりたくないと、そのまま家を出たそうです」
「ちょっと待ってください? 家出した王子の捜索をするために、私は腹を蹴られたのですか? それも思いっきり。王子が隠蔽に長けていた記憶なんてありませんし、わざわざ私を連れてこなくても見つけられるでしょう?」
「私だってただの家出でわざわざ君を呼びませんよ」
「どういう意味です?」
「無駄話はここまで。ここからは王都に着いてからです。さあ、そろそろいいでしょう。その手の中にある聖霊をよこしてくれませんか?」
「断る。納得できません」
怪訝な表情をクライスに向け、聖霊を守るようにエルシアは拳をぎゅっと握って身を逸らした。
「エルシア。もうその聖霊に力はありません。さあ、こちらに」
クライスの手がすっと伸びた。変わらない表情も今は少し強張っているように感じる。エルシアはあどけなく身を引き、しかしすぐに表情を硬くした。
「もう平気でしょう。主人の元に戻る気はないようですし、この聖霊は秘密を漏らさない」
「何を根拠に?
「根拠はありません。なんとなく、そう思うのです」
「エルシア。ふざけている場合ではありませんよ?」
「ふざけてなんかいません。殺すぐらいなら、私が取り込みます」
決意を固くしたように呟くと、エルシアは聖霊を飲み込んだ。
「何をしてるんだ! 吐け! 吐きなさい!」
機敏な動きでエルシアに迫り、加減も考えずに背中を叩いた。
「クライス。彼は大丈夫なのか?」
御者は思わず振り向いて、そのせいで馬車が大きく揺れた。エルシアはそのまま荷台に倒れ、腹の中をかき回されるような痛みに体を小さく縮めた。
「いいや、大丈夫じゃない。予定変更だ。近くの街へ行く。医者に診てもらおう。いや――」
耳が次第に遠くなっていくのを感じる。クライスが必死に御者に指示を出しているも、何を言っているかはわからない。
「了解」
御者が首を縦に振り、何を了承したのだけはわかった。病院に行くのだろうか。そんなことしなくても時間が経てば痛みは治まると、虚ろな目のエルシアは訴えようと手を伸ばす。
体から力が抜けて、伸ばした手はぐったりと荷台に落ちた。声も出せずにその場に倒れ、視界が徐々にぼやけていった。
「ったく。頼むからもってくれよ」
焦燥が垣間見えるクライスの声色が微かに聞こえる。瞼は重く垂れ下がり、閉じる瞬間、エルシアの意識はプツンと切れた。
生きた心地はしなかった。だが目が覚めると腹の痛みも気怠さも最初からなかったみたいに体は元気だった。てっきり病院に向かったと思っていたが、病院のイメージとは程遠い、四方を石レンガで囲まれた薄暗い部屋にいる。光源は天井から鎖でつるされたランタン一つだけであり、苔の匂いと湿気の多さに息苦しさを感じた。すぐにでも立ち去りたいと脱出を試みたが、エルシアは椅子に縛られており、手も足も動かせない。
「どうなってるんだ?」
一通りもがいて諦めた時、後ろから扉の開く音がした。
「やっと目が覚めましたか。他人の、それもひどく弱った聖霊を取り込むなど、下手したら死んでましたよエルシア」
クライスが部屋に入ってきた。彼は机を挟んだ向かいの椅子に腰かけると、背もたれに体を預けて足を組む。椅子を引き、机を押し、長身のクライスは自分のスペースを確保しにかかったが、そのせいで机はエルシアの腹を押さえつけ、クライスのつま先がエルシアのつま先にこつんと触れた。
「……ここは?」
「地下牢ですよ。他人の聖霊を取り込んだらどうなるか、習わなかったのですか? 死を免れた場合、取り込んだばかりの聖霊が自我を持てば、宿主の肉体を乗っ取ろうとする。聖霊に暴れられでもしたらたまったもんじゃありませんからね。悪いですが、急遽ここで話をさせてもらいます」
クライスは手を組んで机に置き、真面目な雰囲気を醸し出す。
「移動中にも言いましたが、王子が家出をしましてね。面識のあるあなたに捜索を行ってほしいのです。国王に大聖霊の加護があることはご存じですよね?」
「国王の証ですよね」
「ええ。そしてその力は王都裏にある山の頂上、カルデラから授かり、授かったものは国王としてこの土地を納める権利を得る。ただ、その力は十二年周期で一度返さないといけない。その返還時期が来年の十二月。ただ来年は手続き引継ぎ行事に外交等忙しいので、残り猶予はあと一年でしょうか。もう一度現国王が王座を引き継ごうにも、十二年以内に死去した場合その力は返されません。明らかに返せないとわかる者に大聖霊は力を与えないでしょう。一週間経っても王子が見つからないこの状況はかなりまずいのです。他を探すにしても、力を与えるにふさわしい王を吟味するには時間が足りませんからね」
「一週間たって見つからないんじゃ、もう国内にいないのでは?」
「ええ、国内にはいない。それはわかっております。実際どこにいるかと問われれば答えられないわけでもない」
「え? どういうことですか? わかってるならそこを集中的に探せば――」
「広すぎるのですよ。何せ、そこはゲートの向こうにある異世界なのですから」
「そう……です……か……?」
流れるままに飛び出した異世界という単語に肯定しかけたが、言いながら違和感を持った。
「今なんて?」
「信じられないでしょうが、異世界ですよ。言語も生き物も文明も、全く異なる世界です」
エルシアは空いた口が塞がらなかった。からかっているのかとも思ったが、嘘をついているようには見えなかった。マルタ男爵の元でゲートの実験の手伝いはしていたが、その向こうに別の世界があるなんて想像すらしていなかった。しかし――、
「げ、ゲートの実験は打ち止めになったと、マルタ男爵から教わったのですが」
「秘密裏に再開していたようですね。私も最近知ったことですから、その時は君みたいな顔をしましたよ」
鼻で笑うクライスを見て、エルシアは不機嫌な顔になる。「それで?」と半ば苛立ちを募らせてから、真面目に作戦の詳細を問う。
「私はどうするんです?」
「まあ、おおむね想像されている通りです。異世界へ行き、王子を見つけて連れ戻す。それが君の任務です。ただ出発に際して一週間ばかり君に宿る聖霊を一つ貸していただきたい。別に悪いようにするわけではありません。言語を覚えさせないと。ああ、それと半融合は使えますね?」
「……たぶん、おそらく……ですけど。最近は使ってないので」
自信なさげに、徐々に消えそうな声になるエルシアをしばし見つめ、クライスは急かすように机を叩いた。
「では今すぐやって見せて」
「今ですかっ⁉」
「早く」
「わ、わかりました」
エルシアは半ば戸惑いながら下を向いて力を込めた。思い浮かべたのは小さい頃の嫌な記憶。反乱の起きたあの朝に、聖霊に体を動かされた感覚を思い出す。
突如、エルシアの左目がぼんやりと光り出す。絵の具を水に垂らしたみたいに瞳はじんわりと金色に染まり、比例して、胸の真ん中が焼けるように熱くなった。胸がつかえたように息苦しくなり、歯の隙間から鋭い息を漏らしている。もがくエルシアをクライスは冷酷に見つめており、助けようとか、心配するとか、そんな感情を一切出さなかった。
「うぐっ」
苦しそうな唸りが鳴る、しかしそれを機に熱はすぐに引いていった。胸のつっかかりも嘘みたいに引いていき、乱れた呼吸も整い始める。
座っているだけでもわかる、内側から力が湧いてくる感覚。動かなった縄もさほど力を入れなくてもちぎれそうだ。エルシアは久しぶりに味わう感覚に高揚感を隠せない。
「適正ありですね」
クライスは勢い良く立ち上がった。
「エルシア。今から君は教育隊に所属する。一週間の訓練期間を設けた後、第四軍団に編入させる。そしたら王子探しの開始です」
口から召喚した聖霊に縄を切らせ、クライスはそそくさと部屋を後にした。
結局医者は来なかった。外に出てわかったが、眼前にあるのは影で黒くなった重厚感のある石の城塞であり、周りに広がるのどかな草原は、マルタ男爵所有の敷地よりも断然広い。しかし病院でない場所に連れてこられたエルシアはクライスに対する信用を一つ下げ、荷台に手をついて乗り込んだ。
馬車に揺られて三日、王都に着いて一週間。詰めに詰まった訓練内容も過ぎてしまえば一瞬だった。突入メンバーは他にもいるのか、エルシア含めた十六人がゲートの前に集められる。図書館を丸ごと改造して作った転送室。この部屋をそう呼ぶのはゲートへ続く階段に立つ副司令官ことルイトン・アルゴリズムだった。
「私は副司令官のルイトンだ。まだ現実感のない者も多いと思うが、このゲートをくぐれば異世界に行く。嫌でもこれが現実だと突きつけられるだろう。だがひるんではいけない。報酬は命を懸けた者だけが与えられる。異世界の言語は君たちの聖霊に覚えさせた。肌身離さず持っていれば困ることはない。目標は第一王子、ラントア様を見つけて連れ戻すこと。後はすべて教えた通りだ。以上、幸運を祈る」
心構えなどできていない。ゲートを前にして尻込みしている自分がいる。しかし彼らは待ってはくれない。副司令官はゲートに聖霊を預けるとスイッチを入れた。マルタ男爵の元と違い、エネルギーの供給は安定している。
「では突入だ」
ゲートが白く光り出す。中心に煙のような靄が現れた。渦を巻いたそれに吸い込まれるように、訓練生は次々と突入していく。
「次っ!」
いよいよエルシアの番が回ってくる。教官に背中を押される形でエルシアはゲートに中に身を投げた。