#2 昔の記憶
「なにあれ……」
エルシアはとっさに扉に向かった。父上に知らせようとノブを捻るも、扉はびくとも動かなかった。激しく戸を叩いても、誰も返事をしない。
いつもは使用人のケニーアが起こしに来る。食事の準備や屋敷の清掃の忙しさだって扉越しから伝わってくる。こんな異常事態なら尚更騒がしくなるはずだ。
明らかな異常事態にも関わらず屋敷は口を閉ざしたみたいに静まり返り、直感で独りぼっちだと理解した。
「ケニーア? みんな?」
エルシアは泣きそうな声で扉に近寄った。すんなり開けられるはずの扉も、この日はピクリとも動かない。子供なりに考えて、ふと思い立ち、窓に駆け寄ったエルシアは飛び降りようと顔を覗かせた。しかし三階から見下ろす地面はやけに遠い。腕に力を込めても飛び降りる勇気は湧いてこず、首を横に振って断念した。
聖霊と融合すればあるいは可能かもしれないと、しかしエルシアにその力は備わっていない。
「聖霊さん。扉を開けてください」
思春期前の高い声質でエルシアは体内から聖霊を呼び出した。口から飛び出した聖霊は自らを強い光で包み込み、熱を持った光線を扉に向けて照射する。焼け落ちる赤い線を描きながら、長方形に切り取られた扉は重々しく廊下側へ倒れた。
聖霊は仕事を終えるとすぐにエルシアの口の中へ戻っていった。
一連の流れを少し離れて見守っていたエルシアは聖霊が体内に戻ると同時に体を大きく揺さぶられた。
「うわっ。何するんだ」
引っ張られるようにたたらを踏み、自分の思いとは正反対に扉に向かって足を進める。聖霊が体を制御している。エルシアの双眸は黄金色に灯り、聖霊の意思がエルシアの体を動かした。
力が内側から溢れてくる。歩いているだけでも体の動きがいつもより良好に感じ取れる。聖霊もこの異常事態を知らせに行きたいと思っているのだろう、廊下へ一歩踏み出した時だった。
水たまりの感触がした。
足の裏から悪寒が駆け上がり、下を見てエルシアは固まった。
水たまりではない。倒れた扉の下に薄く広がっているのは、バラよりも濃い真っ赤な液体。その正体を確かめるように廊下の奥に目をやると、屋敷を支える使用人が人形みたいに転がっていた。
鉄の匂いに鼻を抑え、それが水たまりでないとわかると、「ひえっ」と情けない声が漏れた。広い廊下は鮮血に覆われ、顔の見知った使用人たちが死体となって倒れている光景はそう簡単に忘れられるものではない。
生きた心地がしなかった。
今こうして人々が普通に暮らしている姿すらも幻で、実はもう死んでいるではないかと。
エルシアは心ここにあらずといった様子で外を眺めていると、目の前を馬車が勢いよく駆けていった。喧騒を取り戻したようにエルシアの耳に聴き馴染んだ声が届く。
「――聞いてんのか? おーい!」
「あ、ああ……。なんの話だっけ……」
「聞いてなかったのかあ? だからさあ。俺あ平和になったこの街が好きってことお。お前はいったいどうなんだ? あ?」
「好きだよ。大好きだ」
適当に答えるエルシアだったが、ベンは満足そうに頷いている。
「そりゃ、よかった。おかげで俺が昼間っからビール飲めるって話だあ。感謝あ!」
顔は赤さを増しており、いよいよ出来上がった酔っぱらいはもう正常な判断ができるようには思わない。意味のない会話を続ける気のなかったエルシアは席を立とうと強く決めた。
「それじゃあ、私はここで失礼する。頃合いを見計らってこちらから訊ねるよ」
「おう!」
わかったのかわかってないのか。ベンはジョッキを持ち上げ、無邪気な笑顔をエルシアに向ける。
エルシアが酒場を後にすると、瓦礫を撤去しているはずの聖霊がやってきた。
「あれ? ついて来たんですか? もう片付けを?」
聖霊は小さく左右に揺れた。やっていないという合図。
驚いたエルシアも、「ああ」と納得したように呟き、丸くなった瞳をすぐに半眼にした。
戻ったら瓦礫の撤去だと考えると、帰るのが少し億劫になる。気乗りはしないが、力だけは強い聖霊。機嫌を損ねた日には命がいくつあっても足りないだろう。帰りたそうな聖霊を見て、エルシアはおとなしく帰路に就いた。
街を出ると騒がしさが一気に遠のいた。馬車が駆ける姿はなくなり、風に揺れる葉っぱの音が耳に残って心地よい。森の中の屋敷につき、家の裏手に隠れている未だ散らばる瓦礫を集めようと聖霊の前に一歩出ると耳を引っ張られた。
「いたたっ。どうしたんです」
聖霊の身から飛び出た光の鞭が、器用にエルシアの耳を捉えていた。ついて来いといわんばかりに屋敷の中に連れて行こうとする。
「そんなに急がなくても……」
そういうと、聖霊はすぐに放してくれた。
「ったく。あまり雑に扱われると悲しくなりますよ」
エルシアは呟き、耳をさすりながら反対の手でドアノブを握る。手前に引こうと力を籠めるも、扉は開かなかった。
「あれ、鍵?」
エルシアはすぐに眉をひそめた。不用心なマルタ男爵が今日に限って鍵を閉めたことに違和感を覚えた。そもそも家の裏の壁は今朝の実験でなくなっている。嫌な予感がエルシアの脳裏を駆け巡った。
「まずい」
呟くのも無意識に、エルシアはとっさに家の裏に駆けていく。
エルシアが帰ってくる少し前、応接室ではちょっとした緊張感が走っていた。くびれた足を持つテーブルを挟み、マルタ男爵と一人の男が向かい合って座っている。軍服に身を包んだその男は足を組み、吊り上がった目を狐みたいに細めて微笑んでいる。
腹の内で何を考えているのか、部屋に案内してから一向に話始めないこの男にマルタ男爵は内心苛立ちを募らせていた。腰に携えた剣を一瞥し体を強張らせて待つこと三分。
「あれ? お茶とかでない感じです?」
「お生憎じゃが、うちに使用人はいないのでね。ここに案内するまで誰とも会わなかったじゃろ? クライス・キャットよ」
「私を知っておりましたかマルタ男爵。研究ばかりで人に興味ないのかと」
「ばかいえ。研究ばかりはそうじゃが、人に興味がないわけではない。わざわざこんなところに軍団長殿が来た理由なんて、さっきから気になってしょうがないほどじゃ」
「私だって、綺麗な景色を見るために訪れることはありますよ?」
「観光かね? にしてはちと時期が早いようじゃが。用件はなんだね? クライス・キャット」
クライスは間を溜めるように沈黙を挟み、表情一つ変えずに口を開いた。
「ある少年を探していてね。その子に用がある。元侯爵家の三男。名はエルシア・ポーレット。聞いたことあるでしょう?」
「居場所を聞いてどうするんじゃ」
「あなたが知るようなことではありませんよ。ただ急を要する事態でしてね。素直に教えていただかないと困ります」
クライスは前かがみのまま組んでいる手を解き剣の柄を愛でるように撫でた。それを見て、マルタは膝に置いた拳を固くする。
「ふん。これだから軍じゃ嫌いなんじゃ。老いぼれのわしがそんな脅しに屈しるとでも?」
「屈してもらわないと困ります。こちらも仕事ですのでね。それにこれは、国王直々に下された命令です」
重くのしかかるようなその言葉と共に机に出されたのは勅許状だった。聖霊の母と伝えられている頭に羽の生えた女神の印章が押され、紙の縁は金で装飾されている。
「別に私情で判断しているわけではないのですよ。国王の命令は絶対だと、男爵のあなたならわかることでしょう?」
クライスの右手に収まった柄。目の前に出された勅許状。これらを前にして嘘がばれれば、良くて爵位剥奪、悪くて死が待っている。
言うしかないのか。
心中で深々と呟いたマルタは居場所を言おうと口を開く。その瞬間だった。クライスの背後の壁に赤い筋が縦に入った。
「……どうした?」
口をあんぐりと開けたままのマルタに、訝しげな顔を浮かべたクライスはその視線を辿るように後ろを向いた。石の壁に刻まれているのは熱線だった。それは穴を開けようと円を描いて進んでいく。クライスは立ち上がり、動じることはなく距離を取った。冷静に剣を抜き取り、聖霊を指先に灯す。その流れるような所作に、マルタは壁の穴とクライスを交互に見る。
「一体何が起こっとるんじゃ」
「壁際に寄ってください。聖霊を出して自分の身を守って」
「わ、わかった」
マルタは言われた通り、壁際に寄って聖霊を指先に灯した。
熱線は止まることなく円を描き終え、壁が砕かれるとほぼ同時、目の前とは別の荒々しい音が扉の方から飛んできた
「動くな! って、隊長!?」
扉から飛び込むや否や、マルタ男爵の前に立つ人物にエルシアは振り上げた剣を思わず止めた。勢いを殺しきれずに前によろけ、蹴り上げようと伸ばしたクライスのつま先の前で止まる。土で汚れた白色の靴。泥のにおいがつんと漂い、エルシアはばつの悪そうな表情で顔を上げた。
「ど、どうも。お久しぶりです」
苦し紛れの挨拶にも、クライスは無表情を貫いた。とはいえ、クライスはエルシアだと認識してくれているようだった。クライスの足が引っ込み、エルシアも振り上げた剣を床に置く。壁から飛び込んできた聖霊に苦笑いを浮かべてから、両手を開けて一歩近づいたその刹那、クライスは表情一つ変えずに引っ込んだ足を再び振り上げ、エルシアの腹部に蹴り入れた。
「うっ、なんで……」
煮えくり返るような痛みが腹部に襲い掛かった。弾き飛ばされるようにエルシアは壁に体を打ち付ける。マルタも聖霊も突然の出来事に呆然と眺めることしかできなかった。ひびの入った石壁にぐったりと座り込むエルシアを見て、エルシアの聖霊はとっさに体当たりを慣行した。その身を鋭く引き伸ばし、心臓めがけて飛び込んだが、しかしクライスの反応速度には追い付けなかった。
「聖霊!」
張りのある通った声が通ったと思えば、クライスの指先に聖霊が灯っていた。クライスの聖霊は一際大きく輝くと飛び込んでくるエルシアの聖霊めがけて稲妻を放つ。部屋が白と黒に明滅し、エルシアの聖霊に金色の稲妻が直撃した。尖った体もすぐに丸くなり、よろよろと力をなくしたように高度を下げる。床に落ちた聖霊は這うようにエルシアの口の中へ戻っていき、それを見届けたクライスは大きなため息をついて剣を納めた。
「なんで、隊長がここに?」
腹部を抑えて座り込むエルシアは顔をしかめてクライスに問うた。
「今は団長ですよエルシア。あなたを探していたんです。それに、いきなり襲い掛かってきて「なんで?」はないでしょう? 声で誰かわからなかったのかい?」
「いつもは鍵なんかかかってないんだ。裏の壁も壊れているのにご丁寧に鍵なんてかかってたら、普通疑うでしょ。暗殺とか」
「……えっと、何を……?」
本気で困惑した表情を浮かべるクライスに、付け加えるようにマルタが口を挟む。
「反乱のことだろう。ポーレット家の悲劇は知っておるじゃろ? エルシアがまだ幼かった頃、反乱で父も母も失ったんじゃ。それで心配したんじゃろ、エルシア。あの時期は全国的に反乱の機運が高まっていた。あれから何も起きてないし、……動物みたいな殺人は心配することはないじゃろう」
動物みたいなを強調し、マルタはクライスに半眼を向ける。
「なるほど」
マルタの嫌味に気づかないクライスは顎をさすりって呟いた。すとんと腹に落ちたように納得するクライスを前に、しかしエルシアは不服そうなままだった。
「あれは計画された反乱だ。偶然なんかじゃない」
はっきりとした物言いに、和やかになりつつある空気感はすぐに消えた。
「軍だってすぐに来てくれなかった。一反乱兵が貴族相手にあそこまでの打撃を与えられるとは思えない。当時おまけに父はゲートの開発に反対していた」
「エルシア……」
白い眉を八の字に、肩を落とすマルタからエルシアは目を逸らし、クライスを睨みつけた。
「どうして救援に来なかったんだ」
「当時下っ端だった私に問われても困ります。そもそも団長になったところで、真相に迫る情報なんて回ってきません。あなたも軍にいたのですから、おわかりでしょうに」
「それは……」
ごもっともな意見に肩の力が不意に抜けた。エルシアは不貞腐れたようにそっぽを向き、頬を膨らませた。
「ともかくとして。エルシア、あなたにはすぐに来てほしいのです」
「どうして」
「申し訳ないですが、返事は「はい」しか受け付けていません。あなたがこの作戦に参加するとお返事するまで詳細は話せない決まりなんです。ただ、言えないことばかりではありませんよ? 王はこの作戦を完遂すれば莫大な報酬を与えることを約束しています。地位も名誉も欲しいまま。望むのならば元の爵位以上の地位に行くことだって可能です。どうしても反乱の真実が気になるのなら、地位を得て心行くまで詮索すればいいんじゃないですかね」
「…………」
エルシアは口を噤んだ。視線は動揺に揺れ、それを隠すように下を向いた。
爵位が戻る。父のような立派な貴族になれる。暗闇に降りる一筋の光を追うように、エルシアの瞳に輝きが戻る。しかし、エルシアはかぶりを振った。どれだけ立派になろうとも、反乱が起きればすべてを失う。
「そこまでして真実を暴こうなんて――」
エルシアは言い訳をするように呟いた。目を合わせようともしない彼に、クライスは困ったように息をつく。しばらく間を置いた後、エルシアに近づきながら、
「まあ、あなたが何と言おうと私は連れていくつもりですけどね? 王の命令には逆らえません」
エルシアの前にしゃがみ込んだ。
「王の命令……?」
エルシアは思わず顔を上げる。痺れるような腹の痛みも、今は幾分かましになった。
「私が何をしたというのです?」
「何度も言っていますが、詳細は話せません。元侯爵家のエルシア様ならおわかりですよね? 王の命令に逆らったらどうなるかなんて」
「知っていますよそりゃ。……ただそんなやり方、いつか付けが回ってくる」
吐き捨てるようにそう言うも、クライスは頬を緩ませ笑顔を返した。柄は手から離れないが、その笑顔は穏やかだった。エルシアはそれを一目見て、疑心にかられたように顔をしかめる。
「私の台詞、聞いてました?」
「聞いてましたよ? ぜひそれを任務完遂ののち王に直接伝えればいいんじゃないですかね?」
その台詞にエルシアはこいつが心底嫌いだと再認識した。探られたくない他人の無意識にずかずかと土足で踏み入ってくる。天然に言い訳は通じない。自分の吐いた言葉が全く通じないところが、へたに嫌味を言われるよりムカついてくる。感情が感じ取れないクライスの表情と相まって悔しい感情が膨張していた。
エルシアは大きく息を吸い込んだ後、しばし止めて、重々しく吐いた。
「王の命令、でしたよね。最初から拒否権なんてないんですから。……いちいち私の反応を伺うこともないでしょ」
首を横に振りながら、最後、吐き捨てるように呟いた。クライスにはそれがどう映ったのか、鼻で失笑してから「よいしょっ」と年寄りみたいな声で立ち上がる。
「良い返事をいただけて何よりです。街の外に馬車を止めてありますので、別れの挨拶がすんだら東の門に来てください。私は先に行ってますので」
そう言ってクライスは早々に屋敷を後にした。
騒がしさが一気に遠のく屋敷の中で、エルシアとマルタはしばらく沈黙していた。それを破ったのは強い風が窓をカタカタと叩いてから。マルタがエルシアに歩み寄り、腹の様子を心配した。
「平気かエルシア。どうしても嫌なら行かなくてもいいんじゃぞ? 最悪、一か八かでゲートに飛び込むのも手じゃ」
眉を曲げて心配するマルタに、エルシアは脱力したように微笑んだ。
「ゲートは今朝壊れたじゃありませんか。大丈夫です。修理の依頼は出しておきました。何かあれば大工のベンに言ってください。それに……、報酬の件、少し魅力的に見えてしまったので」
エルシアは立ち上がり、服についた砂埃を払った。
「だが、召集される理由は分からない。危険な仕事の可能性も高い。それでも行くのか?」
「マルタ男爵。私はもともと居候です。いつまでもお世話になるわけにはいきません。それに私の聖霊は強いようですので、大抵のことは大丈夫でしょう。クライスたい……団長もそういっておられましたし」
訂正を軽い咳払いでごまかしつつ、真摯な態度を向けるマルタと目を合わせた。
「私が拒否したらこの街に迷惑がかかるでしょう。それは私も嫌です。ですから、……ここで失礼いたします。今までありがとうございました」
一泊おいて、エルシアは謝罪と礼を言った。
マルタは何か言いたそうに口を半開きにしたが、言葉は出てこなかった。伸ばした手も抱きかかえるのをためらうように、エルシアの肩に触れるか触れないかの距離を保つ。それから、半ば諦めたように何度も頷いて、
「……そうか」
エルシアの肩を噛みしめるように掴んだ。そのいろいろな思いが込められた返事にエルシアもどう返せばいいかわからない。背中を抑えるがまま一歩前へ、
「気を付けるんじゃぞ」
その言葉に一礼して、エルシアは屋敷を後にした。